地名の由来を調べるシリーズ(長野編)

今日は、養父市の長野(ナガノ)地区! 

長野地区は、養父市の最南端、朝来市との市境、建屋川の上流域に位置し、播但道「朝来IC」から北へ10分くらいで着きます。建屋川の上流から、①野谷(のたに)、②石ヶ坪(いしがつぼ)、③柴(しば)、④尾之上(おのうえ)、⑤内山(うちやま)、⑥長野(ながの)、⑦井ノ坪(いのつぼ)、⑧唐川(からかわ)の8集落にわかれます。
 小規模集落元気作戦では、⑤〜⑧の4集落で取り組みを進めているところです。

 地名の由来は、山麓に細長く続く台地状地形から起こったといい(建屋村史)、弘安8年(1285年)の但馬国大田文にある「長田野国領」の異称とも言われます(地理志料)。

 江戸期から明治22年までは「長野村」と呼ばれ、幕府領(もと豊臣氏蔵入地)。庄屋は各小集落の輪番で、百姓代は庄屋役を出した集落から選ばれ、他の7集落が年寄各一人を選出したとのこと(「養父町史」など)。
 当村は、旧養父町域のうちで最も山深い所にあり、山林利用や養蚕などに依存する割合が高かったと考えられます。元治元年(1864)に生野代官所(現朝来市)に提出した書付(建屋区有文書)によれば、当村の仕出生糸は30貫で、養蚕が盛んな建屋谷の中でも最も多かったと思われます。
 唐川には「たたき石」などの製紙業の遺物が残されていましたが、昭和初期に洪水の復旧作業を行った際に石垣に利用したため、消滅してしまったとのこと。

 井ノ坪・唐川では唐川の谷倉(タニクラ)神社、他の6集落は石ヶ坪の五月(いつき)山に祀られる斎(いつき)神社を奉斎します。
 斎神社には、養父神社から出発したみこしが、2日をかけて40kmの沿道を練りながら往復する「お走り祭り」(今年はこの週末です!4/18(土)〜19(日))の神事があります。この神事は神功皇后(仲哀天皇のお后。日本書紀などによれば、201年から269年まで政事を執りおこなった)が三韓(朝鮮半島南部)出征凱旋の時、戦勝祈願に対するお礼に養父明神を名代とし、葛葉もちを供えた故事によるという(長野村の民俗)。

 明治22年からは建屋村、昭和31年 明神町、昭和32年からは養父町の大字となりました。

 参考 : 兵庫県の地名ⅠⅡ(平凡社)
 角川日本地名大辞典「28 兵庫県」(角川書店)