先日、深北緑地で開催されたお花見のイベントに行ってきました。
花は散ってしまっていましたが、車いす「障害」者、知的「障害」者、学生、ヘルパーさん、子ども、たくさんのメンバーが集まっていました。

我が家も、息子と娘をつれて参加しました。

みんなでお昼を食べたあとは、学生の頃から関わっている車いす「障害」者のおばちゃんと近くを散歩しました。この方とはもう10年以上の付き合いで、自分の母親くらい歳が離れています。この方に、私の4ヶ月になる娘を抱っこしてもらい一緒に散歩しました。

抱っこをしてもらっている間、この方が「こうやって、自分の娘もよく膝の上にのせたな、○○はこの膝の上が好きで・・」と、自分が子育てをしていた時のことをしみじみと話されていました。
車椅子の上の、その心地いい揺れの中で、私の娘はすやすやと眠っていました。

私が、[車いすを利用している言語「障害」者]に出会ったのは、学生の頃、大阪に出て来てからのことでした。言語「障害」者の発する声、そこに意味が存在しているということを知った時に、とても強い衝撃を受けました。そして「健全」者と「障害」者が分けられて生きてきたことも、そこで学びました。
それぞれが別々に育ってきているので、どうしても『存在』に違和感を覚えてしまったり、この方を、車いすの‘おばちゃん‘と言える関係になるまでに、たくさんの労力と時間を費やしたことを考えると、「今あたりまえに、目の前に「障害」者がいる」という私の息子や娘たちが、それとは対象的に映りました。と同時に、そんな子どもたちが‘しあわせ者‘だなと思いました。

これからどのように子どもたちが育っていくかはわかりませんが、楽しみであり、こういった話もいつかしてみたいです。

おおつか