『もっと元気にな〜あれ』(その8) 「役場が変われば 住民も続く」

(写真は奥の茶畑と稲かけの風景・京都府相楽郡和塚町–>
2011年10月25日
『もっと元気にな〜あれ』(その8)
 「役場が変われば 住民も続く」

 地理的条件に恵まれない離島の町や山あいの村。役場が本気になって地域再生に取り組めば、役場と住民がつながってまちは動き出す。「住民あっての役場」、と職員の意識が変われば、「あれをしてくれ、これもやってくれ」、と役場に頼むだけだった住民も、「俺たちでできることは、俺たちでやる」、と思うようになった。
 
 2003年6月、政府が決めた地方財政の三位一体改革は、国の関与を減らし、地方が財政的に自立して、自らのことは自らで決めるという地方分権を税財政面から進展させるものであった。

 しかし、財政基盤の弱い地方にとって、国庫補助負担金の削減、国税を地方税に移す税源移譲、地方の格差是正をなくす地方交付税の抑制など、国と地方の税財政関係を抜本的に改革する厳しい内容であった。

 その結果、財政の裁量権が国から地方に移され、財政の責任が地方にのしかかることになった。それまで国の補助金に頼ってきた公共事業は、地方の自主財源でまかなうことになり、補助金の削減で必要な事業予算も組めなくなった町や村が多くなる。しかし、危機意識と共通の目的、そして連帯感で役場と住民がつながれば、まちは元気になっていく。

 先ず、役場が身を削った。町長自ら給料をカット、その後に管理職、一般職員が続いた。次に、「住民あっての役場」と、職員に意識の変化が起きた。それを見て住民が、村の補助金削減を申し出る。そして、民間企業のコスト意識と経営感覚を役場に取り入れた。職員を民間会社に送り込み、厳しい競争社会の中で生き抜く企業の営業活動を体験させた。

 こうして財政危機をしのいだ役場は反転攻勢、起死回生の秘策を実行する。地元の特産品に付加価値をつけて販路を拡大する。若者を地域に呼び込み、住民として長く暮らしていけるよう手厚い支援策を実施した。このように、役場の思いと住民の心がつながって元気になった町や村がある。そこで、島根県の沖合、隠岐諸島にある島の町と長野県の山あいの村を次に紹介させていただきたい。

(写真は中ノ島最南端からの眺め・島根県隠岐郡海士町)
●『役場が変身 戻った産声』
「ニッポン人・脈・記 ふるさと元気通信⑦」
(2009年7月28日付け朝日新聞より引用)

 5年前のその朝、島根県海士町(あまちょう)の町長、山内道雄(71)は耳を疑った。町長室にきた総務課長の美濃芳樹(53)が、こういったものだから。「私たち管理職の給料を2割カットしてください」。海士町は、日本海にある隠岐諸島のひとつ、中ノ島にある。

 本土の学校で勉強する子どもたちへの仕送りでたいへんな管理職もいるだろうに。「待て、オレはそんなことは求めていない」。実は前日、山内は管理職を集め、自身の給料3割カットを表明していた。美濃はきかない。「みんなで決めたことです」。

 「三位一体」を名目にした地方交付税の大幅カットに伴って収入が激減、町は予算を組めないピンチに立っていたのである。山内はいう。「私の涙は止まりませんでした。あの朝、町の再生がはじまりました」。

 山内はもともと、島の郵便局員だった。電報電話局に配転され、島を離れた。85年のNTTへの分割民営化を経験し、民間企業のコスト意識と経営感覚をたたき込まれる。母親の介護のため、52歳で支店長の座をすて島に帰る。町議をへて02年、町長になった。

 さっそく、幹部会の名称を「経営会議」に変えた。その会議で何度もしかった。「してやる」じゃない、「させていただく」だ、町民あっての役場だ。職員の意識改革を始めて2年たったとき、交付税カットにあったのだ。管理職に続き、一般職員も賃下げを求めてきた。05年度の、全国でいちばん給料が安い自治体になる。

 身を削った役場を見て、町民が動いた。ゲートボール協会が8万円の補助金を返上してくる。老人会は、バス代半額をやめて、と申し入れてきた。こうして、財政危機にひと息ついた町は、攻めに打ってでた。特産の岩ガキや白イカを東京、上海に出荷したり、「さざえカレー」などを開発したり。

 おもしろい島があるらしい、と田舎暮らしを志す若者たちの評判がたつ。本土から船で2〜3時間かかる人口2千人あまりの町に、この5年間で164人が移り住んだ。去年、20人の赤ちゃんが生まれた。山内はいう。「職員との合言葉は、オレたちで日本を変えちゃろう、です」。

(写真は秋の高原の風景・長野県下伊那郡下條村)—->
 山内は昨年暮れ、地域づくりの達人を紹介するテレビ番組に出た。出演者の中に、「出生率をあげた村長」と紹介された首長がいた。長野県下條村の伊藤喜平(74)である。村でよろず屋と運送業をいとなむ家の長男に生まれる。高校3年のとき、父が病に倒れて進学を断念。がむしゃらに働き、家業をどんどん大きくした。

 そんな伊藤には、気がかりなことがあった。それは、村の将来。生糸産業が衰退し、人口がごそっと減っていたのだ。なんとかしたいと村議になるが、議員では村は変えられないと感じ、92年に村長に。

 ネームプレートをつけるかどうかだけで、何時間も会議をする職員たちを見て、伊藤は、「これはダメだ」と思った。民間のスピード感を身につけさせようと、職員全員を6日間ずつ、ホームセンターの接客研修に出した。研修から帰った職員の目の色が、変わっていった。

 ある集落の顔役が、「溝を修繕してくれ」と陳情にきた。伊藤は、コンクリートなどの現物を手渡して、言った。「その程度のことなら、みなさんでできる。役場も変わる。住民も汗と知恵を出してくれ」。できることは自分たちで、と住民は考えるようになる。

 伊藤は、つぎつぎに手厚い子育て支援策を繰り出した。医療費は中学生まで無料、若夫婦を呼び込む格安マンションを10棟建てた。すべて村の自前の財源でまかなっている。

 その結果、村の03〜07年の平均出生率は、全国平均を大幅に上回る2.04に。95年に4千人だった人口は、4200人になっている。「危機意識と共通の目的、そして連帯感で住民と職員がつながれば、地域は変わります」。(神田誠司)