「白村江の戦い」

(%緑点%)前期講座(歴史コース)(3月〜7月)の第5回講義の報告です。
・日時:4月14日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:白村江の戦い
・講師:市 大樹先生(大阪大学准教授)
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1.日本史にとっての「白村江の戦い」
百済滅亡【660年】
7月…倭国と長く同盟関係にあった百済が、唐・新羅の連合軍によって滅亡。
10月…百済復興運動。倭に滞在していた百済王族・豊璋(ほうしょう)を新国王に立てて国を再興しようと、倭へ救援を要請。
女帝(斉明天皇)の西征【661年(斉明七)】(右上の資料を参照)
『日本書紀』より…「660年12月には斉明天皇が難波宮に行幸して、兵器を調達させ駿河国に造船を命じるなど、筑紫に行く準備を進めている。そして、661年1月、≪御船西に征(ゆ)きて、初めて海路につく≫。斉明天皇をはじめとする朝廷の人々は、大伯海(おおくのうみ・岡山県)を経て、伊予の熟田津(にきたつ)の石湯行宮に到着する。その後、熟田津を発して筑紫の那津(なのつ)にいたり、5月9日には朝倉宮(前線司令基地部)に移った。…(中略)、斉明天皇は秋七月二十四日の朝倉宮で崩御。」→以後、倭では、中大兄皇子が皇太子のまま〔称制〕という形で天皇を代行し、指揮を執る。

–◆白村江の戦い【663年8月の会戦】(右の資料を参照)
日本書紀』より…「前日の8月27日の会戦でもそうであったが、28日も唐軍は陣を整えて倭軍を待ちかまえている。それに対して倭は軍の情勢を見ずに、≪我等先を争わば、彼自ずから退くべし≫などと単純突撃策しかとっておらず、指揮系統も統一されておらず、唐軍に比べて貧弱な兵備であった。」…これが「白村江の戦い」(倭国・百済遺民連合軍と唐・新羅連合軍の戦い)の実態である。この結果、倭は敗北し、豊璋は高句麗に逃げた。

2.世界史にとっての「白村江の戦い」
○動乱の朝鮮半島「三国統一戦争史」
古代国家として発展していたのは、高句麗・百済・新羅。
・660年…唐・新羅によって百済滅亡。→百済遺民による抵抗運動。
・663年…周留城攻略戦と白村江の戦い。百済の主戦場は周留城で、新羅軍の存在が大きい(新羅軍は陸軍、唐軍は海軍が主)。朝鮮では白村江の戦いを重要視していない。
・668年…唐・新羅によって高句麗滅亡。→高句麗遺民による抵抗運動。
(668年…新羅と倭の関係改善。新羅は唐との対立の中で、朝貢国の形で、倭に使節を派遣。これ以降、8世紀初までひんぱんに遣新羅使。)
・【676年】…新羅の「三国統一」。(唐を退却させて、三国統一)
・676年〜700年…新羅と唐は冷戦状態。日本と新羅は良好な関係。
○渤海の興亡(698年〜926年)
中国東北部・高句麗の故地に、698年、高句麗の将軍であった大祚栄(だいそえい)が渤海を建国。国土は、満州から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地域を含む東アジア。支配者層は朝鮮族、国民の大半は靺鞨(まつかつ)族と総称される民族、中国人など。渤海国は日本に朝貢して唐・新羅に対する後ろ盾を求めた。また、渤海が日本へ唐文化移入に果たした役割が大きい。926年契丹族(遼)によって滅ぼされる。
○唐王朝にとっての主要な国際問題(東部ユーラシア史)
突厥問題.(630年代初)→朝鮮半島問題(640〜670年代半ば)→吐蕃問題(660年代後半〜670年代)→復興突厥問題(670年代末〜680年代前半)
・突厥(とっけつ):6世紀から8世紀半ばに、モンゴル高原から中央アジアにかけての地域を支配したトルコ系遊牧騎馬民族国家。
・吐蕃(とばん):7世紀初めから9世紀中ごろにかけてチベットにあった統一王国。

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**まとめ**
◆なぜ倭国は派兵したのか
・朝鮮半島への権益の保持
・百済・高句麗に救援、新羅の討伐を目的
◆戦後処理
・大規模(万人単位)の兵力の渡海を見れば、日本史上の大戦であった。しかし、敗戦によって唐・新羅に連合軍が日本に侵攻してくる可能性は高く、このため、対馬と筑紫に防人(さきもり)を配備し、大宰府を中心とする防衛施設(水城(みずき)や朝鮮式山城)を築いた。また、瀬戸内海から機内にかけて防衛網の構築が急務であった。←多くの亡命百済人の技術を用いた。
・近江大津宮遷都(668年、中大兄皇子→天智天皇)