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2008/01/07のBlog
半年ぶりぐらいの更新です

自閉傾向のある子どもの中には音に過敏な子がいる。
すべての音が等しく耳に入ってくるらしい。
また自分の感情をうまく言語化できないため、
音に我慢できずパニックを起こしてしまう。
彼らは工事現場で勉強しているようなもの。

難聴の子どもがいる。
この子は補聴器を使っていて、
自閉傾向の子と同じように音が捨象できない。
彼らも工事現場で勉強しているような状況なんだけど
補聴器を外せば逆にほとんど音のない世界になる。

ADHD(注意欠陥多動性障害)の子どもがいる。
この子たちは気が散りやすく
ちょっとした音でも気になり、
様子を見にいきたくなる。
他の子どもがその音に気づいていないと思い、
他の子どもに知らせてあげるために動き回る。


このように彼らの気になる行動にはそれなりの理由がある。
しかも、他者も自分と同じように感じていると思い、
こんな工事現場のような環境で勉強できない自分に対して
自己嫌悪に陥る場合もある。

この3人の子どもたちが必要としているのは
先生の声しか聞こえない環境を整備してあげること。
音環境が彼らが気になる行動をとることをアフォードしていたんだよね。

解決するには、子どもたちへのしつけではなく
遮音された少人数の個別学習室を準備すれば良い。
遮音された少人数学級ではこの子たちが気になる行動を取ることをアフォードしない
ので、アンダーアチーバーになる可能性は減る。

参考文献はこちらをご覧ください。
2007/06/28のBlog
[ 16:14 ] [ NPO活動アート化宣言 ]
NPO活動がアートであると言うことは
絵画や演劇、音楽と同様、最後は好みの問題だと言うこと。
すなわちNPOとしての基本的な技量さえあれば、あとは
自由に、
主観的に、
ありのままに、
表現すれば良い
と言うこと。

NPO活動にとっての技量とは
基礎的な事務能力に加え、
シナリオ
表現力
演技力

でも、必ずしも最初から完成されていることはない。
完成していくプロセス自体も作品だし、
観客や支援者、パトロンが育てる面もあるから。

そして、必ずしも量にこだわる必要はない。
もちろん量にこだわっても良いんだけど、
でも、こだわれば、営利か政治になってしまう。
営利は量を拡大する方向に
政治は量を制限する方向に
向かうから。

少ない人から多くのお金をもらう作品もあれば
多くの人々から少額のお金をもらう作品もあるけれど
できれば、多くの人々が少なくないお金を多くの作品に
払うのが良いなぁと思う。

例え一人でも良いから、
自分達の活動を
観て、
知って、
感じることによって
その人の享受能力が高まり、
そして、私達のミーム(文化的遺伝子)を人々に
伝える中継点として機能してもらい、
それを受けた多くの人々が自分達の身近な作品を
支援したり、あるいはその人自身がアーチストになっても良い。

ただその人が、こちらの意向ではなく、
その人なりの解釈してしまうのだけど、
それは必ずしもマイナスではない。
なぜなら、それは多様性=可能性を拡大していくこと
につながるのだから。

【関連する記事】
NPO活動はアートだ!
ブリコラージュとしてのNPO活動
今日は多摩市市民活動情報センターでブログセミナーです。

今日の参加した皆さんはとても優秀です。
感激しました!

【TBした記事】
祝!ブログ開設♪
2007/02/17のBlog
[ 09:07 ] [ シンポジウム・イベント参加記録 ]
昨日、常磐線沿線NPO担当者会議共同事業
『Happy運営のツボはこれだ!』に参加しました。

基調講演は中央労働金庫山口郁子さんでした。

とてもゆっくりとした丁寧な説明でわかりやすかったです。
さすが金融機関の方だなぁと思いました。
勢いに任せて成り行き任せの私のプレゼンとは大違い。
見習わなきゃ!

「実際にあったこんな問題」

「NPO法人になったのに、お金が入ってこない」
「NPOを立ち上げたが、何をすればいいですか」
「こんなにいい事をやっているのに、理解されない」
「手当たり次第助成金に応募しているが、採択されない」
「企業に寄付の依頼に行ったが、協力が得られない」
「お金のことを、私にはわからない」


どこでも一緒なんですね。
2007年問題で益々こんな質問が増えるかも・・・
”市民活動を支えるお金”とは?

●地域の課題解決を図る=成果
●「出し手」と「受け手」が理解し合っていること。
●「出し手」と「受け手」が共通の目的を持っていること。
●「市民から必要とされる」活動に活かされること。
●人や組織が「連携」し、「参加」する活動に活かされること。
●「担い手が育つ」活動に活かされること。
●活動によって、市民からの信頼・共感がさらに深まること。


資料の中に「お金の出し手が取り組むべきこと」ってあって
結局は「出し手側もなぜお金を出すのか?実現したいことは何か?」
を真剣に考えましょうと言うことになるのだけど
これがなかなか難しい・・・・

下記の記事を参考くださいませ。
企業とNPOが協働するために
失敗から学ばず、進歩なし
企業倫理をどう問うか―グローバル化時代のCSR


2007/02/12のBlog
"いじめ防止ネットワーク"さんと相互リンクしました。

このサイトは個人がボランタリーで開設されたものです。
SOSメールがあり、いじめられている子どもを知らせることができます。
掲示板でいじめで悩む人が意見交換もできます。
ただSOSメールを送った後の対処が不明確ですね。
今後は実際のリアルな現場でどのような支援ネットワークが
作られるかが課題ですね。
CAPやCLなどとの連携を考えても良いかもしれません。
応援していきたいと思います。

またa rebel against authorityさんとも相互リンクを貼りました
【このサイトの紹介文】
童虐待や不登校、引きこもり、軽度発達障害などの支援を行っているNPOを応援しています。
その経験をつれづれなるままに書き連ねていきたいと思います。
また映画や本について自らの関心のある文脈で感想を書いています。
2006/12/27のBlog
[ 00:17 ] [ ちょっと良い話 ]

サンタは夢のままにしておくべきか?
<br>
 いよいよクリスマスが近づいてきた。クリスマスときたら、プレゼント! 子供の頃は、サンタクロースが枕元にプレゼントを置いていってくれると皆信じていたものだ。しかし..........
≪続きを読む≫<div align="right">[アメーバニュース]</i></div><br>

クリスマスが終わりましたね。
アメーバニュースでも
「サンタは夢のままにしておくべきか」と言う
テーマがコメント大盛況ですね。

でも、サンタは本当にいないのかな?

例えば、貧しい子どものために
自分は彼らのサンタになってあげようと
毎年クリスマスに贈り物を届け続け、
周囲も彼がサンタだと気づいていた。
彼は真実のサンタになろうと努力し
生涯ずっとサンタを演じ続けた。
そして、彼のお葬式では
みんな彼をサンタとして追悼した。
クリスマスが来るたびに彼を偲び、
子ども達に語り続けた。

それでも、彼は真実のサンタではないのだろうか?
間違いなく彼は真実のサンタだ。


幼い子どもを持つ親がいて
その子どもの幸せを願い、
年一回、一生懸命サンタを演じるパパ。

いつの日か
子どもは自分の父親がサンタであることに
気づき、感謝した。
そして、自分の子どもが生まれた時、
父親と同じように
子どもの幸せを願い、
年一回、一生懸命サンタを演じた。

人が幼い子どもを持ち、
その子どもの幸せを願うとき、
幼い頃のサンタの姿を思い出し
真実のサンタになる。

サンタが知っている人だからと言って
サンタではないとは言えない。
それだって真実のサンタに違いない。

ただ義務としてサンタを演じるパパは
真実のサンタとは言えないけどね。


そんなことを思った。
2006/12/20のBlog
[ 13:13 ] [ ちょっと難しい話 ]
キレる子どもや問題行動を起こす子どもは
親との愛着障害が原因である場合が多い。


と言うことで文部科学省は
これから、保護者に愛着形成指導を行うとの
政策を発表した。

でも、大きく問題がふたつありそう。

ひとつめは、親と子の愛着形成と言う極めて私的な領域に
指導と言う名で国家が介入してよいのかと言う問題。

自発的でない上から押し付けられる養育者の義務としての愛着形成って
愛着障害とすれすれの危ういもの。
そもそも親とその親(すなわち子どもにとっての祖父母)
との愛着形成がきっちりとなされていなければ
いくら文科省が子どもに愛着形成をとやっきになっても無意味だろう。
それがなされていない親が、
文科省の愛着形成指導マニュアルに盲目的に従えば、
愛着形成のつもりが過保護、過干渉と言う愛着障害になり、
子どもがキレたり、不登校や引きこもりなどの問題行動を起こす。
しかも、こちらの愛着障害は
身体的虐待や心理的虐待、ネグレクトとは違い、
顕在化しにくいうえに
一般的には、そもそも子どもがキレたり、
問題行動を起こさないために
親が子どもに愛情を注いでいたのに
子どもが・・・となり、親の責任が見えなくなってしまう。
なによりも、キレる子ども、問題行動を起こす子どもを
無くすために愛着形成って本末転倒なような気がする。
これでは、子どものためではなく、学校のためであり、
親の面子のためとなってしまうのではないかと思う。
子どもはこの欺瞞に直感的に気づくと思うけど・・・

もうひとつは、子どもがキレたり、
問題行動を起こす原因が
親など養育者の責任、
あるいは子どもの脳の問題、すなわち子どもの責任に
還元されてしまいやしないかと言うこと。

その結果、子どもがキレたり、問題行動を起こす
社会的な要因、心理的な要因を隠してしまうんじゃないか。
自分の生きづらさをうまく言語化できない子どもが
キレたり、問題行動を起こすことによって
社会に異議申し立てをする権利が奪われないかと思う。
確かに国家としてはキレる子どもや問題行動を起こす子どもより、
キレない子どもや問題行動を起こさない子どもの方が管理しやすい。
しかし、それは同時に国家の失敗を個人的な問題にすり替えて
しまうことを意味するのではないかと思う。

愛着形成を指導するまえに
まずは養育者に
経済的余裕をベースにした精神的余裕を生み出すことから
始めるべきではないかと思う。
それがなしに、親と子の愛着形成を強制すれば、
ますます養育者にプレッシャーをかけ、
精神的余裕をなくさせるのではないかと思う。

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