皆さまこんにちは。ころころ通信委員のムニュです。

激動の年が暮れようとして来ています。
ここにきて少し影を薄めたかのようなクリスマスというお祭りの、暗きにあって光を望むという本来の意味が染みてくるかのようです。

新しい年の陽の光がさしてくるのを、不安と希望をもって待ちたいと思います。

さて、先日、ムニュの家の台所の洗い桶の中で、一匹のクモがおぼれて死んでいました。
ムニュはそれを見つけて、思わず、「ごめんごめん」と言ってつまみあげ、お勝手から庭に投げました。何気ない一連の動作に思えたのですが、ふと、自分のしたことが不思議に思えて考え込みました。

クモの不幸な死とムニュとの直接の関係はありませんが、それに対して何らかの罪悪感を感じて、それを運び、「土」にかえす。
そうすることで、残された自分のなかの「何か」の思いを整理して解消しようとする。
そこに、人間が持っている「弔い」のような心が働いたのかな?と思いました。

なぜそうするのか。目の前の「死」に対して、それが儀式や形式的なものとしても、何かの敬意を払う。

死んで消えていくものに少しでも関わり、こころに刻む。
やがて自分が死んでいくときに、できれば同じように「土」に返す儀式を執り行ってほしいという思いもあるのかもしれません。
複雑な暮らしになりがちな日々の生活において、帰るところを思い出させることなのかもしれません。
 ムニュ