修士論文〜2節2言語普及シュミレーション

2 言語普及シミュレーション

 ここでは、韓国の一般高校生の第二外国語選択の資料を基に、今後の言語普及がどのように変化していくか考察する。ただ、後述する通り、不確定要素が多いのが、言語普及理論である。また、これまでの理論は、言語普及に影響を与えたと思われる事柄が並列的にまとめられたもので、一連の流れとして説明されていない。そのため、理論から説明できないことも生じている。
 そこで、これまでの理論を参照し、新たに生じた事態を付け加える形で、一連の流れとしての言語普及理論を提示したい。併せて、提示した理論より韓国の一般高校生の言語普及シミュレーションを行なう。

2−1 言語普及理論とモデル

 言語普及理論

 言語が普及するのに一般的な理論は存在するのか。Coulmas(1993)は、著書の中で言語の市場価値について言及した 。市場価値が高ければ、高いほど学習者が増えて、その言語は普及することになる。市場価値が高い言語ほど、学習するインセンティブが高くなるからである。同著の中で、言語の市場価値と有価証券の市場価値に関する類似性が言及される。これは言語の市場価値が一定の法則に則り決定するが、その変動が理性的に計算できる要素によってすべてが引き起こされるとは限らないという意味である。我々が10年後の日経平均を予想することが科学よりも空想に近いことは、10年後の言語の市場価値に言及することにも当てはまる。しかし、同時に現在の経済情勢、財務状況から適正株価が導き出せるのと同じレベルで、現在の言語の市場価値すなわち言語普及状況を導き出すことは可能ということになる。このことは、言語普及理論が、今後言語を普及させるために何をすればよいのかを分析するのに有用であることを意味する。なぜなら、現状における正確な日本語がおかれている状況の把握はこれからの政策を決める上で欠かせないものだからである。
 では、言語の市場価値を決定するものは何か。先行研究 を参照しつつ一つのモデルを提示したい。先行研究では、言語そのものの価値と言語の市場価値を並列に論じている。これでは、言語そのものの価値があっても、言語普及に結びつかないことが説明できない。言語普及の観点から考察するためには、双方を多様な言語価値の内の一つと括るのではなく、言語そのもの価値が、どのように言語市場価値に結びつくのか、すなわち普及までの段階として分けたほうが良い。より具体的に言えば、言語が普及する条件として言語の価値は前提条件であるが、それだけで言語は普及しない。言語が普及するには、その言語の市場価値を上げる必要があり、最後に相対的に価値があると判断された言語が雪だるま式に普及する、という三段階に分ける必要がある。

【図2−7】

 (筆者作成)
まず、言語の価値として二つあげる。(一)コミュニケーションの半径(二)言語のポテンシャル、である。“コミュニケーションの半径”とは、その言語を学んだことでどれだけ沢山の人たちとコミュニケーションが可能かということである。一つの言語を母語とする者、外国語として話す集団の人口統計学上の数、及び公用語なのどの採用数も参考になる 。これは話し手が一人増えるにつれて、潜在的に有用な相互行動の全体が増すからである 。次に“言語のポテンシャル”とは、その言語を使えば何について話せるのか、何ができるのかということだ。できることが増えれば、その分だけ言語の価値が高くなる。なるほど、言語をコミュニケーションの機能上の手段とするなら、どの言語でもすべてのことについて話すことは可能になる。しかし、世界のすべて言語のうち、ごく僅かな数の言語を用いてのみ学問的な意見交換が可能という事実がある。同様のことは、技術、行政、法、および他の高度に発展したコミュニケーションの分野にも言える 。これらの機能が個人にとっても社会にとっても有用で活用できる知識への道が開かれることを考えれば、言語のポテンシャルが高い言語はその価値も高くなる 。ポテンシャルを上げるための行為を言語投資という。日本でも古くは漢字の伝来や明治維新の際、外来の言葉から新しい日本語を創造した先人が、現代でも翻訳や辞典の編纂などを通して生産手段として日本語の言語価値をあげているのである。
 次に、言語の市場価値を高める言語を学ぶインセンティブについて四つあげる。それは、(一)経済力(二)社会・政治力(三)文化力(四)宗教力、である 。いずれも言語を学ぶインセンティブとして働きそうな要素だが、その影響力には大きな違いがある。Coulmasは、経済力こそ一番重要な要因であると指摘する。「一つの言語の市場価値に影響を与える要因としては、さまざまな種類のもの、つまり政治的なもの、文化的なもの、しかしとりわけ経済的な種類のもがある。たとえば中国語はもっともすぐれた文化伝統の一つを持つ大きな言語共同体の言語であり、今日、世界政治の上で重要な国家の言葉である。それにもかかわらず、経済的な利用の可能性が限られているため、外国語としての中国語の需要、世界的に見て、比較的少ない。これと反対にここ十年の間の日本語の相場の上昇は、その文化価値はこの間明らかに変わってないのに、ほとんど日本円の相場と同じくらい顕著である。日本語学習者の数がここ十年で世界的に見て四倍になったのは、日本がすべての大陸の多くの国々にとって重要な通商相手となった事実を直接的に反映するものである」 。勿論、日本と通商するからと言って必ずしも日本語を使う必要は無い。寧ろ英語を使う機会のほうが多いのではないか。しかし、経済力が上がることと言語の市場価値の上昇との関係は、通商における言語使用だけがその原因ではない。例えば、どの言語でも、その学習動機には就職・所得などの実利志向が上位に来ること、経済力が伸びたことによる日本企業の海外進出や日本商品の輸出に伴う日本語との接触の機会の増大などは、経済力と言語の市場価値の上昇との関係を強くする要因の一例である。実際の例として、日本語学習者の「量」が10年間で4倍になった時、「質」については大学に限ってみると、それまでの文学、美学、歴史学など専攻の学生からビジネススクールやロースクールといったいわゆるプロフェッショナル・スクールの学生に代わった点 、準備通貨として機能する通貨と当該諸国の言語の国際的地位と平行線になる点 を挙げることができ、経済力と言語普及の相関関係が現れている。また、文化や社会・政治力の影響も言語の市場価値に影響を持つ。しかし、経済力と同等の実例を探すことは難しい 。そもそも経済力が、社会・政治力の大きな源泉であり、文化を外に打ち出す要因であることを考えれば、経済力にプラスされる要因と考えたほうがいい。
 経済力と並んで言語の市場価値を高める要素とされるのが宗教力である 。宗教の教義に触れるのに、ある言語を学ぶ必要があるのなら、その言語は国境を越えるだろう。現在では、宗教の経典が翻訳されているとはいえ、難解な経典を翻訳できる言語は限られるであろうし、宗教によっては特定の言語を神聖化する場合もある。具体的にはアラビア語の普及はイスラム教との関係抜きでは説明できない。
 最後に、前提条件である言語の価値は整い、言語を学ぶインセンティブが高まり言語の市場価値が上がっても、言語の普及状況が市場価値に正比例するのではないことを指摘する。例えば、日本の経済力はGDPで世界2位だが、日本語学習者が英語の次に多いとは考えにくい。また、英語との比較では、日本とアメリカの経済力の差以上に英語学習者と日本語学習者の数の差は開いているだろう。これは英語が世界の言語の中で比較優位を確立したため、ますますその言語を学びたがるという雪だるま効果により、経済力以上の差が言語普及に現れたためである 。この理論によれば、バブル経済崩壊による一時的変動を除いて、高度成長以後も日本語学習者が増え続けたことや国内においてであるが日本語学習者が1980年後半からはGDPの増加率以上に日本語学習者の増加率が高い ことも説明できる。

 言語普及理論モデル

 これまで、言語普及において経済力の果たす役割が重要であることを述べた。宗教力を除けば、言語の普及状況は経済力が規定し、文化力や政治力がプラス要因として働く。そのように考えると言語普及政策がどの位有効性を持つのか疑問となる。しかし、結論から述べると、日本語を普及させるためには、言語政策の有効性が高いといえる。以下に言語普及理論モデルを提示し、その説明をする。
まず、言語普及理論を縦軸に学習者数、横軸に言語の市場価値を高める要素である経済力+αにして図に表す。

【図2−8】

 (筆者作成)

言語の市場価値が高ければ高いほど、その言語の学習数が多くなることは述べた。また、言語の市場価値にもっとも影響を与えるのが経済力であるが、経済力と学習者数の関係は一時期比例して増加するがある地点を過ぎると、経済力の増加以上に言語学習数が増える(雪だるま効果)ことも述べた。
図では、雪だるま効果をA地点とB地点の二箇所あると設定した。これは雪だるま効果が、他言語との比較優位が確定、すなわち言語の市場価値がそれまでと比べて一段階上がる過程と捉えれば、地域での優位の確定と世界での優位の確定と二回の比較作用が行なわれると想定したからである。実際そう考えると、言語の普及状況を三つの段階(特殊言語、一般言語、国際言語)に分けることができ、納得できることが多い。ここでいう特殊言語、一般言語、国際言語の三つの段階にどのような特徴があるのか説明したい。
 米国現代語学会は、大学での履修学習者数の上位7位までを一般外国語とよび、8位以下を特殊外国語と考えている 。この定義だと、1980年のアメリカで日本語はまだ特殊言語であったが、2002年の調査結果では一般言語になったことになる 。上位7位までという規定は、相対的評価であり、地域によっても差も出てくることになる。相対的な順位ではなく、他の特徴で二つを区別する基準を考えたい。1番大きい基準は、当該言語がその国の初等・中等教育でどの位取り入れられているかである。本論で述べた通り、日本語が普及している地域では、初等中等教育での日本語学習者の割合が高くなる。2点目の基準は学習動機である。日本語が一般言語(人によっては国際言語)になったと言われるのは、1980年代で、その特徴として学習者の学習動機が、学術的なものから経済的・実利的なものに変化することがあげられている 。また、その変化の要因が日本の経済力によることは既に述べた。1980年を境にして学習者の数、学習動機に明らかな違いがあり、特殊言語から一般言語に変化したことの基準になるといえる。話をアメリカに戻すと、1980年から2002年に日本語がロシア語と古代ギリシャ語に変わってアメリカで一般言語になったことは確かだが、変化に注目して特殊言語と一般言語を区別すれば、ロシア語や古代ギリシャ語に取って代わったというよりは、日本語も一般言語に加わったというほうが正確である。3点目に雪だるま効果の特徴として、経済成長率以上の学習者増加率の時期の存在の有無である。以上まとめると、言語普及の要因はさまざまだが、経済力の指標による一般言語と特殊言語の区別は、初等中等教育でどれくらい学習されているか(選択科目になっているか)、学習動機、経済成長率以上の学習者増加率の時期(雪だるま式言語普及の時期)の存在、で判断するのが良いであろう。
 国際言語と一般言語の違いは、その学習者の数は勿論、使用場面の頻度に表れる。そもそも英語は誰のものか考える程に話者の数は多い。国際会議等での使用回数など圧倒的存在である。更に言えば、第一言語として学ばれる言語と第二言語として学ばれる言語との違い、学習動機の中で他の言語と比べて「世界の共通言語であるから」という理由が突出している 、などあげることができる。
 
 言語普及理論モデルを完成させるには、もう一本の重要な線を引かなければならない。
【図2−9】

 (筆者作成)

仮にこの線を潜在学習者曲線と名付ける。この潜在学習者曲線は、今時点では当該言語を学習していないが、何かの機会やインセンティブがあれば、その言語を学習する者の数を曲線に表した。一見して理解できる通り、学習者と潜在学習者との差は、特殊言語と国際言語では小さくなっているが、一般言語では大きくなると考えた。この根拠は何か。まず、国際言語は、すでに学習者の数も多いし、第一言語であるから、学習する機会と環境が一番整っていると考えられる。すなわち、学習する者はすでにしているのだ。また、特殊言語はそもそも学習インセンティブが低いため特殊言語であるのだから、潜在学習者も少ないだろう 。特殊言語の語源は、特殊に学習の機会を設けなければ、学習者が存在しないことである。では、何故一般言語の場合に潜在学習者が多いと言えるのか。一般言語が第二言語として学習されているケースが多いことは容易に想像できる。第二言語習得は、「学習者は違った言語社会に加入したいと望むことがある。そのような学習者たちは多数派もしくは少数言語集団の文化的な活動に参加したいと思ったり、自分のツールを見つけたり、友だちを作りたいと願う」という統合的動機と「学習者の仕事を見つけるため、出世の見通しをつけるため、試験に合格するため、仕事で命じられた課題をこなすため、そして二言語併用の学校に通う子供を手助けするために、第二言語を習得しようとする」という道具的動機にわけることができる 。双方の動機は更に細かく分類することが可能である。何故この二つの動機を当該言語に対して抱くようになるのか。国立国語研究所が行なった「日本語観国際センサス」という調査がある 。この調査によれば、なるほど、確かに各国語の学習動機の特徴というものが理解できる。例えば、日本語は「旅行を楽しむ」「いい職に就ける」「最新の情報を身に付ける」、中国語は「仕事で必要」「文化理解」「面白そう」、などである。しかし、世界の言語の学習動機をその割合で折れ線グラフにすると次のことがわかる。それは、グラフの傾きが、英語の国際共通語であるという理由を除いて、ほとんど変わらない、一定の方向性が確認できる点だ(図2−10)。すなわち、個別では学習動機を指摘できても、他の言語の学習動機と比べると、どの言語も学習動機に決定的な特徴は存在しないということになる。

【図2−10】

 (日本語観センサスを参考に筆者作成)
実際、日本語の学習動機の強みとしてよく言われるマンガやポップカルチャー等の大衆文化への接近理由は、一番日本語が学ばれている韓国で55.6%が偶然によるものと答えている 。このことから、一般言語とは、その国の経済力によって、より多くの偶然を供給した結果、学習者が増加し特殊言語から一般言語に移行したといえる 。偶然の積み重ねの結果であるならば、それだけ学習者の流動性が高いことになる。また、昨今の多言語主義・復言語主義の流れが言語の学習機会を増やすことになっている。供給される学習機会が、第二外国語の選択という形で現れのも一般言語である。流動性に晒され、学習機会も供給される可能性がある一般言語は潜在学習者の数も一番多いといえよう。以上のことをまとめると、特殊言語も国際語も潜在学習者と学習者の数の差に違いは少ないが、一般言語の場合は、他の言語段階と比べて選択されるために用意された一定のパイを分け合う形になる。そのため、潜在学習者と実際の学習者の数に開きが生じる。言語普及政策のやり方によっては、学習者を増やすことも減らすことにもなるのである。
以上が、言語普及理論とそのモデルの説明になる。まとめると、言語普及は経済力とその他の要因に規定される。しかし、そのことは、言語普及政策に有効性がないという結論を導かない。寧ろ、言語普及政策は一般言語で有効性を発揮する。偶然をより必然に近づけること、必然があるなら、その必然をより増やすことが、言語普及政策になるからである。