「種子島旅② 鉄砲伝来について」

西之表港を見下ろす高台には、代々この地を治めていた種子島家の墓地(御拝塔墓地)があります。
種子島家は古く鎌倉時代から続く家系で、戦国期に島津家に合併吸収されても、廃絶されることなく、島主である身分が保証され、「島津家の一門」といった礼遇を受け続け、明治時代になりました。今でも直系子孫がおられ、真新しい現代風のお墓が一つありました。
泡のようにまた、露のように消え逝く武将が多い中、こうして現代まで直系子孫が遺っている/続いている、その処世術と言いますか・・・その有り様は、学ぶべきところは大きいです。
種子島家赤尾木城址に建っている、「種子島時堯(たねがしま ときたか)像」。1528年~1579年在世の種子島氏第14代島主で、この方の時代に、種子島に鉄砲が伝来しました。
1543年、偶然漂着したポルトガル人。船を修理する間の半年程の間に、ポルトガル人の持つ鉄砲に着目した時堯は、大金を払って2挺の鉄砲を購入。
と、ここまでは学校の歴史教科書で知っていました。ここからは、司馬先生の本と、「種子島開発総合センター 鉄砲館」で学びました^^♪
種子島は今でも無尽蔵に【砂鉄】がとれる島なんだそうです(驚)☆
ですので、あらゆる鉄製品を作る職人が時堯の時代、島にたくさんおりました。
種子島は鹿児島の大隅半島から40数キロしか離れていませんが、少し沖合を流れる【黒潮】に乗って、紀州や大坂、京に行き・・・ですので当時、文化的には薩摩の内陸部よりも当時の京(中心文化)との行き来が圧倒的に多く、言葉や風習は関西の文化圏に所属していたそうです(驚)☆
加えて、種子島の人たちはハイレベルな航海術を持ち、漁だけではなく【貿易】もしており、モノや人の行き来が頻繁にあり、種子島で生産された日本刀などの鉄製品が大陸(中国や東南アジア)に輸出されていたそうです。
時堯の凄いところは、自らの大金でサンプルの鉄砲をポルトガル人から購入し、島の鍛冶屋に鉄砲を新たに作らせ、、、それが試行錯誤の末、量産化に成功したにも拘わらず、その技術を自分だけのものにすることなく、島を行き来する貿易商人を通して一気に日本全国に拡めたということです。
日本全国の山城などの従来の戦術では攻めにくい不落の城に篭もっていた、たくさんの権力者たちは、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といった、たくさんの鉄砲を購入出来る、莫大なカネや権力のある人たちに一気に潰され、あっという間に戦国時代が終わったということです。
時堯からすれば、自分がこの国で最初に鉄砲に出会い、最初に作ったにも拘らず結局、自分よりも遥かに経済力のある薩摩の支配下になってしまった・・・という、悲しい結果になってしまいましたが、今でも時堯の像が凛と建っている姿を観、今でも西之表の人たちから尊敬されているんやなぁ・・・と感じました。
もしも鉄砲伝来が遅ければ、我が国における戦国時代はもっと長く、不安定が状態が続いたかも知れませんね。
なお、西之表は城下町=士族が集う場所で、中種子町、南種子町は米を作る農家が多い場所で、西之表=搾取する側、中種子町、とくに南種子町=搾取される側なので、そのワダカマリが今でも微妙~にあって、それが人口減少が激しい島であっても未だ一つの市町村にならず、一市二町という別々の行政区になっているのでは?と、司馬先生はおっしゃってはりました。