『もっと元気にな〜あれ』(その5) 「突破口を開くのは・・・」

(写真は阿豆佐和気神社の大クス・熱海市熱海来宮)—>
2011年9月28日
『もっと元気にな〜あれ』(その5)
 「突破口を開くのは・・・」

◆「とびきりのヨソ者」(長野県上高井郡小布施町)
 造り酒屋の店を改修する議論をしたが、なかなか解決策が見つからない。堂々巡りの議論ばかりで、ちっとも前に進まない。結論を出せずに行き詰まる。結局は、冒険せずに安全策を模索するだけ。それでは奇抜で斬新なアイデアは出てこない。とどのつまりは、現状以上のモノを望まない。それでは何にも変わらない。

 そんなとき、予期せぬ人が突破口を開くことがある。固定観念にとらわれない人の行動は、ときとして常識はずれと映る。周りの煮え切らなさに業を煮やし、突拍子もない行動にでる。それが集団を引っ張り、やがて予期せぬ新しい方向へと動きだすことがある。

◆「とびきりのバカ者」(熊本県阿蘇郡南小国町)
 他人(ひと)にどう思われようが、こうと決めたら自分の信念を押し通す。旅館の経営者仲間からバカにされても、ひたすら信じたモノに向かって突き進む。新しい旅館が営業を始めた。その途端、地元の旅館から客が離れていった。従来のサービスだけでは満足しなくなったのだ。

 そんなとき、あるオトコが裏山と向かい合った。やがて、手作業で洞窟を掘り始めた。数年後、やっとのことで洞窟を掘りあげた。彼の旅館に客が戻ってきた。しかし、ほかの旅館は客が離れたままで、戻ってこなかった。仲間のやっかみから、彼は旅館組合から浮いた存在になった。

 旅館経営に危機感を抱いた若者たちは、そんなオトコの行動を素直に評価し、風呂づくりの教えを請うた。相談を受けたオトコは、客を呼ぶ風呂づくりを丁寧に教えた。仲間から疎んじられたオトコと若者たちが、まちおこしの先頭に立った。

 造り酒屋の建物は、古くからの伝統を受け継いできた象徴だ。しかし、ひとりの女性が建物の壁を壊したことが、店を改修する動きにつながった。また、客の来なくなった旅館の立て直しに、岩山と向かい合い、手作業で穴を掘り始めた。このように、奇想天外な行動でまちおこしを成し遂げた人たちを紹介させていただきたい。

(写真は青森県黒石市の造り酒屋)—–>
●『ヨソ者・バカ者に続け』
「ニッポン人・脈・記 ふるさと元気通信⑥」
(2009年7月27日付け朝日新聞より引用)

 まちおこしは人に尽きる。渦をつくるのは、ヨソ者、バカ者、若者。きょうは、とびきりの2人の話だ。とびきりのヨソ者は、金髪、碧眼の米国女性、セーラ・マリ・カミングス(41)。長野県小布施町で約250年つづく「桝一市村酒造場」という日本酒づくりの会社に勤めている。

 東海岸、ペンシルベニア生まれ。小学生のときに野球チームの紅一点でエースになるなど、負けん気が強い。大学で日本の文化、歴史を学び、関西外国語大に留学した。吉本の劇場に通い、ますます日本好きに。長野五輪を数年後にひかえた24歳のとき、日米の懸け橋になろうと長野に行くが、仕事は翻訳や通訳ばかりで、くさっていた。地域を大切にしている「桝一」のことを聞き、社長の市村次夫(61)に会いに行く。その場で採用された。

 ある日、店の2階からドカン、ドカンと大きな音がする。社員が飛び込んできた。「社長、こわしてます!」。市村がかけつけると、セーラが鉄の大きなハンマーを振り上げ、壁を壊していた。議論ばかりして、店を改修するかどうか結論を出さない。その煮え切らなさに、セーラはしびれを切らしたのだ。市村は笑う。「ヨソ者が入れば、波風が立つ、とは思っていました。でも、台風でした」。セーラに、「台風娘」のあだ名がついた。

 地域貢献をまかされたセーラは、小布施町に何度も逗留した葛飾北斎に目をつけた。4年ごとにイタリアで開かれていた国際北斎会議の誘致に成功する。98年、国内外から約500人の研究者が集まり、「北斎のまち」として、小布施が世界に発信された。

 6年前、ハーフマラソンの大会を始めた。道路使用許可は難しいという警察に、セーラは食い下がる。10回もコースを変更して了解を取り付けた。ことしの大会の参加者は、過去最高の6700人にのぼった。「外国人だから、女だからっていう逆風もありました。でも、自分を鍛えてくれてるんだと思って走っています」。セーラの肩書は、「代表取締役」。つまり、彼女は会社を代表する立場にある。市村から全幅の信頼をえている証しだ。

(写真は洞窟風呂の入り口・熊本県黒川温泉)—–>
 
 とびきりのバカ者は、後藤哲也(77)。ノミと金づちを使い、一人で洞窟風呂を掘った。熊本の黒川温泉で明治からの旅館「新明館」をいとなむ。7人きょうだいの長男に生まれ、戦後すぐに家業を手伝い始めた。23歳のとき、新規に旅館が進出してきた。対抗するには、目玉になる風呂を新たにつくるしかない、と考えた。

 前は川、裏は岩山。その岩山に向かう。硬くて一日数㌢しか掘れないことも。旅館仲間からは変人扱いされた。3年半かけて、長さ30㍍の洞窟を掘りあげ、風呂にした。口コミが客を呼び、後藤の旅館は満室が続く。ほかの旅館は閑古鳥が鳴いていた。やっかみからか、後藤は旅館組合から浮いた存在になった。「僕は嫌われ者やったとです」。

 後藤を孤独から救ったのは、2世、3世の若手経営者たちだった。進学などでいったん黒川を離れて戻ってきた彼らは、後藤の手腕をすなおに評価した。相談された後藤は、露天風呂づくりを丁寧に教えた。その若手たちはいま、温泉街おこしの先頭に立つ。かつて地図に載っていなかった黒川温泉は、年間90万人を超す客でにぎわっている。(神田誠司)