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2018/09/21のBlog
[ 16:09 ] [ 歴史・考古 ]
日 時 平成30年9月21日(金)13時30分~15時
 後醍醐天皇は鎌倉幕府の倒幕を計画するも、これが発覚して
隠岐に配流されます。(1332年)
 ただ翌年(1333年)には新田義貞が鎌倉を攻略して幕府が滅亡
すると後醍醐天皇も隠岐を脱出いたします。
 そして建武の親政が始まりますが、彼は倒幕に貢献した武士
よりも公家を優遇するような政治を行いました。
 結局 不満をいだく武士を集めた足利尊氏が室町幕府を開き、
形成が悪くなった後醍醐天皇は吉野(南朝)へ逃れざるを得なくなります。(南北朝分裂)
 彼は北闕の夢(京都へ帰ること)を抱き、そのために自分の皇子(18人)を手足のごとく使います。
 たとえば、①尊良親王:倒幕の旗頭として北陸路を行軍するも、幕府軍に攻撃され戦死しました。
 ②世良親王:将来を嘱望されるも、20歳頃に病没いたしました。
 ③護良親王:父のために懸命に働くも、見捨てられて殺害された悲劇の英雄です。
 ④宗良親王:生涯のほとんどを戦の流れに身を置くも、晩年は歌人として過ごしました。
 ⑤懐良親王:九州の統治を任され征西将軍となるも、福岡で死去いたします。
 ⑥恒良・成良親王:越前へ行軍を命じられるも捉えられ、京都で毒殺(牢死)されました。
 ⑦義良親王:後醍醐天皇の後継として南朝の天皇(後村上天皇)に即位しました。
 ・・・等ですが、再び京都に帰ることはなく、52才で崩御いたしました。
2018/09/20のBlog
[ 14:11 ] [ 環境・健康 ]
日 時 平成30年9月20日(木)13時30分~15時
 高齢になってきますと家族の人数が少なくなったり、作った
ものを何回も続けて食べなければならなかったり、つい面倒
になってきたりします。
 そういった時は、どう考えれば良いのでしょうか。
 その辺のことを病院の栄養士さんにお尋ねしてきました。
 データに、平均寿命(男:81.09才、女:87.26才)や健康寿命
(男:71.19才、女:74.21才)がありますが、この内健康寿命を
延ばすことが大事なことである由。
 この健康寿命を延ばすためには、食べるだけではダメで、身体を動かすことが大切(食べて動く)で、それにプラスして毎日を楽しく過ごす(生活を楽しむ)こととのことです。
 そして自分の体格(BMI)を知り、体重の変化などを常に確認することを習慣づけてほしいとのことで、標準は身長が150cmの人の体重は45~55㎏、160cmの人は50~60㎏だそうです。
 これにはバランスのよい食事をすることですが、そのバランスとは①穀物(ごはん、麺類、パン等)、②たんぱく質(魚介類、肉類、大豆、たまご、乳製品等)、③食物繊維(野菜類等)を適正に組み合わせることが基本とのこと。
 人数の少ない家庭では、なかなか少量を作ることはむつかしいので、あらかじめ何種類かを作り置き、それを適当に回し使いすれば、毎日同じものを食べなくてもよいのではないでしょうかとのことでした。
2018/09/19のBlog
[ 12:33 ] [ 歴史・考古 ]
日 時 平成30年9月19日(水)11時~12時30分
 幕末維新の出来事の中から、今回は禁門の変・薩長同盟・大政
奉還等を中心としたお話しがありました。
 西郷隆盛は月照を薩摩に匿まおうとしたことで、奄美大島に流刑
になっていましたが、1862年1月に赦免、しかし国父・久光に無断
で上京(寺田屋事件等)したことで、再び6月に流刑(徳之島→沖永
良部島)になってしまいます。
 翌年(1863年)は薩摩では生麦事件から薩英戦争が勃発して
いますし、長州では高杉晋作が奇兵隊を結成するなど、世間はますます騒がしくなってきました。
 そしてその次の年(1864年)には長州の過激派グループによる蛤御門(禁門)の変が起こりますが、この年の2月に赦免されていた西郷も参戦しています。(写真は蛤御門)
 国父・久光は西郷を憎んでいましたが、時局を打開するためにしかたなく赦免したものです。
 長州はこれに敗北し、幕府は第一次長州征伐を命じます。(長州は恭順して終結)
 長州は上記の他にも、四国(英・仏・蘭・米)の連合軍に馬関(下関)を占領されましたが、これは何とか高杉晋作の働きにより事なきを得ます。
 幕府はさらに1866年に第二次長州征伐を計画しますが、薩摩がこれを拒否し、長州も第二次征伐を阻止したいことから、ついに薩長同盟が結ばれます。
 その後将軍家茂が死去し、一橋慶喜が次期将軍に着くと起死回生の大政奉還を実行いたしました。
2018/09/15のBlog
[ 14:20 ] [ 文学・宗教 ]
日 時 平成30年9月15日(土)13時30分~15時30分
 小説家・放送作家・劇作家である井上ひさしの世界について、
お話しを伺ってきました。
 今回は特に彼の劇世界に焦点をあてた内容でした。
 彼は1934年11月16日に山形県の薬局の次男として生まれ
ましたが、5才の時に父が病没し、児童福祉養護施設に入園
する等して育ちました。
 一応 上智大学に入学するも休学して帰省し、2年余りは
公務員などをして過ごしています。
 その後復学しますが、同時に浅草のストリップ劇場で働き、この頃から台本を書き始めます。
 やがてNHKの「ひょっこりひょうたん島」を共作で執筆し、多くの人々に愛されるようになりました。
 さて彼の戯曲となりますと、公式サイトによれば「うかうか三十、ちょろちょろ四十」から「組曲虐殺」まで『68』を数え、「十一ぴきのネコ」で斉田戯曲賞を、「道元の冒険」で芸術選奨新人賞を、「しみじみ日本・乃木大将」や「小林一茶」で紀伊国屋演劇賞等を受賞しています。(他に直木賞、菊池寛賞等も)
 彼の作劇の特徴は、①音楽劇(歌芝居が多い)、②言葉遊びを多用、③エロチックな場面も、④多重構造劇も(劇中劇など)、⑤評伝劇も目立つ(樋口一葉、夏目漱石、松尾芭蕉、石川啄木等々)、⑥はめこみ(極端な例がシェイクスピアで、ハムレット・リチャード3世・リア王・ヴェニスの商人・ロミオとジュリエット等がひとつの芝居に引用されている)、⑦芸能の取り込み(浄瑠璃など)等々とのことでした。
2018/09/13のBlog
[ 14:05 ] [ 文学・宗教 ]
日 時 平成30年9月13日(木)14時~15時30分
 関西文化に育まれた文学として、今回は川端康成の「古都」を
紹介していただきました。
 彼は明治32年6月14日に大阪の医者の家に生まれますが、
幼くして両親を亡くし、祖父に育てられます。
 しかしその祖父も彼が16才の時に他界し、孤児となって母の
実家に引き取られて成人いたしました。
 さてこの「古都」という作品ですが、呉服屋の一人娘として育っ
た捨て子の娘(千重子)が、北山杉の村で偶然村娘(苗子)と出会います。
 二人は自分達が双子の姉妹であるということが解りますが、同じ屋根の下で暮すことはなく、物語は古都・京都の四季折々の美しい風景や伝統あるお祭り等を背景に切なく展開します。
 また西陣織の帯職人(秀男)や問屋の長男(竜助)も登場しますが、恋愛に進展することも劇的な展開もなく、円環的時間に依拠した1年が過ぎて行くのみです。
 彼はこの作品を書き終えた後、この小説がどんな風に出来上がっているのか私には解らない、北山杉を紹介したことにとどまっているかもしれない・・・と言っています。
 彼は日本人として初のノーベル文学賞を受賞した人ですが、その評価は西洋から観察していた日本の文化や情緒がよく解り、美学的要素が感じられるからだそうです。
 したがって評価の作品は、「伊豆の踊子」や「雪国」ではなく「千羽鶴」や「古都」であったようです。
2018/09/08のBlog
[ 12:58 ] [ 環境・健康 ]
日 時 平成30年9月8日(土)14時~15時30分
 がん治療について、化学療法センターにおいて化学療法に
より、入院ではなく通院での抗がん剤治療を行うという話しを
聞いてきました。
 化学療法とは、化学物質(化学反応によって人工的に作ら
れた物質)を用いた治療のことです。
 化学物質を医療に用いる利点は、①成分が均一である、②
大量生産が可能である、③科学で説明しやすい等々とのこと。
 抗がん剤もこの化学物質のひとつで、種類としましては、①細胞障害性物質(従来の抗がん剤)、②分子標的薬、③免疫チェックポイント阻害剤、④ホルモン剤等がある由です。
 これらの抗がん剤の採用目的は、①根治治療(がんを治癒する)、②延命治療(がんの成長を遅らせる)、③補助的治療(がんの転移や再発を防ぐ)、④緩和治療(苦痛や症状を和らげる)・・・です。
 抗がん剤はがん細胞の分裂を抑え、がん細胞を破壊する役割がある一方、副作用もあります。
 主な副作用は、①投与当日はアレルギー反応等、②投与1週間では倦怠感や食欲不振等、③投与2週間では発熱や口内炎等、④投与4週間では脱毛や手足のしびれ等だそうです(個人差あり)。
 さて冒頭の化学療法センターという施設ですが、ここは通院による患者が点滴による抗がん剤や生物学的製剤の治療を受ける所だそうです。
 入院による治療ではありませんが、専用の部屋で治療が受けられ、選任看護師もおり安心である由。
2018/09/07のBlog
[ 14:23 ] [ 歴史・考古 ]
日 時 平成30年9月7日(金)13時~14時30分
 平安時代の貴族と庶民の住宅事情についてご教示賜りました。
 現在 京町屋は道路に面して軒が連なり直接入口があります。
 しかし、平安時代の初期にはこの形式の住宅はなく、貴族の
寝殿造は築地塀で囲まれているし、庶民の家も塀で囲まれて
敷地の中に建っていたそうで、前述のようになるのは平安時代
後期頃からとのこと。
 まず貴族住宅の型式である寝殿造のことですが、中央に南面
して寝殿を建て、その左右背後に対屋を設け、寝殿と対屋は廊下(渡殿)で連絡されています。
 また寝殿の南庭を隔てて池を作り、池には中島を築き、池に臨んで釣殿を設けます。
 邸の四方に築垣を設けて、東西に門を開くようになっています。
 寝殿は基本的に主人と家族の限られた私的な住居空間で、客人はよほど親しい者以外はここには入れないことになっている由。
 さて一方庶民の住宅はと言いますと、広さは前述の貴族の邸宅の32分の1を基本としており、道路側は築地塀で囲まれていましたので門を開くことが出来ず、その中に小道を作り、その小道に面して入口が造られていたとのことです。(現在の京町屋とは基本的に異なる)
 またその位置ですが、貴族の邸宅は平安京の北部に集中していたのに対して、庶民階級の住宅は南部、特に五条~七条界隈に集中していたとのことでした。
2018/09/05のBlog
[ 17:38 ] [ 文学・宗教 ]
日 時 平成30年9月5日(水)13時30分~15時30分
 門戸厄神・東光寺(阪急電車・今津線・門戸厄神駅下車)の
住職による法話を聞く機会がありました。
 東光寺のご本尊は薬師如来とのことで、一般には「厄神さん」
と呼ばれ、厄除け祈願の寺として広く親しまれています。
 厄神さんのご本体は「日本三躰厄神明王」と呼ばれ、一体は
高野山の麓「天野明神」へ国家安泰として、次の一体は男山の
「石清水八幡宮」へ皇家安泰のため、残る一体は一般庶民守護
のためと門戸の東光寺に祀られていましたが、現存するのは東光寺のみとか。
 この「日本三躰厄神明王」は、829年に嵯峨天皇が41才の厄年の時、愛染明王と不動明王が一体化し、諸々の災厄を打ち払った夢をご覧になったということをお聞きした弘法大師が自ら愛染明王と不動明王が一体となった明王像を刻まれた由。
 明王像の左側は愛染明王(悩みを深い愛情で浄化)で、右側が不動明王(煩悩を知恵の火で焼く)となっており、厄除開運・家内安全・無病息災・交通安全・商売繁盛等々の霊徳があるのだそうです。
 さて「厄」とは役割からきた言葉だそうで「節」の意味もあり、長い人生にはところどころ節があって、肉体的・精神的・社会的等々、区切りがあります。
 すなわち「厄」とは人生の節目に区切りを促す古人の知恵であり、厄年とは心の緊張度を自ら省みる節目であるということでした。
2018/09/03のBlog
[ 15:50 ] [ 音楽・美術 ]
日 時 平成30年9月3日(月)10時30分~12時
 名曲2曲をCDで聴く集いがありました。
 その名曲とは、①モーツアルトの「アイネクライネナハトム
ジーク」とメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」です。
 ①は、TVのCMや喫茶店のBGMでもおなじみの曲ですが
一番思い出すのはアカデミー賞映画「アマデウス」の冒頭の
場面で、若き神父が自殺未遂を起こしたサリエリ(元宮廷
音楽家)の前でこの曲をひくシーンです。
 この曲はモーツアルトのセレナード(小夜曲)の中でも最も人気の高い作品で、第1楽章のモチーフが第2~第4楽章のモチーフを引出ており、統一性のある楽曲です。
 それよりも何よりも、まず親しみやすく美しい旋律が人気を高めていると言えましょう。
 今回は特に第1楽章の第1ヴァイオリンの楽譜が別途配布され、CDを聴きながらあたかもオーケストラのヴァイオリニストになったような気分でした。
 ②は、チャイコフスキーと同様、たいへんポピュラーなコンチェルトで、3つの楽章からなっています。
 そしてこの3楽章は中断することなく演奏されるので、快い流動感がありました。
 この手法は、当時では珍しいものだそうです。
 ただ、かと言って各楽章が連絡づけられていることはなく、各々独立してまとまりをもっていて、解説ではそれが新しい時代を彷彿とさせる作風をあらわしているとのことでした。
2018/08/28のBlog
[ 16:04 ] [ 音楽・美術 ]
日 時 平成30年8月28日(火)14時~16時
 ある高校の音楽科で学んでいる生徒たちによるコンサートが
ありました。
 未だ勉強中のため、やや荒削りな面も見えましたが、一生懸
命な姿は一服の清涼剤でもありました。
 演奏スタイルはソロまたはアンサンブルで、曲目は中世の有
名曲の他、現代作曲家の新しい曲にもチャレンジしていました。
 曲目の一部を紹介しますと・・・
 ピアノ曲では最初にショパンの「バラード・第1番」が演奏されましたが、この曲はショパンが作曲したバラード4曲の最初のもので、冒頭からおも悲しく始まり、最後も悲劇的に終わりましたが、中間部分は結構きらびやかでした。(「バラード」とはフランス語で「物語」の意)
 また同じくショパンの「ピアノソナタ・第3番」も演奏されましたが、これは形式に統一感があり、力強く雄大でもありました。
 次にリストの「ハンガリー狂詩曲」の演奏がありましたが、リストの故郷・ハンガリーの民族音楽を取り入れたリズムに特徴のある曲でした。
 そしてマリンバの演奏では、現代作曲家・スロワーの「トウルーカラーズ」が取上げられ、人間ひとり一人の生きるエネルギーを感じさせるものでした。
 ヴァイオリンとピアノのアンサンブルでは、クライスラーの「中国の太鼓」を披露してくれました。
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