「地方を変えるコミュニティーデザイン」 <この国のかたちをヒト中心に>

(写真は仁多米の産地三成地区の田園風景・島根県奥出雲町)
2012年7月23日
「地方を変えるコミュニティーデザイン」
<この国のかたちをヒト中心に>

 都市への人口流出で田畑は雑草に覆われ、廃屋が増える。お年寄りが暮らす集落では祭りも草刈りもできない。村落共同体としての機能が果たせなくなり、消滅のおそれがある集落を「限界集落」と呼び、地方の疲弊を象徴する言葉になる。また、経済の実態とはかけ離れた急激な超円高で、生産拠点を海外へ移す動きが止まらない。その分、日本の経済が空洞化する。

 相次ぐ工場閉鎖で、かつての企業城下町は次々とさびれていく。地域の活力が失われ、人通りもまばらになった商店街ではシャッターを閉ざしたままの商店が多くなる。地元の自治体も、かつての賑わいを取り戻す方策を模索するが、なかなか解決策が見つからない。

 そんな日本にあって、まちの活性化に取り組む人たちから支援を求める声がコミュニティーデザイナー・山崎 亮さん(38)の元に次々と届く。まちをかつてのような元気な姿に戻したい。山崎さんはそんな切実な地方の願いを請け負う。

 ところで、山崎さんのまちおこしの流儀とは。これまでのようなハコモノは造らず、人が集まるソフトを創る。仕事はゆっくりと進める。地域に住む人を訪ね、課題や思いを聞き出す。集まりでも住民にはたくさんのアイデア出すことを求める。集会を重ねることで新しいつながりが生まれ、住民が主体となって課題を乗り越えていこうというものだ。

 世界の先進事例は知るものの、自ら解決策を示すことはしない。先に解決策を示しても、住民の気持ちがついてこないと思うからだ。当事者自らが課題を見つけ、解決策を探る過程で、持続的なやる気と独自に取り組む意欲を育てるのが狙いである。あくまでも、当事者が主体と考えている。

 「ハコモノ行政が財政難で行き詰まり、政治や行政の解決する力が衰えている。立派な施設を造っても、楽しむ人がいなければ成功とはいえない。その日本が再び大震災に襲われた。この国のコミュニティーのかたちを『人中心』に変えていかないと」。このように語る山崎さんが実践する地域再生のコミュニティーデザインとは如何なるものかを、次に紹介させていただきたい。

(写真は石積みが美しい棚田・徳島県美郷町川井峠付近)

『<フロントランナー> ヒトがつながる仕組みをつくる』
コミュニティーデザイナー、京都造形芸術大学教授
山崎 亮(やまざき りょう)さん(38歳)
2012年6月16日付け朝日新聞より引用

 お年寄りばかりになり、滅びゆく里。個人主義を尊んだ末に、隣人がわからない街。14年連続で3万を超える人が自死する社会。不安に包まれた国にあって、共同体の再生を請け負うのが仕事である。

 5世帯9人が暮らす長崎・五島列島の集落では、地域の暮らしを体験するツアーを仕掛けた。空洞化に直面する鹿児島市街のデパートでは、店内にNPO活動の場を整えて人が集まる流れを生み出した。モノは造らない。人がつながる仕組みをつくるデザイナーだ。

 ダム建設が中止となり、対立する住民の間に入って未来像を探った大阪・箕面市。子どもたちと将来計画を練った岡山・笠岡諸島。食育を考える東京都墨田区。離島から都心までを奔走し、いま全国で60件を超えるプロジェクトに取り組む。

 ハコモノ行政が財政難で行き詰まり、「住民参加」がうねりをなす中で、ソフトを創る手腕に注目が集まっている。各地での講演後には長い行列ができ、2ヵ月で1千枚の名刺が消えていく。始まりは設計事務所に勤めていた1999年、兵庫県三田市にある県立有馬富士公園のデザインに関わったことだった。

 立派な施設を造っても、楽しむ人がいなければ成功とは言えない。ディズニーランドで客の気持ちを盛り上げる「キャスト」の存在に学び、地元の市民団体を広大な敷地に誘い入れた。水辺の生き物観察、たこ揚げ遊び、稲刈り体験。さまざまな団体がプログラムを用意して人を呼び込み、開園当初に40万人だった来園者は、75万人を超えるまでになった。

 「人のつながり」に思いを深めたのは、設計を学んでいた大学時代、阪神大震災に見舞われた神戸でのことだった。一面のがれきの中を住宅の倒壊度判定に歩き、川のほとりでいたわりあう被災者の姿に出あう。階下の親を圧死させ、「殺してしまった」と嘆く夫婦を、子どもを亡くした人がなぐさめていた。「建物が壊れてしまっても、コミュニティーは生きている。継続的なつながりを普段から耕しておくことが大切なのではないか」。

 だからいま、仕事はゆっくりと進めるのが信条だ。地域に住む人を訪ね、課題や思いを聞き出す。集まりでも住民自らがたくさんのアイデアを出すことを求める。世界の先進事例は頭の中にあるものの、解決策を示すことはしない。当事者が調べ、考える過程で、持続的なやる気と独自の取り組みを育てていく。

 情熱的な語り口で笑顔を絶やさず、「人たらし」と言われる。林業など地域の活性化を模索する三重・島ヶ原で、地元の中心的な存在である穂積澄子さん(72)は言った。「話していると、夢が膨らんでくる。そして少しずつ実現するんです」。ハード偏重できた日本が再び大震災に襲われた今、時代の要請が高まる。「この国のかたちを『人中心』に変えていかなければならない」。決意を胸に宿している。(文・中島耕太郎)

(写真は標高1700mの安達太良山・福島県二本松市)

「本来のデザインを現代に取り戻す」
 <なんでデザイナーがコミュニティーなんですか?>
 「コミュニティーデザイン」というのは、日本では1960年代からありました。まず建物を造ってコミュニティーを生み出そうという動きがあり、80年代にはそのデザインにコミュニティーの意見を反映させようとなった。

 今の私たちの取り組みは、ハードの整備を前提としない。地域の人たちが緩やかにつながり、デザインという美的な力によって課題を乗り越えていこうというものです。

 <社会的な課題を解決しようとする「ソーシャルデザイン」の一つですね。>
 そうです。そもそもデザインというのは社会問題の解決のために生まれたものでした。例えば長屋では湿気がひどくて衛生的ではないから、床を持ち上げた「ピロティ」が生まれたように。

 それが近年は、社会の課題が「会社の課題」に置き換わってしまっていた。デザインによって「売れるようにしてくれ」と。売るための「コマーシャルデザイン」ですね。大量消費の宴の中で、デザイナーが忘れてしまった「本来のデザイン」を現代によみがえらせなくてはいけません。

 <母子手帳をデザインしたり、婚活や食育に取り組んだり、分野が横断的です。>
 非婚や少子化、人口減など現代社会の問題は複合的。だから自殺は福祉、モンスターペアレンツは教育の問題だと遠ざけるのは、デザイナーの責任放棄です。

「当事者が主体」
 <「地方再生の救世主」と言われます。>
 そうだとしたらひどく頼りない救世主ですね。来るなり「話を聞かせてください」ですから。

 <まずは耳を傾けると。>
 例えばまんじゅう屋さんが売れなくて困っているとします。「まちづくり? 関係ねえや」と言う店主に、「街を人が歩き回り、店にも来る仕掛けを考えましょう」と、自分と地域の課題を重ねてもらって話し合いの場に連れ出します。

 <当事者に考えてもらうのが大切なんですね。>
 そこにいる人たちの力で課題を解決しようと考えます。こちらが解決策を示しても、住民の気持ちがついてこない。自分たちでノロノロと迷いながら進んでいくのがいい。

 <どのくらいの期間、地域にかかわるのでしょうか。>
 3年が基本で、だんだんと関わりを減らしていきます。住民が参加するワークショップの進行も、インターネットを使った発信も、次第に自分たちでできるようになってくださいと、住民が力をつけていくようにしています。あくまで当事者が主体で、私たちはいつかいなくなる「よそ者」。「いい加減」に関わることを考えます。

 <うまくいかないことはありますか?>
 うまくいくまでやることにしているので、あまりない。ただ、予算の関係で事前準備に関われず、ワークショップの参加がゼロだったり、最初の会合で怖い人に怒鳴られてスタッフが泣いたりなんてことはありました。

(写真は真っ赤に紅葉した里山の風景・石川県能登町宮地地区)

「小さなことから」
 <時代に求められているという感覚はありますか?>
 自殺やうつなど、人と人とのつながりがないことによる社会的なコストがとても大きくなってきました。でも、政治や行政の解決する力が衰えてきている。住民に力を発揮してもらい、機能の一部を肩代わりしてもらうのは自然な流れではないでしょうか。官の中でそういう危機感を持った人からの依頼が仕事の8割を占めています。

 <もうかります?>
 お金という意味ではもうけないようにしています。お金を目的にすると、ゆっくりと進めることができない。それに「おせっかい」というか、実験的なことをしたいので、利益が出れば三重県の林業再生プロジェクトなど、非営利の事業につぎ込むことにしています。

 でも、関わりのできた方たちからたくさんの季節の名産品を送っていただいたり、地域に顔を出せば温泉に入って一緒に食事をしたり。そういう意味では「ぼろもうけだなあ」と思っています。

 <そもそもなぜこういうことを始めたんですか?>
 趣味ですね。設計事務所に勤めながら、大阪の堺市で勝手にフィールドワークをしていた。ヒップホップが好きなので、クラブでガンガン音楽が流れているところで、「まちづくり」について発表したりしてました。それが次第に仕事になった。

 <一つ一つは地道な取り組みです。>
 小さなことから、まだまだこの国の状況を好転させることができると思っています。人口が少ないほど、圧倒的に面白いことができる。スケールが大きいと、なかなか物事が決まりませんから。

 <東日本大震災を受けては?>
 ハードの復旧だけでなく、ソフトを担う人材の雇用に目を向けて欲しい。例えば、年200万円の報酬で若者を500人雇って、コミュニティーデザイナーにする。どんなまちにしたいのか、住民の気持ちをくみ取った復興ができます。東北にめどがついたら全国に散っていけば、国全体が元気になる。この5年は死にもの狂いでやりたいと思っています。(了)