「私のアルコール依存症体験」 兵庫県川西市 岩井 弘

(写真は住宅地外周道路からの夕日・川西市水明台1丁目)—->
2009年10月22日
「私のアルコール依存症体験」
兵庫県川西市
岩井 弘 

 夜明け前、多田神社へ向かう。星が煌めいている。この時期になると、早朝の空気は少し冷たくなってきた。歩き始めて暫く経つと、足元がしっかりしてきて、眠気も覚めてくる。一直線に伸びる白い道路に沿って、窓明かりと街灯が早朝の闇に浮かび上がる。

 街を歩くうち、朝餉の支度をする俎板のリズムが心地よく響く。散歩の歩幅が自然と拡がる。街はまだ一日の動きを始めていない。新鮮な空気を一人占め。これぞ早起きは三文の得。小鳥たちの囀りが聞こえてくる。

 多田神社まで歩きながら想い起こすことが三つある。一つ目は、母親の認知症。二つ目は六十の定年を待たずに退職し、アルコール依存症にはまり込んでいったこと。そして、三つ目は断酒会に入会したこと。

●先ず一つ目、母親の認知症。
 今から五、六年前、梅の花が咲き始める頃、奈良で一人暮らしの母親を川西の我が家に引き取り、同居することになった。それらしき兆候は以前からあったが、その時は認知症とは気付かなかった。当時、私たち夫婦は二人とも勤めていた。昼間はデイサービスに通い、ホームヘルパーさんにも来てもらった。約一ヵ月後、母親は我が家の庭石で腰を打ちつけた。その後、腰が痛いと言っていたが、平穏な生活が続いていた。

 しかし、その年のゴールデンウイーク、近くの整形外科医院へ行った時のこと。クルマから降りる際、腰の骨を凄く痛がった。道路を隔てて向い側にある同医院へ行くのに、看護士さん二人が手伝ってくれた。X線検査の結果、大腿骨骨折。救急車で近くの総合病院へ緊急入院、そして手術。その後は一ヵ月の入院生活。

 その間、近くに住む長女が同じ病院で女の子を出産。私たちにとっては初孫。本来は嬉しい筈だが、喜びは半分。病院内で会う嫁ぎ先の両親は満面の笑み。私たちの憂鬱な気持ちとは対照的。その両親に挨拶するのが辛かった。

 妻と私は、各々の勤め先から病院に立ち寄る。母親はなかなか眠らない。母親が寝たのを確認して病院を後にする。妻と帰宅するのはいつも夜の十時過ぎ。自宅から病室という環境の変化。一ヵ月の入院で、認知症は進行してしまった。医者は、「入院中の今から、老人介護施設を探しておきなさい」と助言した。

 退院後、自宅で介護を続けたが、自宅での介護はかなりの覚悟が要ると判断、老人介護施設の世話になることにした。入所したのは、我が家の近くに新しく建ったグループホーム。母親が二人目の入所者だった。毎週末、職場からの帰り道、同施設を訪ねた。

 当初は、私を息子と認識できた。話す内容は、母親の生まれ故郷、大阪の森ノ宮と第二次大戦での苦労、そして保険の外交員として元気で働いていた頃の思い出。しかし、二人の会話が次第に噛み合わなくなり、認知症の進行は続いた。

 グループホームで二回目の大腿骨骨折。骨折箇所は以前と反対の右側。そして二度目の入院。ベッドでの母親はとりとめのない独り言ばかり。会話は殆んど通じない。時に夜九時頃、入院先から直ぐ病院に来て欲しいと我が家に連絡が入る。

●次に二つ目、定年を待たずして退職。やがて、アルコール依存症になったこと。
 近頃マスコミが定年退職を迎えた団塊世代にアルコール依存症が増えていると伝える。私も昭和二十二年生まれの団塊世代。会社を辞めてからアルコール依存症になった。

 いつ頃からか、五十五歳で会社を辞める、クルマも運転しないと決めていた。早期退職制度があれば応募しようと思っていた。退職したら趣味を活かした悠々自適の生活をしてみたい。そんな極めて単純な理由だけで、早く会社を辞めたかった。四十代も後半になると職場での責任は増す。業績を伸ばし、評価を上げたい想いもある。家庭における責任もズシリと重い。

 五十代に入っても快調に仕事をこなしていた頃、担当業務の出し入れがあった。従来の基幹業務が他部門へ移った。何とか新規業務の業績を伸ばそうと踏ん張っていた時、塗料メーカーから情報が入った。大手の自動車メーカーが補修用塗料を市販化するという。私はそれに飛びついた。

 塗料業界も環境負荷を減らす水性塗料への移行を進め、光触媒やバイオ技術を取り入れた新しい塗料を開発していた。自動車補修用塗料の市販化を新規業務に据え、塗料メーカーと動き始めた。手始めに、塗装技術の講習会を関東・近畿地区で開催した。

 最新の塗装関連機器が順調にディーラーへ納入された。しかし、肝心の補修用塗料の市販化は成らなかった。反転攻勢を期し、背水の陣を敷き退路を断って意気込んだ新たな業務も、大相撲でいう七勝八敗の負け越し。無念さが残った。

(写真は深山池公園近くの並木道・川西市美山台)——>

 そんな頃、母親の認知症が追い討ちをかけた。結果として、定年を待たず退職を早めてしまった。05年11月末、母親の介護を理由に会社を辞めた。納得のいく退職では無かった。カミさんは休職を勧めたが、私は意地を通した。

 年が明けた06年1月半ば、雇用保険の受給資格の申請にハローワークへ、年金の受給手続きに社会保険事務所や金融機関、さらに生命保険・医療保険の契約変更にも出かけた。

 雇用保険や年金等、退職後の手続きをひと通り済ませると、次にすべきことが思い当たらなくなった。サラリーマン生活から一転して、孤立無縁の独りぼっち。毎日が日曜日。これといった社会との関わりも無く、空しい時間が過ぎるだけの毎日となった。

 早期に会社を辞めた後悔を引きずったまま、新たな人生に踏み出せなかった。趣味を楽しむ意欲や、新しい生き甲斐を見つける気力が次第に失せていく。家族に相談することも無く、心の中で悶々と愚痴と後悔を繰り返す。こうなれば自分自身を励ますのは難しく、不可能に近い。その頃は気分転換にビールを飲んだが、食事も摂っていた。

 07年の春以降、本格的なアルコール依存症に陥った。持て余す自由な時間を埋めるように、昼間からビールを飲み始めた。痛飲に弾みがついて、生活習慣となった。やがて早朝から深夜までビールを飲み続けた。次第に体力も衰え、歩くことが嫌になり、バスに乗って近くのスーパーまでビールを買い出しに行く。

 みすぼらしい容姿も全く気にならなくなった。ビールが無くなれば近くの自動販売機までフラフラと歩いて行く。我が家に戻る途中道で転び、ズボンの膝のあたりに血が滲んでいた。階段や風呂、トイレも手摺り無しでは動けなくなった。

 本人は自覚せずとも、これは完璧なアルコール依存症。ビールを控えようとの自制心は全くはたらかない。こうなると、家族が本人の心と体の異常に何時気付くのか、そしてアルコール依存症専門病院へ何時入院させるのか、一刻を争う時間との闘いとなる。

 08年1月、大阪府和泉市の依存症治療専門病院に入院。ベッドに横になり、暫く目を閉じた。これでゆっくり寝ることができる、何もかも全て忘れたかった。体力的にも精神的にも、経験したことの無い疲れだった。入院直後、治療読本の、「アルコール依存症を知る」を渡され、アルコール依存症の恐ろしさを知る。

 ある日、入院患者が大広間に集められた。病院の名誉院長(以下オオセンセイ)の断酒講座があった。院内のスタッフも大勢集まった。テキストも使わず、講座の内容は全く覚えていない。入院患者よりスタッフが緊張していたのを覚えている。やがて、眠ってしまった。スタッフから肩を揺さぶられたが、また眠った。

 月一回、オオセンセイの回診日がある。その日はオオセンセイの他に、看護師と数人のスタッフが病室に入って来る。個人別に問診が始まった。人数では負ける、こっちは一人だ。緊張する。オオセンセイはカルテを観ながら曰く、「太くて長く元気なウンチをしなさい」、そして微笑むだけ。

 そんな三月の回診日、オオセンセイから池田市での一泊研修会に誘われた。話す眼は厳しく、これは誘いではなく強制と直感した。研修会場は池田市の北部、陽松庵。仕方なく参加の旨を返事した。やっとオオセンセイが微笑んだ。私も、ニガ笑いで応えた。

 桜の蕾がまだ硬い三月下旬、松陽庵での一泊研修会に参加した。大勢の人が本堂に座っていた。近畿一円はもとより、横浜・富山・福井・岡山、そして沖縄から、日本各地からの参加者に驚いた。

 入院患者の私たちは最後列、壁にもたれながら座った。やがて、参加者の体験談が始まった。トイレに行くのも人垣を分け、遠慮がちに会場を出る。足元がふらつき、ひと苦労だ。

 夜は、別棟の部屋へ移動。一人々々が自分の布団を敷く。毛布にくるまって寝たが、寒さのため眠れなかった。朝は、寒さで目が覚めた。顔を洗う水が冷たかった。プログラムの最後、我々入院患者が紹介され、やっと研修会が終わった。雨が降る中、全員無言でマイクロバスに乗り込んだ。病院に戻って直ぐ発熱、点滴治療を受けた。二、三日ベッドから起き上がれなかった。

 四月中旬、三ヵ月の治療を終えて退院。その際、主治医から三つの約束をさせられた。先ずは、二週間に一度の通院、次に毎朝抗酒剤のシアナマイドを服用すること、そして三つ目は断酒例会への出席。自宅で生活する様になってからは、カミさんが通院と例会に連れて行ってくれた。シアナマイドも毎日飲んだ、今も続けている。

(写真は宇宙ステーションからの大阪湾)——->

●最後の三つ目は、断酒会に入会したこと。
 病院を退院してからの約一ヵ月間、毎日のように先輩諸氏に近隣の例会へ連れて行ってもらった。例会出席へ踏み出したばかりで、まだ助走期間にあった私にとって、往き帰りの道を覚えるのは勿論のこと、道中の会話は断酒会を理解する上で貴重な時間となった。

 クルマの運転はカミさんがする。私は先輩諸氏の話を聞くだけ。先輩は道案内と私への語りかけで忙しい。断酒例会は夜七時に始まる。全員が体験談を語る。例会は会員、家族の相互信頼で運営されている。例会以外の場で、第三者に他人(ひと)の体験談を話すことは無い。

 だからこそ、出席者は限度を超えた数々の酒害を、夫々の言葉で有り体に語る。酒害者本人は、家族に隠れては飲み続け、嘘を嘘で固め、飲酒運転による交通事故、暴言・暴力で家族に与えた測り知れない出来ごとを語る。

一方、家族は本人のアルコール依存症による狼藉の数々を、時には涙して語る。家族の体験談には、「今だから話せる、許しはするが決して忘れない、そして酒を止め続けて欲しい」、そんな悲痛な思いが込められている。体験談が語られる断酒会の例会は、ゆったりと且つ厳粛な中で時間が流れて行く。そして、断酒を決意した頃の初心に戻ることができる。

 現在(いま)断酒会に入会して一年半が過ぎる。断酒例会では多くの人との出会いや体験談を通じて生まれる心の触れ合い、そして同じ体験を持つ者同士だけが分かる心の通い合いがある。励まし合い助け合う。例会出席で多くの方々に出会えたことが素直に嬉しい。予期せぬ時に、仲間の方から励ましの言葉を頂戴することがある。また、握手をしてもらうこともある。

 そんな時、つくづくアルコール依存症になってよかったと思う瞬間(とき)がある。断酒会の例会で家族の体験談を聴くうちに、これ以上家族には迷惑を掛けられない、六十年余りの人生を振り返り、これから先の人生をどう生きるのか。断酒会に入会して、我が身の生きてきた今迄と、残された人生を結び付けることができる。

 我が人生に悔いはなし。最期はそう思いたい。孫たちには酒飲みのお爺ちゃんとの印象は残したくない。アルコール依存症になる前に楽しんだ趣味をこれからも続けたい。そのためには、先ず足腰を鍛え直さなくては。

 今は、出来る限り毎朝の散歩を続けたいと願う。初夏の頃は、我が家の近くを散歩するのが精一杯だった。暑い日差しを避けて、公園のベンチで冷えた缶コーヒーとタバコ。時々、喫茶店で休憩。近頃は徐々に歩く習慣が身に付き、歩く距離が延びた。

 夜明け前に家を出て、多田神社まで散歩する。夜空に月が浮かび、星が煌めく。月はヒトのココロを和ませる。拝殿で今日一日の健康を祈る。六十を過ぎると、二礼・二拍・一礼の所作が自然と出る。若い頃は、気恥ずかしいものだったが、私も年を重ねたものだ。

 帰り道は上り坂が多く、体力的にきつい。既に東の空は薄赤く染まり、山の稜線が鮮明に浮かび上がる。やがて、日の出を迎える。歩くことで知る健康の歓び。痛飲の生活習慣で患ったアルコール依存症を、これからは朝の散歩と例会出席を生活習慣にして克服して行きたい。

 ひと昔前、オカネをオアシと呼んだ。カネは天下の回りもの。多くの人が額に汗して働いた。夕餉の団欒が家族のつながりを感じさせる場であった。お葬式でも、帳場や台所を取り仕切る長老や年長のカミサンが、二人や三人は必ずいた。彼らの指示で、全員がテキパキと動いた。良きにつけ、悪しきにつけ、ヒトとのつながりがあった。やがて、核家族化が始まり、一億総中流の時代となった。貧富の格差を意識することは無かった。

 時が過ぎた現在(いま)、あまりにも世の中が変わり果てた。ヒトは他人(ひと)の痛みが分からない。マスコミが伝える金満社会が、満足を知らない欲望へと駆り立てる。カネは回らなくなり、庶民には落ちてこなくなった。カネがカネを産む社会。人生の価値をひたすらマネーに追い求める現代の世相。

 こんな社会になってしまった現在(いま)だからこそ、人生経験を積んだ方が自身の心情を有り体に語る体験談は、これからの生き方を思う時、多くの示唆を含んでいる。私にとって断酒会は単に酒をやめ続ける会ではない。利害得失を超え、義と情を心の内に秘めた人間関係の本質に触れることができる。同じ世代の仲間を知った。県外の先輩にも会えた。

 例会に出席する毎に、繰り返してはならぬ過去を想い起こす。人生の価値観の座標軸を見つめながら、残された人生を、明るく、楽しく、元気よく生きて行きたいと願っている。終わりに、私の体験談がダラダラの長文、薄意乱脈になったことをお詫びします。ただ、この雑文を読んで下さった方の中から一人でもいいから、断酒会を訪ねて頂いたら幸甚です。(了)