『竹内街道1400年の星霜』

(%緑点%) 前期講座(歴史コース)の第7回講義の報告です。
・日時:5月14日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:「竹内街道1400年の星霜」
・講師:上野 勝己先生(元太子町竹内街道歴史資料館館長)
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(%エンピツ%) 講義の内容
今年、竹内街道が設置されて1400年と言われています。本当でしょうか。
1.竹内街道1400年とされる根拠?
★『日本書紀』推古天皇21年(613)紀
「冬十一月 自難波至京置大道」(難波より京に至るまで大道を置く)

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2.大道施設の背景
★「難波大道」の発掘調査(大和川今池遺跡)…1979年の発掘調査で、難波宮中軸線上で路面幅18mの直線道路遺構が発掘確認されている。→幅10m以上もある道路は、何のために必要だったのであろうか。
飛鳥〜平安時代の遣隋使・遣唐使と大道
・推古16年(608)、隋使・裴世清(はいせいせい)一行は、大和川・初瀬川を船で遡って海石榴市(つばきいち)に上陸したと見られ、当時はまだ横大路などの大道は成立していなかった。
・その後、外交の道として大道が作られた。道幅を10m以上と広くしたのは、外交儀礼の道として、飾馬を並べて中国の使者を迎える特別の意味があった。
大道沿いの“磯長”埋葬伝承を持つ人々
・なぜ、長尾ルートを通らないで、磯長ルートを通ったのか。→“磯長”には、蘇我氏系の天皇が多く埋葬されている。(飛鳥から磯長までの葬列の道でもあった)。
大道という語
・右上の図で、7ヶ所の■印は、大道という地名が残っているところです。
大道は、古代幹線道路を意味することが多いが、幹線道以外にも大道と呼ばれる道も多いので、単にその地方の幹線道をいう呼称だったかもしれない。大道という語だけでは古代道想定の史料にはなりえない。

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3.竹内街道名の推移
(1)竹内街道“名”の初見史料は、17世紀中頃
・『正保河内国絵図』(正保年間1644−1648)…河内平野を横断する3街道に亀瀬海道・穴虫海道・竹内海道が出てくる
(2)江戸時代は、“竹内街道”という名前は存在しない
(3)明治以降に、竹内街道となっている

4.あとがき
・『日本書紀』推古21年(613)紀の「難波より京に至るまで大道を置く」は、たった八文字であり、どういう経過で大道が作られたのかは書かれていない。また、竹内街道とは何も書かれていない。→このとき作られた大道は、外交路であったために、約100年間(710年平城京に遷都)で任務を終えた。
・竹内街道という名は、明治に入ってから使われているので、せいぜい約140年である。