「長岡京遷都と難波宮の移建②」

(%緑点%)H27年前期講座(歴史コース)の第6回講義の報告です。
・日時:4月21日(火)am10時〜12時10分
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:長岡京遷都と難波宮の移建②
・講師:中尾芳治先生(元帝塚山学院大学教授)
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◆前回(H26年11月11日)の講義の復習
半世紀を超える難波宮跡と長岡京跡の考古学調査により、文献にはみえない難波宮移建の事実が証明された。
・長岡京跡の大極殿跡・朝堂院跡から発見された諸殿舎の規模や構造が後期難波宮の施設と多くの共通点を持ち、出土の大半は難波宮式瓦(重圏文・重廓文軒瓦)である。
・『続日本紀』によれば、785(延暦四)年正月元旦・朝賀の儀が大極殿で行われたことがみえる(わずか半年で完成した)。
*右上の写真は、中尾先生のガイドによる「現地見学−長岡京跡ー」(12月2日)です。(場所は「大極殿跡(史跡大極殿公園)。」

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(%エンピツ%)講義の内容
長岡京遷都の理由
1.桓武天皇の新王朝意識
・天応元年(781)、光仁天皇は、皇太子山部親王に譲位。桓武天皇の誕生。
・桓武天皇の政権基盤は、当初きわめて脆弱。…母方の出自の弱さ〔.桓武の母・高野新笠(たかのにいがさ)は百済系渡来人氏族・和乙継(やまとのおとつぐ)〕。
★天武系皇統から天智系皇統への変化
桓武は自らの王権の正統化する手段の一つが、天武系から天智系への皇統変化を天命による王朝交替として演出。①天智−光仁という新たな皇統を強調。②交野の「郊祀」(こうし)(冬至に都城の南郊で天帝を祭る儀式)を実施し、光仁天皇を祀っている。
2.水陸の交通の便
長岡は、桂川・宇治川・木津川の合流点をおさえ、東山・北陸・山陰・山陽の各道にもアクセスできる水陸交通の要衝であった。
3.長岡周辺に本拠地を持つ氏族との関係
長岡京は渡来系秦氏が勢力を持っていた地域。淀川を挟んで南岸の河内国交野(かたの)の地域は、母に縁のある百済王族の一族が勢力。
・(注)「白村江の戦い」(663年)の後、百済の王族・貴族は多く倭国へ亡命した。
4.桓武天皇は山城国乙訓郡で育った

長岡京遷都の経緯
桓武天皇は、新しい王朝(天智系)は新しい都で出発すべきという発想で造営しようとした。
・ 延暦二年(783)3月、和気清麻呂を摂津太夫として準備作業を行わせ、延暦三年(784)5月に、桓武は山背国乙訓郡長岡村の視察を命じた。長岡京造営の準備である。11月には桓武が長岡に移り、翌四年の正月には、大極殿で最初の朝賀を挙行。
・前期と後期の二段階造営説…前期(784年6月〜786年中頃)は、主に聖武朝に建設された後期難波宮の施設を移建。後期(788年〜791年頃)には平城京の諸門が移建。
◆難波津の衰退…延暦四年(785)、三国川(神崎川)に通じる水路を開削(難波津を経由せず三国川を通じて瀬戸内海と長岡京が直通する。)→難波宮の重要な難波津を棚上げにする政策。…(注)難波や難波津は平安時代にも活用されていたとする説もある。
◆山崎津の整備…都の外港で、平安時代も含めて物資の集積が行われる。
◇長岡京は、ほぼ境域は条坊制にもとづく市街地があった(未完の都ではない)。しかし、どこまで造られたかについては、まだ未発掘。→都(みやこ)は、長い期間をかけて造営。お寺なども数十年かけて造られる。

長岡京廃都の理由−わずか10年で廃都−
1.洪水の被害
水上交通の良さは、洪水の発生と隣り合わせで、水害に襲われている。
2.早良親王の怨霊の畏れ
★[藤原種継暗殺事件](延暦四年(785)9月)
桓武天皇、平城宮に行幸のとき、造長岡宮使長官・藤原種継が暗殺。桓武天皇は、翌日、急遽平城京から長岡に帰り、大伴継人(つぐひと)らを逮捕・処罰する。(大伴家持は死去しているにもかかわらず官位を剥奪)。早良親王は乙訓寺に幽閉。親王十余日絶食して、憤死。遺体は淡路島に運ばれた。
(注1)この事件は、長岡京遷都に根強い反対勢力があったことを示している。
(注2)父帝(光仁)の意向で実弟・早良(さわら)親王が皇太子。わが子安殿(あて)親王(後の平城天皇)を皇太子にするために藤原種継暗殺事件を利用して、一挙に早良親王を排除にしたと考えられる。
★【早良親王の怨霊】(延暦七年(788)、死後3年目から忌事がつづく。)
・≪788−789年≫:桓武天皇の周辺を取り巻く女性たち−夫人藤原旅子死す。皇太后高野新笠死す。皇后藤原乙牟漏死す。
・≪790年≫:干ばつ、疫病などの社会不安。
・≪792年≫:安殿皇太子の病が長期なので、占うと「早良親王の祟り」と出る。→早良親王の墓の周囲に堀を造り、穢れないようにさせる。
・≪794年≫:皇太子妃藤原帯子急逝。
(注)つぎつぎと忌事がつづく。怨霊に対する恐怖心が大きかった。たまりかねた、桓武天皇は、793年遷都のため宇太村に遣使。延暦十三年(794)に平安京遷都の詔勅を発する。山背国を山城国に改め、新京を「平安京」と名づける。「平らけく、安らけく、あってほしい」という願いを込めた命名であろう。…長岡京はわずか10年で廃都となるが、その理由についてはよく分かっていない。