『童謡はなぜ消えたのか』 <生きようとするときに立ち返る歌>

(写真は追悼のトランペットを吹いた後涙ぐむ少女・asahi.comより)
2012年6月13日
『童謡はなぜ消えたのか』
<生きようとするときに立ち返る歌>

 東日本大震災から1ヵ月。瓦礫で覆われた陸前高田市。津波に流された自宅跡に立ち、家族を奪った海に向かってトランペットを吹いた後涙ぐむ17歳の少女の写真が4月12日付け朝日新聞に掲載された。津波で母と祖母を亡くし、祖父は行方不明のまま。「私は元気だから、心配しないで」。涙を拭きながら、祖母が買ってくれたトランペットを抱きしめた。

 震災から70日後の5月20日、その少女は東京オペラシティーの舞台に立った。聴衆約1500人を前に演奏したのは、あの日天国の母や家族に捧げたZARD(ザード)の「負けないで」。被災地出身のプロの音楽家らが企画した慈善コンサート「故郷(ふるさと)」に招待された。

 制服姿で舞台に立った少女は、「負けないで」の後、「威風堂々」、そしてアンコールの「故郷」を吹いた。父と弟も舞台を見守った。「故郷」では演奏に聴衆の合唱が加わり、被災地や天国へ届ける歌が会場を包み込んだ。トランペットは、津波で亡くなった祖母が9歳のとき買ってくれた宝物。

 演奏会を前に、少女は約20人の報道陣にこう語った。「今も時々、受け入れたくない現実に押しつぶされそうになることがある。でも、吹奏楽部の仲間と一緒に楽器を吹けば気が紛れる。トランペットって不思議。演奏する方も、聴く方も楽しい気持ちになれる。だから、趣味で一生続けていきたい。家族を亡くし、家を失い、これからどうやって生きていけばいいか分からない人がたくさんいる。コンサートをきっかけに、少しでも支援の輪が広がったらうれしい」。

 「国破れて山河在り、城春にして草木深し、時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ、別れを恨んで鳥にも心を驚かす」(唐代の詩人杜甫の「春望」)。東日本大震災で大きな被害を被った人たちは、将にこんな心境だったに違いない。そんな絶望の中、追悼と立ち直りの第一歩にしようとトランペットを吹いた少女。そして、被災者の口からは童謡や唱歌が歌われた。音楽には人の心を慰め、新しい人生に向かって立ち上がろうとする人たちを支える不思議なチカラがある。

 ところで、約1年前の新聞報道で、童謡が子どもたちに歌われなくなって久しいと知って驚いた。戦後生まれの団塊世代は小学校の音楽教室で文部省唱歌や童謡を歌った。その童謡がなぜ消えていったのか。そこで、童謡が誕生した経緯と、その後どのような歴史をたどったのかを次に紹介させていただきたい。

(写真は日本海に沈む夕日・青森県西津軽郡深浦町)
『<song うたの旅人> 童謡はなぜ消えたのか』
<静岡・伊東市>
加藤省吾作詞、海沼 実作曲
「みかんの花咲く丘」
(2011年6月11日付け朝日新聞より引用)
 
 むせかえるような甘酸っぱい香りが漂う。白く小さなミカンの花が発するのは、思いがけないほど強い匂いだ。5月中旬の静岡県伊東市のミカン畑。ミカン狩りに来た東京都墨田区の村尾茜さん(33)は、畑に入ったとたん「キンモクセイを甘くした強烈な匂い」に驚いた。

 夫の公務員浩司さん(44)は「『みかんの花咲く丘』は4歳のころ、母と向かい合って手を打ちながら歌った」と思い出す。傍らで長女の小学4年海優(みゆう)ちゃん(9)と次女の1年楓羽里(ふわり)ちゃん(6)が脚立に上り、大きな甘夏ミカンをもいだ。

 この歌を作詞した加藤省吾(1914〜2000)は、生涯に2千を超える童謡を作った。自伝で「わたしは茨(いばら)の道を踏み越えて、只(ただ)ひたすらに歩んできた」と語る苦労人だ。同県富士市の豊かな旧家に生まれたが、小学5年のとき父が事業に失敗し、子守奉公に出された。その後は紡績工場員や旋盤工、謄写版の販売、音楽新聞の記者を転々としながら、「かわいい魚屋さん」などを作詞した。

 終戦から1年後の1946年8月24日、当時12歳の人気少女歌手川田正子(1934〜2006)を都内の自宅に訪れ、音楽雑誌の編集部長としてインタビューした。帰ろうとすると、2階に住んでいた作曲家・海沼実(1909〜71)が呼び止めた。「赤飯をごちそうしたい」と言う。食糧難の時代だけに喜んで再び靴を脱いだが、赤飯とともにテーブルの上に置かれたのが原稿用紙だ。海沼は「今すぐ歌の詩を書いてほしい」と言う。

 その翌日、伊東市の小学校で海沼の新作の歌を川田が歌い、NHKの番組で放送されることになっていた。その歌がまだできていなかった。「丘の上に立ち、海を見て、島を浮かべ、船に黒い煙をはかせて」と、海沼はイメージの注文をつけた。伊東と聞いて加藤は、すぐに名物のミカンを思い浮かべた。

 だが当時、サトウハチロー作詞の「リンゴの唄」がヒットしていた。ミカンの実を素材にすれば、口の悪いサトウから「まねをした」とそしられるに違いない。そこで花にした。ミカン畑を思い浮かべ、海沼の文句を並べて一気に2番まで作った。海沼は「出し惜しみしないで、3番も」と促す。加藤は自分の感情を唯一込めた「思い出の道」から、思い出をテーマにして3番を書いた。できあがるのに30分かからなかった。

 赤飯を食べる加藤を尻目に、海沼は占領軍の米民間情報教育局に走って詩の検閲を受け、川田を伴い伊東行きの列車に飛び乗った。3時間の車中も終わりころ、日ごろ口ずさむイタリアオペラ「ラ・トラビアータ(椿姫)」の旋律が浮かんだ。そこから曲想が湧き、童謡には珍しいワルツを思わせる8分の6拍子の軽快な曲ができあがった。明後日13日は「最後の童謡作曲家」と呼ばれた海沼の死後40年の命日だ。懐かしい童謡が子どもたちに歌われなくなって久しい。日本から童謡が消えた訳にこの歌は深く関わっている。(文・伊藤千尋)

(写真は三里ヶ浜から眺めた夕日・島根県益田市高津町)
「童謡は世界に誇る日本文化」
<人情豊かな時代の「みかんの花咲く丘」>

 作詞家加藤省吾の娘、東京都世田谷区のピアノ講師加藤美知子さん(61)は、父が目を真っ赤に泣きはらして電話をしていた半世紀前の姿を今も覚えている。「詩だけです」と加藤が語った電話の相手は、作曲家の海沼実だった。

 終戦から10年後、若手の詩人、音楽家を中心に「新しい子どもの歌」運動が起きた。童謡は「退廃した感傷趣味、営利目的」と批判された。子どもらしい心よりも大人に通じる詩情が重視され、西欧風な発声法が広まった。やり玉に挙がったのが「みかんの花咲く丘」だ。「歌詞が稚拙で人間の心情が描かれていない」と酷評された。

 加藤は海沼に、批判されているのはあなたの曲でなく自分の詞だけだ、と伝えたのだ。こうした風潮の中、童謡は歌われなくなった。代わって子どもたちが歌ったのは、ラジオやテレビドラマの主題歌だ。少年探偵団、月光仮面などが子どもに夢をもたらした。加藤も「怪傑ハリマオの歌」、「隠密剣士の歌」などを作詞した。

 一方で、童謡が廃れるのを食い止めたいと考える動きも起きた。1969年に童謡の再興を期して日本童謡協会が設立され海沼は常任理事に、加藤は事務局長に就任した。しかし、役員の人選をめぐってもめた。2年後の総会の翌日、海沼は過労から心筋梗塞で倒れ、そのまま息を引き取った。「憤死」に近い。

 加藤は代表作「みかんの花咲く丘」が酷評されたことに、生涯を通じて心を痛めた。死の1ヵ月前、美知子さんの運転で故郷の富士市に行く途中、助手席でふと「あのとき、あの歌を作って良かったんだよな」とつぶやいた。「自分に問いかけ、自分を納得させるような口ぶりでした」と美知子さんは思い起こす。「父も海沼さんも川田さんも、みんな純粋で一途でした」と続けた。

 とはいえ、戦前からの童謡がまったく途絶えたわけではない。懐かしい童謡には、歌うだけで人を純粋な気持ちにさせる何かがあるように思う。今でも東京都目黒区の「音羽ゆりかご会」の教室からは、子どもたちが歌う童謡が流れる。1933(昭和8)年に海沼が創設した同会の今の会長は、海沼の孫で祖父と同じ名を持つ海沼実さん(38)だ。全日本音楽教室指導者連合会会長でもある。

 指導の仕方は、祖父の当時のままだ。まず歌詞を読み上げる。「みかんの花咲く丘」で船が煙を吐くと聞いた子は、船火事かもしれないと叫ぶ。島蔭から汽笛が聞こえたと聞いて安心する。「いい歌詞はこのようにいろいろ想像できる作品です」と海沼さん。合唱するさいに指揮者もいない。「周りの子たちの呼吸で歌は合うものです」と語る。

 海沼さんに日本の童謡の歴史を聞いた。明治時代に政府によって作られた唱歌は教訓的な詞が多く、子どもは校門を出ると歌わなかった。童謡が生まれたのは大正デモクラシーの時代だ。作家の鈴木三重吉が、自分の子どもに読ませたいような読み物を、と児童雑誌『赤い鳥』を創刊した。

 「掲載作に節をつけて歌っている」という読者の声を機に曲をつけ童謡を作った。最初が「かなりや」だ。身近な話題を口語体で書き歌う童謡は唱歌に代わって子どもたちに広がった。最高の文学者と最高の音楽家が手を携えて子ども向けの歌を創る一大童謡運動となり、「赤とんぼ」、「七つの子」などが生まれた。

 それは他国にはなかなか見られない、日本が世界に誇る文化だ。東日本大震災で被災者の口から童謡が歌われたことを挙げ、海沼さんは言う。「童謡は離乳食のようなもの。生きようとするときに立ち返る歌です。日本人の血に流れている文化と言ってもいい」。

(写真は茶花海岸から眺めた夕日・鹿児島県大島郡与論町)
 
 歌に描かれた静岡県伊東市を訪ねた。同市宇佐美にはオレンジロードと名付けられた山道に沿って、12のみかん園が並ぶ。伊東みかん園協会会長、鈴木仁(まさし)さん(54)の畑には、1ヘクタールの敷地に70品種のミカンが植えてあった。どれも長さ2センチほどの白い5弁のかれんな花が満開だ。

 「今年は甘みと酸味のバランスが良く味は最高です」と鈴木さん。今は甘夏ミカンの季節だが、夏の時期を除いて一年中出荷できるよう多品種を育てる。「新しい品種が生まれたと聞くと自分の手で育てたいという意欲に駆られる」とも。

 オレンジロードの頂上近く、海を見下ろす道沿いに「みかんの花咲く丘」の歌碑がある。向こうにかすむのは伊豆大島。歌に出てくる船は伊東と伊豆大島を結ぶ伊東航路の汽船と言われる。1906年に開始し2005年に休止したその航路は昨年、復活した。海を見ていると自然にこの歌が口をつく。

 実は、歌詞の3番の「母さん」は最初にラジオで放送されたさい、「姉さん」と歌われた。戦災で母親を亡くした子どもが母を思い出すと可哀想だ、姉なら結婚して家を出たと受け取れる、と配慮されたからだ。戦後の貧しい時代ではあったが、人情はあった。逆に経済大国となった現代日本は人への思いやりも心の豊かさも薄れた。

 「子どものときに味わうべきものを味わわないで大人になる子が増えている」と海沼さんは語る。子どもを早く大人にしようとする今の社会の風潮を危惧するのだ。子どもの頃に誰もが童謡をじっくり味わっていたなら、これほど殺伐とした世の中になっていなかったかもしれない。(了)