■準強姦、準強制わいせつなど

宗教の教祖(60〜70代?)による信者複数人への性暴力の事件です。

この日は被告人尋問でした。
検察官から、事件についての事実関係の詳細な質問があり、それについて被告人が答えるという形式です。
本当は、検察官と被告人の細かいやりとりを書く方がわかりやすいのですが、被害者の方々に配慮して割愛します。
警察官から、ひとつひとつの言動の意味や根拠が問われましたが、被告人は自分にしか通用しない理屈で、宗教の「儀式」ととうとうと語ったり、「治療」と説明したり、そうかと思えば「私が彼女のために恋人になってやった」と態度が大きくなったり、「不倫というなら否定しません」と居直ったり・・・。
検察官からの厳しい追求に、最初は雄弁だった被告人もだんだん「場当たり的な」発言が増え、それはあまりにも稚拙でした。
その発言は、被害者の女性達をあまりにも愚弄したものではないかと私は感じました。おそらく、被害者の女性達は、ますます憎しみ、憤りが増し、状態が悪くなるのではないでしょうか。
お気の毒に思えてなりませんでした。

この日はかなり長時間にわたって尋問が行われたので、次から次へと被害者の名前(被害者が特定できないように呼び方は配慮されていました)が挙げられました。
事件の概要、関係性は、資料もなく聞いているだけでは、複雑すぎてとても理解できないほど、とにかくたくさんの女性とその家族を巻き込み、「儀式」「教義」「治療」という名目で、従順な信者達の性を搾取していったようです。

信じていた人から性を搾取された場合、その行為が「被害」だと自覚できるまでに時間がかかることがあります。
雲の上から、教祖に「儀式」「教義」「治療」と言われたら、信者は簡単に信じてしまうものかもしれません。
また、信者の中でも、その特別(?)な行為を受けることが、他の信者との差別化となり、まるで自分が教祖から選ばれた存在であるかのように思ってしまうこともあるようです。
そうなると、その宗教内で性暴力が半ば公然と行われ、そして正当化され、まさに「儀式化」し、被害者は被害を受けているのにもかかわらず、「ありがたい」と思わされるという、マインドコントロールでも深い部分をコントロールされてしまいます。
あれは「被害」だったと認めることは、心のよりどころまで失うわけですから、信者にとっては、とてもとても辛いことなのです。

被害者の方々が一日も早くこころ穏やかな日を取り戻せますように、願ってやみません。