『もっと元気にな〜あれ』(その6) 「田舎があるから 都市がある」

(写真:300年以上造林が続く杉の人工林・奈良県吉野郡東吉野村)
2011年10月14日
『もっと元気にな〜あれ』(その6)
 「田舎があるから 都市がある」

 農山村の過疎問題が語られるとき、いつも耳にするのが、限界集落という言葉。都会で暮らす人たちが移り住みたいと思う田舎にも、限界集落と呼ばれる地域がある。65歳以上の高齢者が住民の半数を超え、生活道路や山林、田畑の維持管理など、村落共同体としての機能が果たせなくなり、消滅のおそれがある集落のこと。

 1960年の暮れ、国民所得倍増計画が策定され、高度経済成長の時代が始まった。それにともない、日本の人口は田舎から都会へ、特に三大都市圏に集中した。その頃から各家庭では、ご飯は電気炊飯器、お風呂は都市ガスかプロパンガス、暖房には灯油やガスが使われるようになった。こうして時代は、人間の都合だけで山を使わなくなった。

 もともと、里山の雑木林は、農家の家庭用燃料や都市に供給する薪や木炭として利用されていた。しかし、この頃から始まった燃料革命によって、薪や木炭は、もはや時代にそぐわないエネルギー源として使われなくなった。また、この頃から安い木材が輸入されるようになり、やがて日本の林業そのものが衰退していくことになる。

 森林は枝打ちや間伐など、手入れもされず、倒木は放置されたまま。多くの森林は伐採されないまま、荒廃していくことになる。大きくなりすぎて弱った大木は、木を枯らす害虫の大量発生の原因にもなる。また、林業以外にこれといった産業のない山村は、林業離れによる後継者不足や住民の高齢化が進み、村落共同体としての機能が果たせなくなった。

 かつての日本人は、先祖に恥ずかしくないように、という価値観で生きていた。田舎で暮らす人たちは、お互いの生活に入り込むようにして、住民同士が助け合って暮らしてきた。また、生活基盤を守るため、森林の手入れや河川の清掃、生活道路の整備は、全員が参加する共同作業で行ってきた。

 このように、農業や林業を生業として生きていくためには、村落共同体としての連帯意識を持つことが必要であり、そのために、季節毎の行事や冠婚葬祭、そして日常の生活を通して、集落を守るための文化や知恵が伝承されていた。例えば、寄り合いがあった。村の決めごとを話し合うため、男衆は全員集まった。決して結論は急がない。全員納得するまで、幾夜でも話し合いを繰り返した。

 ところで、日本は、国土面積の3分の2は森林。山を守る人たちがいるから、都市は自然災害から守られている。米や野菜などの食べ物を供給してくれる農山村があるから、都市は成り立っている。それを思うと、単なる経済原理だけで世の中、動いていっていいものか。農山村を大切にしなくなり、都市に人が集まる社会は災害だけでなく、いろんなものに弱くなる。

 日本には、地形や産業の違いから、農村や山村、漁村など、様々な地域特性を持った集落がある。しかし、経済発展の過程で、生産や販売、物流面で利便性が高い都市に集中した。その結果、所得や消費、医療や福祉などの生活水準において、都会と地方で地域間の格差が生じた。

 都会で住む人たちは、便利で快適な生活を送るうち、ともすれば地方の農山村に住む人たちの存在を忘れがちになる。都会に住む人たちが、自らの立場で基準をつくり、人口の減少や経済の疲弊で苦しむ地域を過疎地と定義する。

 しかし、過疎と呼ばれる地域には、都会で暮らす人たちが忘れてしまった大切なモノがまだまだ残っているのでは。和を尊び、互いに助け合い、子どもたちからお年寄りまで、総がかりで地域社会を守る。限界集落と呼ばれる田舎でも、住民の知恵や経験と、都市に住む人たちの心や工夫がつながれば、かならずや、地域の気候や地形に適した産業を見つけ出せると信じたい。

 そこで、限界集落と呼ばれる地域の厳しい現実と向き合い、そこで暮らす人たちと一緒になって、地域の活性化を目指す人たちを次に紹介させていただきたい。

(写真:真っ赤に紅葉した里山・石川県鳳珠郡能登町)—>
●『再生の志に限界はない』
「ニッポン人・脈・記 ふるさと元気通信⑨」
(2009年7月30日付け朝日新聞より転載)
 
 「限界集落」という言葉がある。65歳以上の高齢者が半数をこえ、村落共同体としての機能が果たせなくなり、消滅のおそれがある集落のこと。21年前、高知大教授だった大野晃(69)がこの言葉をつくった。

 集落の悲鳴を、「過疎」で片づけてしまうのは生ぬるい。うまく表現できないだろうか。大野はずっと考えていた。86年、高知の山あいにある集落を訪ねたとき、区長のうめきを聞く。「この集落も限界や。おらの代で終わる」。これを使おう。大野は2年後、論文で、「限界集落」を定義した。

 学生時代、大野は各地を放浪した。ひとり旅の貧乏学生に、農山村の人たちは温かかった。「泊まってけ」、「これ食べろ」。大家族のにぎやかな暮らしがあった。農村社会学者になったのは、そんな経験があったから。地下足袋をはき、リュックを背負って、黙々と生活実態の聞き取り調査をつづけた。

 高度成長とともに、都会への人口流出が加速。田畑は雑草に覆われ、廃屋が増える。高齢者が多い集落では、祭りも草刈りもできない。この深刻さを目の当たりにした大野は、言葉を探す。そして、あの、「限界や」といううめきを聞いたのだ。大野は、学術用語にするつもりだった。だが、言葉の強さがマスコミをひきつけた。地方の疲弊を象徴する言葉になる。

 05年、京都府綾部市の市長、四方八洲男(しかたやすお)(69)は、2期目を終えかけていた。ある記事の中に、「限界集落」という言葉をみつけた。「ドキッとした。こういう集落はうちにもある。気になりながら、見て見ぬふりをしてきた。それを突きつけられた気がしたんですな」。

 小学生時代、四方は通知表に、「正義感が強い」、と書かれた。京都大では安保闘争に明け暮れ、入社した大手メーカーでは、会社から接待を受ける労組の御用組合ぶりに反発、みせしめの配転命令を拒否して解雇された。裁判を起こして和解、38歳で綾部に戻り、市議などをへて市長になった。

 市長のくせに、悲鳴をあげる集落の声を聞かなかった自分が許せなかった。翌06年1月、雪深い集落を訪ね、車座になって対話する。「どうせ5年、10年先には集落はなくなる」、とあきらめの声がもれた。一方で、特産のフキ栽培でそこそこの収入を得ている農家がいた。

 まだ間に合うはずだ。3期目に入ってしばらくたった07年4月、全国で初めて限界集落の活性化をめざす条例をつくった。特産物の開発を促したり、都市住民との交流イベントを支援したり。定住促進もはかる。都会から移り住む家族が出始めた。ただし、条例の名称は、「水源の里条例」。限界集落の4文字はない。「上流の水源を守ってきた大切な地域です、と訴えたかった。それに限界という言葉には、住民への救いがない」。

 あの4文字に批判が相次ぐ。「血が通っていない」、「住民の痛みを考えていない」。山口県は、「小規模・高齢化集落」、宮﨑県は、「いきいき集落」と言いかえた。農村政策が専門の明治大教授の小田切徳美(50)は、定義そのものに疑問を投げる。「高齢化率だけで限界だと決めつける風潮が出てきた。もっと地域の多様性への言及が必要だ」。

 だが、現在は長野大教授になっている大野に動じる風はない。「『極楽集落』と言いかえても、なにも問題は解決しない。厳しい現実の認識から、解決策も見えてくる」。2年前から大野は、長崎の五島列島にある小さな集落の再生を手伝っている。

 住民が発足させた五島列島ファンクラブの知恵袋だ。廃校になった小学校の分校を拠点にした体験学習、飛び魚のだしなど特産物の通信販売もスタートした。合言葉は、「限界集落を、大丈夫村に!」。あきらめるな、再生しよう。大野の熱い思いが込められている。(神田誠司)

(写真:秩父地方の田植え・埼玉県秩父郡小鹿野町)—>
 余談になるが、戦前、22歳の頃から自分の足で日本全国を歩き回り、その土地の民家に泊まって古老の話を書きとめた一人の民俗学者がいた。宮本常一(つねいち)である。

 彼の民俗学に登場するのは、その土地で生きる平凡なお年寄り。こうした記録を彼はこう呼んだ。「そうした平凡な人たちにも歴史がある。語るべき世界がある。記録しなければ表面化することのない歴史」。

 文字を知らない古老との聞き語りから、無字社会で生きてきた彼らの語り口そのままをまとめた彼の代表作、『忘れられた日本人』(未来社、1960年2月)のあとがきの一部を次に紹介させていただくことで、現在(いま)の日本の田舎について、あらためて考えてみたい。

 『ここにおさめたもろもろの文章の大半は、年寄りを中心にして古い伝承のなされかたについて書いた。これらの文章ははじめ、伝承者としての老人の姿を描いて見たいと思って書きはじめたのであるが、途中から、いま老人になっている人々が、その若い時代にどのような環境の中をどのように生きて来たかを描いて見ようと思うようになった。それは単なる回顧としてではなく、現在につながる問題として、老人たちのはたして来た役割を考えて見たくなったからである』。

 『一つの時代にあっても、地域によっていろいろの差があり、それをまた先進と後進という形で簡単に割り切ってはいけないのではなかろうか。またわれわれは、ともすると前代の世界や自分たちより下層の社会に生きる人々を卑小に見たがる傾向がつよい。それで一種の非痛感を持ちたがるものだが、御本人たちの立場や考え方に立って見ることも必要ではないかと思う』。(了)