(%緑点%) 後期講座(歴史コース)の第7回講義の報告です。
・日時:11月5日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール3階会議室 (富田林市)
・演題:大津皇子
・講師:和田 萃(わだあつむ)先生(京都教育大学名誉教授)
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〇大津皇子謀反事件
・天武天皇の第三皇子として生まれ、人望のあった大津皇子が、謀反の罪により処刑…壬申の乱(672年)に勝利して飛鳥浄御原宮で即位した天武天皇は、治世14年目、朱鳥元年(686)9月に崩御。この時の最大の問題は、どの皇子を即位させるかであった。
**『日本書紀』を読む**
・「国史大系」の『日本書紀』(吉川弘文館)は、原文に中世以来の読み書き(左右に読み)を付してある。文章を読めば、意味がわかるのでお勧めしたい。(和田先生)

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1.日本書紀を読む(巻二十九、巻三十)[大津皇子に関する記述の要約]
巻二十九 天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと) 下 天武(てんむ)天皇
天武天皇の即位
・天武二年(673)二月、壇場(たかとの)を設けて飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に即位。正妃(菟野皇女=のちの持統天皇)を皇后にお立てになった。皇后は草壁皇子をお生みになった。天皇はこれより先に、皇后の姉の大田皇女を妃とされた。この妃は大来皇女と大津皇子をお生みになった。…(以下、長皇子、弓削皇子、舎人皇子、新田部皇子、高市皇子、忍壁皇子、磯城皇子らが生まれたことを記す。)
天武天皇の崩御
・朱鳥元年(686)九月の四日に、親王以下諸臣まで川原寺に集い、天皇の病平癒のために請願した。丙午(九日)に、天王は正宮(御在所)で崩御。戊申(十一日)になって始めて発哭(人の死にあたり声を発して悲しみを表す礼)が行われ、殯宮(もがりのみや)が南の庭に建てられた。辛酉(二十四日)、この時、大津皇子が皇太子に謀反を企てた。…(24日は、謀反発覚の日か。)


巻三十 高天原広野姫天王 (たかまのはらひろのひめのすめらみこと) 持統天皇
皇后称制
・朱鳥元年(686)九月九日に、天武天皇が崩御。皇后は朝廷にあって称制(即位の儀式をあげずに天皇として政務をとること)された。
大津皇子の変
・十月二日、皇子大津の謀反が発覚し捕縛され、三日に皇子大津は、譯語田(おさだ)(奈良県桜井市)の家で死を賜わった。時に二十四。妃の皇女山邊は、髪をふりみだし、はだしでかけつけて殉死、見る者はみなすすり泣いた。皇子大津は、天武天皇の第三子。容姿はたくましく、ことばは晴れやかで、天智天皇に愛された。成人後は分別よく学才にすぐれ、特に文筆を愛した。二十九日、詔して、従者で皇子大津に連座のもの(三十余人)は、全て赦された。但し、礪杵道作(ときのみちつくり)は伊豆に流す。

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2.大津皇子挽歌『万葉集』
・万葉集は、大津皇子の事件に至る経緯を、歌を中心にした物語で伝えている。
☆大津皇子、死を被(たまは)りし時に、磐余(いはれ)の池の堤にして涙を流して作らす歌一首
百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」(巻3・416)(大津皇子)
(対訳:磐余の池で鳴く鴨をみるのも今日を限りとして、私はあの世へ旅立っていくのだろうか。「百伝(ももづた)ふ」は「磐余」の枕詞。)
☆大津皇子の薨ぜし後に、大伯皇女(おおくのひめみこ=大来皇女)、伊勢の斎宮より京に上る時に作らす歌
神風の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに」(巻2・163)(大伯皇女)
☆大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大伯皇女の哀傷して作らす歌
うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む
(対訳:この世に生きている人である私は、明日からは二上山をわが弟とみようかと嘆く)

3.大津皇子の墓は、どこに改葬されたか
・二上山の雄岳頂上付近に大津皇子墓とされる場所がある(宮内庁の比定で「大津皇子二上山墓」とある)。しかし、最近、二上山東麓にある「鳥谷口古墳」(奈良県葛城市新在家)が有力視されている。(和田先生)