_山城げんき村 むらびとがドラッカーを読んだら?その3

いくつになっても会議ずき

 今月も山城げんき村を訪れた、大学生の(%ニコ男%)ニコ男たちを待っていたのは、やっぱり会議でした。
山城げんき村のむらびとの皆さんは、まだ仮称の農産物等栽培・販売促進組合規約について、ああでもないこうでもないと自由気ままに発言されています。
現在のところ議論の焦点は、まだ生産されてもいない農産物の販売時に発生する税金などの納税と、農産物を販売する時に必要な包装の資材を、いったい誰が準備して負担するのかと言う、もっぱらお金の問題でした。脈絡の無い会議で話の順序が何処か違うような気がしていました。
 こんな悪循環を繰り返す会議ばかりしていたので、とうとう誰も知らない間に、山城げんき村の人口は高齢化と少子化によって、限界集落に近い水準になっていたのでしょう。
 (%ニコ男%)ニコ男は、あまりにも自分の利益ばかりにこだわる会議に眩暈を感じて思わず。『世界が限界にきづいた時』と題することになるはずだった論文の草稿について思い返していました。

国立社会保険・人口問題研究所はこう推計する

 世界の人口膨張は止まらない、一方、日本の人口は減少に転じようとしていて、それも大変な勢いで

 国立社会保険・人口問題研究所が2006年におこなった推計によれば、世界の人口が90億人を突破すると考えられている2050年頃、日本の人口は9000万人前後に。さらに2105年には4500万人ほどになるとも言われる。現在の日本の人口は1億2800万人。つまり今後100年で、約3分の2の日本人が消えるという計算なのです。
 もしこの推計通りに進めば、世界で誰も経験したことのない人口激減社会に突入する日本。いやすでに、日本の人口減少は「ジャパンシンドローム」とも呼ばれ、これから多くの先進国が直面するだろう人口減少を、いち早く経験するサンプルとして、世界中からその動向が注視されていると言います。
 とはいえこれまでの1万年におよぶ歴史を振り返ってみると、日本列島が人口減少に直面したことは、実はこれが初めてではありませんでした。それではなぜ人口減少が起き、日本人はそれをどう克服して1億2800万人の現代日本を作り上げてきたのか。その歴史をたどり、日本の人口の今と未来を探ってみようとしました。
 上智大学経済学部教授で歴史人口学者の鬼頭宏氏による、「日本列島の人口波動」という右上のグラフを見てみましょう。今から約1万年の間に、日本列島の人口は、大きく見れば右肩上がりで増加してきています。だが、そこには大きく4回の変動ポイントがありました。右肩上がりに増えていた人口が、一時減少するポイントです。このグラフを見るとわかるように、日本の人口は、1万年の間に大きな4つのピークを描いていました。
 こうした人口減少は、出生率を死亡率が上回ることによって起きますが、それを引き起こした原因は、それぞれの時代によってさまざまでした。最初の大きな減少、つまりひとつめのピークが訪れたのは、縄文時代後半。これは気候変動が大きな原因になったと言われています。

 日本列島が、初めての大きな人口減少期を迎えた縄文期は、こんな時代でした。

 「紀元前2300年のころ、日本には26万人が住んでいたと言われています。原始時代としては高度な狩猟採集経済を営み、限りある空間を最大限に利用していたと考えられています」
 住居跡などから割り出してみると、日本の人口密度は狩猟採集社会としては、世界一高かったといわれています。ところが縄文時代も晩期に入ると、その人口が一気に減少します。それも26万人の人口が、8万人にまで落ちてしまう急激な減少でした。
 原因は、気候変動によって気温が下がり、食料供給量が激減したこと。クルミ、ナラ、トチの実……貴重な食料であったナッツ類が気温低下の影響を受けて激減してしまう。そして食料の供給量に合わせるように、人口はみるみる減っていったのです。
 「この時代は、ほかに火山の噴火などの自然災害が、一瞬、大きく人口を減らしたこともあったようです。ただしこれは、地域的なものであって、列島全体の人口減少という波には結びつかなかった」
 26万人といえば、現在の東京ならほぼ墨田区の人口となります。これが日本列島全土を使って生活していたと考えると、かなりの余裕のある人口密度と考えられるが、
 「当時の技術水準から見ると、すべての技術をフルに動員して増やせるところまで増やしたギリギリの人口だったんです。そんなときに、気候変動がやってきた。これが急激な減少の大きな原因となった」
 パンパンに膨らませた風船が一瞬で割れるように、大きく人口は減り、人口曲線はひとつめのピークを描き始めたのです。
 26万人いた縄文の人口が、8万人まで激減し、まもなく迎えた弥生時代。再び人口は増加に転じました。海の向こうから持ち込まれた稲作の技術が、全国に拡大。食料供給量がアップして、それに合わせるかのように、またたく間に人口を押し上げたのです。
 そんな「正のスパイラルによって」、紀元前2300年から紀元前1000年までの約1000年間で、8万人まで落ち込んだ人口はおよそ8倍の60万人まで伸びていきました。
 この縄文後期の人口減少期から、弥生時代の人口増加期にかけての人口カーブは、日本列島の人口変動に共通する黄金パターンと言うことができます。その後も、日本列島の人口の増加のポイントには、多くの場合、海外から持ち込まれた技術革新があったからです。新しい技術や社会制度などが持ち込まれるたびに、文明システムが転換し、人口は増えていったのです。
 一方、そうした新しい技術が定着し、発展の余地がなくなると、人口は横ばいに転じるのが常で。そこに気候変動などが起こると、一転、人口が減少していきます。これが、日本の人口変動のひとつのパターンとなっています。
 稲作技術をきっかけに始まったこの人口増加も、その後奈良時代には500万人と順調に伸びていきましたが、平安時代の700万人をピークに再び減少期に入っていきます。
 この減少の原因となったのは、社会システムの変動です。「それまで、ひとりひとりが朝廷に租庸調を収めることで経済が回っていた中央集権国家が、平安時代に入ると次第に形骸化していきます。と同時に、耕地の開発にブレーキがかかっていきました」
 中央集権の仕組みがゆるんで、国家が弱体化。農地開発にまで手が回らなくなったためとも言われています。
 「実際には、開発できる土地の余地は、まだこのときはたくさんあったと思います。ところがその開発が次第におこなわれなくなってしまう。そうして荘園領主は開発よりも寄進によって荘園を拡大するようになり、国からも国民からも、意欲が失われていった」
 そこへきて、平安時代には再び気候変動が起こりました。今度は、温暖化でした。この温暖化によって、西日本はとくに乾燥が進み、水田などの水の確保が不安定になっていったのです。弱体化した国家では、新たな農地灌漑をおこなう余裕もないので。こんなふうにして、日本全体が、末法思想の広がりにみられるように未来に失望する停滞ムードに包まれ、人口停滞を招いていったようです。
 「この時代は、気候変動による飢饉や天然痘の大流行などの記録も残っています。ただし、本格的な人口減少を招いたのは、意外に、このような人の心理も大きかった。未来に希望を持てないという、心理的なブレーキと気候変動などの外的要因がセットになって、人口減少期に入る例は、このあとの時代も不思議と多いですね」

気候変動と末法思想で人口停滞

 こうして人口は、平安中期にブレーキがかかったまま、鎌倉、室町時代を迎える。これが日本の人口曲線の2つめの山となった

 平安中期から鎌倉時代が終わるまでの約300年間は、人口600万から700万人の時代が続く人口低迷期でした。これが再び、人口増加に転じるのは室町時代のことです。
「荘園制度が形ばかりのものになり、代わって荘園役人から成長した在地領主の力が大きくなっていきます。やがて在地領主の中から大名が生まれ、封建社会の枠組みができてきます。ここで生まれたのが貨幣経済という仕組みでした。年貢は、現物より貨幣でおさめさせるほうが、荘園領主にとっては都合がよかったため、全国へ広がっていった。こうしてマーケットが整い、拡大していったのです」
 守護大名同士が争いを始め、戦国時代に入ったことも、発展に弾みをつけまし。築城のための土木技術が農業用水に応用されるなど、さまざまな農業技術も進みました。また政治的な再統合も起こり、16世紀半ばまでに、国内は経済面でも活性化していきます。
 さらに江戸時代に近くなると、農民が勤勉に働くためのモチベーションもさまざま生まれて来ました。たとえば貨幣です。主に領主だけが、年貢の代わりに手にすることができた貨幣が、このころになると農民にも少しずつ広まって来ました。
「それが生産増大のインセンティブになっていくんです。しかも狭い土地でより生産性を上げたいとなると、当時としてはたくさんの人が住んでいた日本では、労働集約的な農業を目指すしかない。そしてこれに稲作が向いていたんですね。だらだら働く人より、熱心に働く人がほしい。人を雇うより、家族経営主体の農業に移っていった」
 規模は小さいが、土地の生産性は高い。そんな小規模な家族経営型農業のための人手を増やそうと、人口が急激に増えていったのです。
「こうやって人口成長と、経済成長が同時に起きていきます。もちろん人々は猛烈に働きました。狭い農地に、勤勉な労働力を投入する、そんな日本ならではの農業がここに成立していくのです」

 人口曲線の3つめのピーク。これがその登り坂の始まりだった。

「経済発展とともに人口は増加し、発展が一段落して、その伸びしろがなくなると、人口は減少に転じる」
 そんな鬼頭氏の言葉の通り、経済発展を背景にした、室町時代からの人口増加も、永遠には続かなかった。ピークとなったのは江戸時代中期です。
「1600年頃、日本の人口は1200万人から1800万人くらいと言われています。私の考えでは、1500万〜1600万人というところでしょうか。ところがその後、江戸も後半に入ると、日本は3200万人もの人口を抱えるようになる」
 そしてここから幕末までの1世紀以上、この3200万人というところで、人口はピタッと止まってしまうのです。大きな原因は「少子化」だった。ちなみに江戸時代後半の生涯出生数は平均5人。ただし当時は子供の死亡率が今と比べて桁違いに高かった。5人生んだとしても、1人の男子の跡取りを残せるかどうか、微妙なところだったということです。
 ではこの“少子化”はなぜ起きたのでしょうか。
「鎖国の日本では、食料もエネルギーも完全に自給でした。ここで人口の増減が止まったのも、当時は3200万人という人口が、日本列島の自給自足システムが許容する、最大限の人口だったためと考えられますね」
 食料とエネルギーの供給量に合わせて、人口は増減する。そんなパターンがここでも見て取れる。これに加えて、18世紀から19世紀にかけての江戸時代には「天明の大飢饉」など、大きな飢饉もたびたび起きていました。気候は寒冷期に突入し、冷夏、日照不足、洪水など、農作物への災難も続きました。ただし、この少子化を招いたのは、そうした自然災害ばかりではありません。
「1666年に『諸国山川の掟』という森林開発を制限する掟も幕府から出されていることからわかるように、江戸時代の人々はすでに、文明が招く環境破壊の意識、つまり今でいうエコの意識を持っていたと考えられます。飢饉など自然の力を目の当たりにした江戸の人々が、将来の明るくない展望と、環境負荷をかけたくないという心理から、無意識に子孫を増やすことにブレーキをかけた。そうして江戸時代の少子化を招いたというのも大きいでしょう」
 3200万人前後で人口が止まる停滞期は、鎖国が解かれる半世紀ほど前の文政の時代まで続くのです。
「19世紀に入ると、寒冷気候がゆるくなり、人口は再び増え始めます。これが現代に続く、4つめの波の始まりです」
 文政の時代になると、物価が上がってインフレが起こり、国内経済が再び拡大路線を進むようになる。同時に人口も増加に転じていった。生まれたばかりの子供たちも、20年もすれば労働力となり、さらに次の世代の経済発展を支えた。労働者が多いため、賃金は上がらないが、投資には最適。「人口増加、物価上昇、投資増大」という3点セットによる、現代型の経済成長が起こったのです。
 同時に、人が生活する土地も広がって。コストをかけて海を埋め立てて干拓する、新田開発が活発化したからです。こうした拡大路線に、さらに弾みをつけたのが1859年の「安政の開国」。つまり、320年もの長期間続いた鎖国に終止符を打ったことだったのです。
「鎖国のままならこのような人口増加は続かなかったはず。開国による、海外からの技術の輸入、エネルギーの輸入、農業用の肥料の輸入などが可能になったからこその、人口拡大でした。たとえば食料に関していえば、19世紀の終わりには米の生産が頭打ちになり、自給率が落ちてくる。大正期1920年代には米の自給率が85%くらいにまで落ち込みます」
 安政の開国時、3300万人だった人口は、明治の終わりごろには約5000万人に。自給自足がギリギリ回っていた江戸時代の人口と比べると、 2000万人近くの食料が必要となった。干拓などによって土地を広げたり、技術改良によって生産を増大させるだけでは追いつかなくなり、日本は海外に、食料やエネルギーを求めるようになっていきました。
「たとえば米でいえば、台湾や朝鮮が供給基地となる外米が、日本人にとって重要な食料になった。それとともに、ハワイへ、米国西海岸へ、ブラジルへ、南米へと海外移民送出を広げ、1930年代になるといよいよ満州開拓が始まります。そうやって日本は、つねに人口圧の回避と食料やエネルギーの調達のために、対外政策をしてきたのです」
 近代における日本の経済成長が本格化したのは、西南戦争が終わった1880年頃で。
「経済成長と合わせるように、人口も年率1%の割合で増加を重ね、1967年には1億人を突破します。ところが70年代に入ると、1960年代の高度成長期には10%と高かった経済成長率が、5%前後に落ち込み、さらに90年代には2%台にまで低下する。人口はまだ減少しないまでも、これに合わせるように、その増加が鈍っていきます」
 経済成長と人口。このふたつが、どのような因果関係を生んだのか。この人口増加が鈍った原因を、あらためて鬼頭氏に聞いてみたところ。
「かつての人口減少は、一般に死亡率が増えることで、出生率を死亡率が上回った。一方現代では、出生率が猛烈に低下したことが大きな原因になっていることは明らかです。少子化という言葉自体は、1990年に誕生した新しいものですが、出生率が減ることで次世代の人口規模を維持できる水準を下回り、現代の人口鈍化が始まったのは1974年。翌年には、日本人の合計特殊出生率、すなわち1人の女性が生涯に産む子供の数が2を割り込み、のちに言われる『少子化』が始まったと考えていい」

世界の限界にきづいて人口減少へ

この少子化の大きな要因を、鬼頭氏は「エネルギー問題」と見ている

 きっかけは1973年のオイルショック。たとえばガソリンや灯油の価格が高騰し、町からはトイレットペーパーが消え、エネルギーが枯渇するという未来を、国民の多くが実感しました。
「これは高度成長が一段落し、安定成長に移行した時期とも重なって、国民の将来への期待感が急速に失われた時期でもありました。エネルギーは足りない、永遠に続くかに見えた経済成長も鈍る。また公害問題もつぎつぎ浮上して、将来への暗雲が立ちこめ始めるのです。これまでも歴史が繰り返してきたように、将来を悲観する国民の心理が、人口増加に歯止めをかけたと考えることができるかもしれません」
 限りある食料やエネルギーの供給量とのバランス、自然災害、将来への絶望……その時代のさまざまな要因と絡み合いながら、日本の人口は縄文時代から現代に続く約1万年の歴史のなかで、増減しながら適切な人口を探ってきました。
「日本は、たしかに海外の諸国と比べて、農業に適した土地が少ないというデメリットがあるかもしれない。でも江戸時代は鎖国したまま、3200万人もの人口を自給自足とリサイクルで養うことができた。しかも現代は、食料自給率が40%を切りつつも、海外からふんだんに食料を輸入できるようになっています」
 そんな時代の人口変動のキーとなるのは、やはり将来へ悲観楽観という心理的な要因だ。
「食料やエネルギーが、どんなにたくさんあっても、産まない人は産まない。物質的な要因より、将来への心理的な悲観楽観が大きく作用しているからです。つまり国民の心持ちひとつで、現在の少子化も食い止められる可能性はあると思っています」
 そう話しながら、鬼頭氏はスクラップしている1974年のある新聞記事を示してくれました。「人口ゼロ成長をめざせ。子供は2人が限度」。そんな大きな見出しが書かれた記事には、同年の「人口白書」による、「人口増加への警告」を報じていました。もちろん誤植ではありません。わずか30年ちょっと前には、人口減少ではなく、人口増加に国が警鐘を鳴らしているのです。
「つまり今問題になっている少子化は、日本で人口増加が起こっていた60〜70年代、世界の人口爆発と、食料・資源問題などを解決するため、政府主導で始まったものなんですね。しかもこの1974年の『人口白書』が提唱した『2011年までに人口減少に転じる』という推計は、6年も前倒しで2005 年にはほぼ実現してしまった」
 つまり、この皮肉な「実績」を見る限り、日本の人口は、政府主導のコントロールが不可能ではないのでした。

コモンズの悲劇

 (%ニコ男%)ニコ男は、山城げんき村のむらびとの皆さんの将来について考えていました。
今後100年で約3分の2の日本人が消えてしまうのです。上智大学経済学部教授で歴史人口学者の鬼頭宏氏が取り上げる、国立社会保険・人口問題研究所の推計によると、日本の人口は2050年頃9000万人前後になり。さらに2105年には4500万人ほどになるとも言われています。
 それにもかかわらず、山城げんき村のむらびとの皆さんの考えは、目先のお金儲けにばかり集中していているようでした。しかも出来るだけ自分の負担と責任を減らして、他の人に何もかも丸投げをして、自分だけイイ思いをしようとしているようでした。
 ですから、山城げんき村でのまだ仮称の農産物等栽培・販売促進組合規約は、一般的な集落営農の組合や組織ともまったく違う性質のもので、まさしく休日に素人が集まって青空市場を開業しようとしているようなものでした。
 この種の目論見には決まって、コモンズの悲劇が憑いてまわるのです。
たとえば、共有地(コモンズ)である牧草地に複数の農民が牛を放牧するとします。農民は利益の最大化を求めてより多くの牛を放牧します。自身の所有地であれば、牛が牧草を食べ尽くさないように数を調整しますが、共有地では、自身が牛を増やさないと他の農民が牛を増やしてしまい、自身の取り分が減ってしまうので、牛を無尽蔵に増やし続ける結果になるのです。こうして農民が共有地を自由に利用する限り、資源である牧草地は荒れ果て、結果としてすべての農民が被害を受けることになります。
 また、牧草地は荒廃しますが、全ての農民が同時に滅びるのではなく、最後まで生き延びた者が全ての牧草地をいずれ独占することになります。このことから、不当廉売競争による市場崩壊とその後に独占市場が形成される過程についても、コモンズの悲劇の法則が成り立つのです。

この物語はあくまでもフィクションです