子供と学校

この前の「不登校について」の連載では、主に学校に行く意義について社会状況の変化と照らし合わせて、不登校について見ていきましたが、今回はまた違った視点で考えていきたいと思います。

 社会状況の変化によって学校に行く意義が薄れてきたことと学校はとりあえず行くものだという共通概念、不登校に強い関連性のある長欠率が増えてきたのではないか、というのが前回の論点でしたが、これはある部分一面しかとらえていないと思われます。

 実際に子供の視点に立ってみると、現状において(昔でも)学校というものは良くも悪くも非常に重要な場所です。その理由は勉強をしたり、将来のためにという以前に、まず第一に多くの子供が一日に大半の時間を過ごす場所であるということです。

 この感覚は親や周りに大人たちにとって意外に共有されにくいようです。

 一つの例として自分の経験をあげると、私も高校の途中までは、学校に行く意義や将来のためというよりは、学校に行くのは当たり前という感覚で学校に行っていました。そして将来について考えだしたときに父親に学校に行く意味を聞いて見ると「学校とは自分のために利用する道具だ。」との答えが返ってきました。父としては、学校は将来のために勉強なり、職業訓練をするために学校というものは存在する、と端的に学校の「機能」について答えたのでしょう。その答えはある一つの考え方、見方としては間違っておらず、筋の通ってないことはないのですが、感覚的にはズレを感じました。私は実際に学校で長い時間すごしており、そこでの体験や人間関係等の重要性は高く、感覚的にはとても「学校は機能である」と切って捨てられるものではなかったからです。

 大人にとって学校は経てきたものであっても、今は学校には行っておらず感覚的にはその大切さはわかりませんが、子供にとっては(例えそのきっかけが強制的なものであっても)学校が実際に世界そのものである(あった)可能性が強いわけです。大人も学校に通っていた時はその感覚は持っていた可能性はあります。

 現実問題として学校は子供にとって大半の時間を過ごすのだから、そこは一瞬一瞬を過ごしている大切な場所だから、機能論のような大人の論理だけでは語ることは出来ないのではないかというのが今回の論点です。

 不登校の場合、その理由は何であれ学校に長期間行かない、というのは、自分の世界の大きな部分を変えるという意味もあり、それのみでも大変なエネルギーを消耗すると考えられます。さらに皆が行っているのに自分だけが行っていない、ことから罪悪感を感じまたエネルギーを消耗します。

 ただし、たとえ現在学校に行ってなくても相手の状態を推測して、共感する位の力や度量は“大人”であれば持っておいて欲しい、と思いがちですが、大人の方は“今、そこ”で子供がエネルギーを使い果たした(見た目ではそう見えなくても)ことよりも、子供の“将来”のことを考えがちです。

 その理由としては、先程述べた通り、学校に行かなくなることは、子供にとってある種の開放ではあるが、自分の今まで長い時間過ごしてきた“世界”からの決別であり、それを決断し、実行することは大変な労力がいるということを、今は学校に行っていない大人にとっては実感しにくいということが大きいと考えられます。

 さらに、そのエネルギーを消耗している過程が周囲から見えにくい、ということも理由の一つかもしれません。子供がやせ我慢をして限界まで耐える場合もありますし、メッセージを発してしても周りが気付かない場合もあります。意識的に気付かないふりをする場合もあるかもしれません。

 相手に身になって考える、とか、相手の気持ちを考える、と言うことは簡単ですが、実際に行うことは難しいことです。個々人の姿勢や生き方にも深くかかわっており、それはその人の成育歴や経歴等に大きく影響されます。もっと大きく見れば社会全体の教育や社会のあり方にも関わってきます。この事についてはまた次回お話出来ればと思います。

 冗談ではなく本気で思うのは、不登校という大変な労力を要することをした子供にはまず「ようやった」、「ご苦労さん」と心から、その努力をねぎらってやる姿勢が大事なのではないかということです。

 じゃあ次は将来のことについて…と先走るのは大人の悪い癖で、その後はじっくり話を聴くということが大切だと思います。

 今回は前の不登校についてのシリーズとは違った視線で、子供と学校の関係性と不登校について話してきました。次回はつれづれと教育について書いていきます。