『継体天皇と今城塚古墳』

(%緑点%)後期講座(歴史コース)の第8回講義の報告です。
・日時:11月19日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:継体天皇と今城塚古墳
・講師:中尾芳治先生(元帝塚山学院大学教授)
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継体天皇が注目される理由
*神武天皇から万世一系、血が繋がってきたといわれる戦前の皇国史観に対して、戦後、『古事記』『日本書紀』が見直され、「騎馬民族説」、「三王朝交代説」の学説が提起された。
騎馬民族説(江上波夫氏他)…日本国家の起源が、東北アジアから朝鮮半島を経由して渡来し征服したた騎馬民族にあるとする。→近年では、騎馬民族説を採る学者は少なくなっている。
三王朝交代説(水野祐氏、直木孝次郎氏他)…大王系譜には、継体までとそれ以前との間には大きな断絶がある。古王朝(崇神〜仲哀)、中王朝(応神〜武烈)、新王朝(継体〜今上)


継体天皇の出自と出生地
・『記紀』によると、武烈天皇は跡継ぎを残さずに死んだあと、畿内を遠く離れた近江・越前を拠点とした「応神天皇五世孫」と称する継体が迎えられ、群臣の要請に従って即位した。→継体の出生地は、『古事記』では近江の出身とされ、『日本書紀』では近江で生まれ、のちに越前で育ったと記されている。
系譜があいまいな継体…『釈日本紀」の『上宮記』(じょうぐうき)の系譜(上宮紀は、記紀編纂よりも古くさかのぼる)には、天皇の父系・母系の系譜が明示されている。また、『記紀』には、后妃に関する記載があり、仁賢(にんけん)天皇の娘、手白香(たしらか)皇女を皇后。
◆継体天皇は「王族」であったと考える説…『上宮記』の系譜を史実とし、手白香皇女を皇后としていること、継体を受け入れた大和王権自体はなんら機構的にも政策的にも質的転換を見せていないことから、継体を大和王権内部に位置した王族と考える見解。
◆継体は応神と血縁関係がなく、近江・越前辺の地方豪族であったと考える説…武烈の死後後継者をめぐって混乱している時に、応神五世の孫と称して大和政権を継承しようとしたのではないかという見解(継体は、新王朝の人という説)。


継体天皇の勢力基盤とその擁立勢力(継体の后妃とその出自)
・継体は、成人後、その勢力を越前・近江から、美濃・尾張、さらに東国一帯へと各地の有力豪族との連携を深めるとともに、大和政権内部の有力豪族との連携を画策し、実行していた。(継体の后妃は近江、尾張、河内、大和の各豪族の娘。)
☆継体が伝承通りに応神から五世孫であったとしても、または、まったく血の繋がりがなかったとしても、継体が王権を簒奪したわけではなく、大和王権中枢の豪族の支持を得て、即位したと考える説が有力である。→また、仁賢天皇の娘・手白香皇女との婚姻関係を結ぶことによって、継体は前王朝と繋がり、手白香皇女の墓を畿内政権の始祖たちの眠る大和古墳群の中に造ることによって王統の継続と考えられる。
★継体は、以前の大王に比べると、即位の過程、即位後に宮を転々【樟葉宮−筒城宮ー弟国宮ー(即位後20年目に)大和・磐余玉穂宮】と移し、なかなか大和に入れない。…継体朝の成立をめぐって、今後も、いろいろな見解が出てくると思われる。

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今城塚古墳
・宮内庁は、継体天皇陵(三島藍野陵)を太田茶臼山古墳(前方後円墳、225m)に比定している。
-太田茶臼山古墳が継体の陵としたのは松下見林の『前王廟陵記』(元禄五年)が最初。(この書は江戸期最初の天皇陵研究書)
-『延喜式』によると、継体の墓は、「嶋上郡」にあるとされているが、太田茶臼山古墳は「嶋下郡」に所在。
-太田茶臼山古墳は、考古学的にみると5世紀中葉ごろの古墳。
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☆これに対し、今城塚古墳は、「嶋上郡」に所在しており、埴輪や古墳の形から6世紀前半の築造。しかも、6世紀前半の古墳としては最大規模の前方後円墳(190m)。…今城塚古墳が継体天皇の本当の陵と考えられるが、継体陵は今城塚に治定替えになることも、陵墓参考地になることもなっていない。