京都教育大生の集団準強姦事件に思うこと

久しぶりに更新します。

京都教育大学の集団準強姦事件について思うことを書きたいと思います。
シリーズになる予定ですが、現在超超多忙なゆえ、次の更新がいつになるのかは予定が立ちません。のんびりとお付き合いください。

(%エンピツ%)その前に、私が記事を書く理由を書いておきたいと思います。
基本的に、当ブログでは、特定の事件について書くことはしていません。
その理由は、1つは事件に何らかのかかわりがある場合があること、そして2つ目は、報道(個人のブログの記事も報道のうちと考えます)は、どんな内容であれ、被害者の方々に対して二次被害を与えることになるからです。

では、なぜ書くことにしたのか、ということについてですが、理由は3つ。
1つは、事件のたびに思うことですが、被害者の立場を考慮することがあまりにもないと感じることが多いためです。
2つ目は、ご承知のとおり、昨今同じような大学内の性暴力が続いていること。
3つ目は、性暴力という問題を、根本から考えようとすることが少なく、だから事件の反省が生かされていないと感じるからです。

前置きが長くなりましたが、被害者の方の立場に極力配慮しながら、書き進めていきたいと思います。読む人も、被害者の方を思いながら、お読みくださると幸いです。

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(%エンピツ%) 大学側の言う「教育的配慮」とは?? <記者会見の報道から>
大学の記者会見の報道では、報道側は「大学の対応が悪い」という批判的立場をとっていました。
「本来、強姦罪は親告罪ですが、集団準強姦は親告罪じゃないので、すぐに通報すべきだったのに、大学側はそれを怠った」という主張でした。また、大学が「公然わいせつ」と発言したことも、かなり問題視しています。大学と文科省との対立も報道されていました。

それに対して大学側は「教育的立場を優先した」「教育的配慮をした」と説明し、かといってこのままで良いとは思っていなかったとし、「(通報するには)被害者の同意が必要と考えた」と答えています。

この一連の報道から、私は、大学側が言う「教育的配慮」について、「誰に対しての教育的配慮なのかな?」と感じました。
被害者の女性が、事件後に通学されているかどうか分かりませんが、集団から強姦をされて、その加害者に会うかもしれない大学に通学するのは、相当に無理があります。もしも通学されているなら、かなり無理をしているでしょうし、通学していないなら、当然のことでしょう。
被害者の女性の教育を受ける権利を第一に考えての「教育的配慮」だったのでしょうか。そうではなくて、加害者への教育的配慮が優先されていたとしたら、それはやはり、大学として誤った対応だったといわざるを得ないと思います。

性暴力の被害を受けた人は、その後の生活が一変します。
それまで普通にできていた、仕事や学習はできなくなります。恐怖から、外出することもままならなくなります。
事件の後に、味方になってくれる人が、被害者の方の意に沿う手伝いをしてくれ、心のケアをはじめとした支援を受けられれば、徐々に回復し、社会生活も元に戻っていきます。でも、それには、かなりの時間を要します。
反対に、味方になってくれる人がおらず、それどころか今回のように、被害者の言動が責められたり、加害者に対して何らかの対処してくれないと、ますます被害者を取り巻く環境は悪化し、回復は遠のき、傷を深めてしまいます。
大学側は、被害者の女性の立場を第一に考え、対応したかどうか・・・?
「公然わいせつと考えている」(つまり、被害者であるはずの女性も加害者と位置づけている)という発言を見る限り、被害者を加害者と同罪という見方をしているわけですから、被害者の女性に対して「教育的配慮」をし、通報に際して女性の同意を必要と考え、細心の配慮をしていたというにはあまりにも矛盾しています。
つまり、被害者の女性を第一に考えて対応されてはいない、「教育的配慮」は加害者である学生達のため、と言えるようです。

(%エンピツ%) 「集団準強姦」か「公然わいせつ」か?はたまた「合意の上」か??

加害学生達は、「集団準強姦」の疑いで逮捕されているということなので、立件されれば、裁判にかけられ、その結果有罪となれば罪名が確定となります。大学側が「公然わいせつ」と考えて、それを主張したところで、あまり意味をなさないでしょう。
ただし、なぜ大学が「公然わいせつ」を考えているのか、率直なところを聞いてみたいものです。

「合意」については、集団強姦が親告罪じゃないことから考えればおのずと分かるはずです。法的には「合意」はありえないということです。
それに、被害者の女性が告訴していますので、現実に「合意」はしていないということになるでしょう。
性犯罪の場合、加害者は「合意の上」ということが非常に多いものですが、加害者側の「合意の上」という主張は、信用できないということです。

(%エンピツ%) 大人として考えなければならないこと

今回の事件を「大人」として考えた時、大学という集団あるいは組織の中で起こった悲しい出来事について、大人側の都合で、あるいは認識不足によって、被害者を被害者として認定しなかったり、被害を軽く見積もったり、あるいは被害者を加害者と同罪とする発言(それも公的発言)が、どれほど被害者の女性とその家族を傷つけ、苦しめ、追い詰めているか、ということを、あらためて考えてみなければならないと思うのです。
また、大人として私達は、加害者の子ども達(今回の加害学生は20歳を超えていますが、精神性は子どもでしょう)に何を示したいのか、社会の次の担い手として何を学んで欲しいと思っているのか、問われているのではないでしょうか。

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お仲間の皆さん、率直なご意見をよろしく!