ひきこもり等の「居場所論」

◇◆その人それぞれの考え方・捉え方でいい◆◇

10年ほど前から、精神障がいのSHG
(セルフヘルプ・グループ)や、ひきこもり等の
SHGや当事者運営(主体)の「居場所」に関わってきました。

どなたかが独善的な運営をするSHGなり、
当事者的な「居場所」は、一定の方々には受け入れられて、
その人は通い続けることになりますが、
一定の方々には受け入れられず、その人は通わなくなります。

私は個人的にそれでよいのだと思っています。
SHGでも居場所でも、その人に合う(マッチする)のか
どうかなのだと思うからです。嫌々、通い続けたりするのは
自助グループ的な事ではないのだと考えますし、
通いたくても何かしらの圧力なりで通わないのも
違うなと考えるからですね。

当事者だからこそ、当事者(自助)グループ的な場所では、
自由にしなければならない、日常で、もし、
生きづらい=不具合を抱えているのならば、
なおさら、自由にしなければならないのだと考えるのですね。

「自由」と「何でもやっていい」とは違っていて、
そうしてもいい「居場所」ならば、別の方々が
通いづらくなるのでしょうし、居場所運営者は
また手段を考えなくてはならないのでしょうが、
当事者グループの場合、プロの支援者のような
運営的・コミュニケーション的スキルを
持っていない場合もありますよね。(私もそうですが…。)

だからこそ、運営者は参加者と一緒に考えなくてはならない
部分があるのでしょうし、その場面は必ず訪れるのだと思います。
そこで皆がどう考えていくのか、どう決定していくのかだと思うのです。

運営者側に当事者しかいないSHGの難しさであり、「肝」の部分ですよね。
ある方に言わせれば「醍醐味」だと捉える場合もあるでしょう。
とにかく実力のある方もそうではない方も対峙しなくてはならない
シーンではあります。それを乗り越えれば、楽になっていく、
貴重な経験にもなるし、実力もつくし、面白みも出てくるのではないでしょうか。

私は自助グループを運営したことはありません。
そのお手伝いをしたことはありますが、
私がメインではありませんでした。
いつでも、経験者や支援者の方がいらして、
サポートしてくださいました。

なので、楽も出来たのでしょうし、どこか客観的にも見れたのかもしれません。
どちらにしろ、そのせいで実力もついていないし、
わかるところも(一つのSHGだけに関わってこなかったので
=複数の自助的なグループを見てきたので)あるのかもしれませんね。

何が言いたいのかというと、こんな私でも、
居場所運営に携わることができたということです。
居場所は「自由」です。どのように携わることもできますし、
またどう考えるかも捉えるかも「自由」なのですね。

合わないと捉えれば、何となくその場所には
通わなくなりましたし、合うと思えば通い続けるのですね。
我慢するのも人生経験になるのかもしれませんし、
そう考えるのも、いや我慢する必要はないと考えるのも
その人それぞれの自由だと思うのです。

私たち「当事者」は普段の生活で何かしらの理由により、
不自由な生活部分を感じることもあるかもしれません。
だからこそなおさら、SHGでは「自由」にしなければ
ならないのかもしれませんね。

それが人間としての心の生理・整理・整頓に繋がるのでしょうね。
人間はみな、幸せになる権利を持っていると思います。
だからこそ、何かしらで努力して、その幸せさを獲得しようと
するのかもしれませんね。

話が長くなってきましたが、けっきょく、SHG(居場所)とは
「自由」である、それが言いたいのですね。
そう考えない、捉えないのもあなたの自由だと思うのですね(^v^)