京都教育大生の集団準強姦事件に思うこと 3

前回にも「二次被害」について書きましたが、今回は気付かないうちに与えてしまう「二次被害」について書いてみたいと思います。

(%エンピツ%) わたしたちが知らないうちに与えている「二次被害」

性暴力の被害に遭った人は、性別にかかわらず、年齢にもかかわらず、その後の生活に、確実に何らかの影響を受けます。被害の程度や状況によって、影響の大小に違いがあるのは否めません。年齢が低いほど影響は重大になりやすいと一般的には言われています。
でも、最も大切なのは、被害に遭った人の受け止めがどうなのか?ということです。
つまり、その人の受け止めが基準になるべきで、一般論や第三者の基準を被害に遭った人にあてはめてはいけないのです。その人にとってのその時の状況、加害者との関係性、感じた恐怖や無力感など、全てが絡み合って、被害に遭った人がその事件についてどのよう認知するかが基準になることであり、一般的にどうとか、他の事件と比較して影響が大きいとか小さいなどと言うのはもってのほかです。第三者がその事件の被害を見積もったり、基準を設けることはしてはいけない、ということです。
被害に遭った人に対して、上記のような一般論や第三者論を押し付けることは、本人の声(感情や意志)を奪うことになり、ますます生きている価値を奪い、被害からの回復を妨げるどころか、二重三重に傷つけることになります。
これらは、実は知らず知らずのうちに周囲がしてしまっていることがとても多いのです。

(%エンピツ%) 大学や学校が与える「二次被害」

大学や学校の友人や先輩から性暴力被害に遭った場合、通学すれば加害者と会う機会が多いのは言うまでもありません。被害に遭った人は、事件後、加害者と接触したくないという強い思いになるであろうことは、経験がない人でも容易に想像つくことだと思います。
ところが、大学や学校が被害に遭った人が安心して登校できるように配慮をしようとすると、加害学生に対して行動制限(場合によっては出席停止)などをし、権利を剥奪する必要が生じてきます。大学や学校は、非常に難しい判断を迫られるわけです。
被害に遭った人に「落ち度がない」と前回書きましたが、落ち度を指摘して被害を軽く見積もり、登校・通学できないことを、その人本人の責任にしてしまい、結果的とはいえ加害者を擁護してしまうことは、往々にして起こりがちですが、そういった大学や学校の対応は、被害に遭った人にとっては、とても大きな「二次被害」になり、本来最も守られなければならない人が、多くの権利や可能性を奪われることになるのです。
ましてや、信頼すべき大学や学校から与えられるわけですから、被害を受けた人は、人や社会に対する信頼を大きく損ないます。ひとたび損なってしまった信頼感を取り戻すのには、一人では難しいですし、時間も要します。

もしも、周囲の人が、これらのような二次被害を与えず、被害に遭った人を何よりも優先に考え、権利を守るための対応すれば、被害に遭った人の回復への早道になります。