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自分らしく生きるために,・*’☆from kirala
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2009/06/14のBlog
[ 18:37 ] [ 事件について思うこと ]
前回にも「二次被害」について書きましたが、今回は気付かないうちに与えてしまう「二次被害」について書いてみたいと思います。

 わたしたちが知らないうちに与えている「二次被害」

性暴力の被害に遭った人は、性別にかかわらず、年齢にもかかわらず、その後の生活に、確実に何らかの影響を受けます。被害の程度や状況によって、影響の大小に違いがあるのは否めません。年齢が低いほど影響は重大になりやすいと一般的には言われています。
でも、最も大切なのは、被害に遭った人の受け止めがどうなのか?ということです。
つまり、その人の受け止めが基準になるべきで、一般論や第三者の基準を被害に遭った人にあてはめてはいけないのです。その人にとってのその時の状況、加害者との関係性、感じた恐怖や無力感など、全てが絡み合って、被害に遭った人がその事件についてどのよう認知するかが基準になることであり、一般的にどうとか、他の事件と比較して影響が大きいとか小さいなどと言うのはもってのほかです。第三者がその事件の被害を見積もったり、基準を設けることはしてはいけない、ということです。
被害に遭った人に対して、上記のような一般論や第三者論を押し付けることは、本人の声(感情や意志)を奪うことになり、ますます生きている価値を奪い、被害からの回復を妨げるどころか、二重三重に傷つけることになります。
これらは、実は知らず知らずのうちに周囲がしてしまっていることがとても多いのです。


 大学や学校が与える「二次被害」

大学や学校の友人や先輩から性暴力被害に遭った場合、通学すれば加害者と会う機会が多いのは言うまでもありません。被害に遭った人は、事件後、加害者と接触したくないという強い思いになるであろうことは、経験がない人でも容易に想像つくことだと思います。
ところが、大学や学校が被害に遭った人が安心して登校できるように配慮をしようとすると、加害学生に対して行動制限(場合によっては出席停止)などをし、権利を剥奪する必要が生じてきます。大学や学校は、非常に難しい判断を迫られるわけです。
被害に遭った人に「落ち度がない」と前回書きましたが、落ち度を指摘して被害を軽く見積もり、登校・通学できないことを、その人本人の責任にしてしまい、結果的とはいえ加害者を擁護してしまうことは、往々にして起こりがちですが、そういった大学や学校の対応は、被害に遭った人にとっては、とても大きな「二次被害」になり、本来最も守られなければならない人が、多くの権利や可能性を奪われることになるのです。
ましてや、信頼すべき大学や学校から与えられるわけですから、被害を受けた人は、人や社会に対する信頼を大きく損ないます。ひとたび損なってしまった信頼感を取り戻すのには、一人では難しいですし、時間も要します。


もしも、周囲の人が、これらのような二次被害を与えず、被害に遭った人を何よりも優先に考え、権利を守るための対応すれば、被害に遭った人の回復への早道になります。



2009/06/13のBlog
[ 16:08 ] [ 事件について思うこと ]
本日は、心理的な立場から書いてみたいと思います。。。

 「強姦」に対するイメージ
報道によると、被害に遭った女性は、大学内の大勢が集まるコンパに参加するために居酒屋に行き、そして自分の手でお酒の入ったグラスを口に運び、一気飲みもしたようです。そして、酩酊状態になって、別室に手を引かれて連れて行かれ、そこで6名の学生から被害を受けたということでした。
この状況について、様々な考え方がネット上でも書かれているようです。
かつて、加害者が知り合いであったり、被害者が自分の足でそこに行った場合は強姦罪が適用されなかったり、また自分でお酒を飲むなどした場合は準強姦罪が適用されなかった時代もありました。一般的に強姦とは“包丁などで脅され、暴れ回って抵抗しても抑え込まれて、殴られ、手足を縛られ、強引に性的行為をされるもの”といった印象があるようですが、実際の強姦でそのようなケースは稀です。
抵抗したら殺されるかもしれないという恐怖や、何が起こっているのかわからないと判断力が働かないなどの理由から、ほとんどの強姦や強制わいせつ事件では、被害者は身体に怪我を負うこともないですし、大声を上げて抵抗することもないと言われています。

ではここで、ちょっと考えてみましょう。

 「合意」とは?
被害に遭った女性は、コンパへの参加が目的だったはずで、集団によって性的行為をされるために参加したわけではないはずです。女性が、その時に、第三者から見てどんな様子であっても、性的行為を望んでいたとは誰にも言えないはずです。
上記に書いた一般的な「強姦」というステレオタイプの印象がある限り、そうではない「強姦」を目の当たりにした時、「それは強姦とは言えないんじゃない?」「抵抗していないから『合意の上』でしょう?」と言ってしまいがちですが、被害に遭った人にとっては、周囲のそう言った言動は、受けた被害と同じくらい、場合によってはそれ以上のダメージを受けます。

 お酒を飲んだら何をされても仕方ない?
飲み会の席で受ける被害は、とても多いものです。
酒の席で、手にしたグラスにアルコールが含まれていると分かって飲んだ場合、そこで被害を受けてしまったら「お酒を飲んだのだから仕方ない」という考えが一般的に多いようですが、被害を「酒の席だからそれは被害でない」と言う根拠はどこにもありません。
今回の事件でも、被害に遭った女性が責められることは、未成年であったことを除けば、ないはずなのです。
また、飲酒を目的に参加したとしても、強制的にアルコールを摂取させられていいとは言えません。もしも、周囲から一気飲みを強制されていたとしたら、アルコール摂取についても、強制的と言えるでしょう。その場合は、たとえ自分の手でグラスを口に運んだとしても、自分の意志とは言えません。そして、その結果、酔って抵抗する力がなくなった状態で、望まない性的な行為を受けたのなら、被害という以外にありません。

 被害に遭った人には「落ち度」はありません

被害に遭った人の落ち度を指摘し、非があるとする言動は、被害に遭った人に対して「二次被害」を与えることになります。

*昨今では、双方知り合いであっても、たとえ夫婦であっても、また身体的暴力を伴わなくても、「強姦罪」「強制わいせつ罪」が適用され、強姦罪の場合有罪になれば実刑になることが多いようです。


2009/06/07のBlog
[ 10:39 ] [ 事件について思うこと ]
久しぶりに更新します。

京都教育大学の集団準強姦事件について思うことを書きたいと思います。
シリーズになる予定ですが、現在超超多忙なゆえ、次の更新がいつになるのかは予定が立ちません。のんびりとお付き合いください。

その前に、私が記事を書く理由を書いておきたいと思います。
基本的に、当ブログでは、特定の事件について書くことはしていません。
その理由は、1つは事件に何らかのかかわりがある場合があること、そして2つ目は、報道(個人のブログの記事も報道のうちと考えます)は、どんな内容であれ、被害者の方々に対して二次被害を与えることになるからです。

では、なぜ書くことにしたのか、ということについてですが、理由は3つ。
1つは、事件のたびに思うことですが、被害者の立場を考慮することがあまりにもないと感じることが多いためです。
2つ目は、ご承知のとおり、昨今同じような大学内の性暴力が続いていること。
3つ目は、性暴力という問題を、根本から考えようとすることが少なく、だから事件の反省が生かされていないと感じるからです。

前置きが長くなりましたが、被害者の方の立場に極力配慮しながら、書き進めていきたいと思います。読む人も、被害者の方を思いながら、お読みくださると幸いです。





 大学側の言う「教育的配慮」とは?? <記者会見の報道から>
大学の記者会見の報道では、報道側は「大学の対応が悪い」という批判的立場をとっていました。
「本来、強姦罪は親告罪ですが、集団準強姦は親告罪じゃないので、すぐに通報すべきだったのに、大学側はそれを怠った」という主張でした。また、大学が「公然わいせつ」と発言したことも、かなり問題視しています。大学と文科省との対立も報道されていました。

それに対して大学側は「教育的立場を優先した」「教育的配慮をした」と説明し、かといってこのままで良いとは思っていなかったとし、「(通報するには)被害者の同意が必要と考えた」と答えています。

この一連の報道から、私は、大学側が言う「教育的配慮」について、「誰に対しての教育的配慮なのかな?」と感じました。
被害者の女性が、事件後に通学されているかどうか分かりませんが、集団から強姦をされて、その加害者に会うかもしれない大学に通学するのは、相当に無理があります。もしも通学されているなら、かなり無理をしているでしょうし、通学していないなら、当然のことでしょう。
被害者の女性の教育を受ける権利を第一に考えての「教育的配慮」だったのでしょうか。そうではなくて、加害者への教育的配慮が優先されていたとしたら、それはやはり、大学として誤った対応だったといわざるを得ないと思います。

性暴力の被害を受けた人は、その後の生活が一変します。
それまで普通にできていた、仕事や学習はできなくなります。恐怖から、外出することもままならなくなります。
事件の後に、味方になってくれる人が、被害者の方の意に沿う手伝いをしてくれ、心のケアをはじめとした支援を受けられれば、徐々に回復し、社会生活も元に戻っていきます。でも、それには、かなりの時間を要します。
反対に、味方になってくれる人がおらず、それどころか今回のように、被害者の言動が責められたり、加害者に対して何らかの対処してくれないと、ますます被害者を取り巻く環境は悪化し、回復は遠のき、傷を深めてしまいます。
大学側は、被害者の女性の立場を第一に考え、対応したかどうか・・・?
「公然わいせつと考えている」(つまり、被害者であるはずの女性も加害者と位置づけている)という発言を見る限り、被害者を加害者と同罪という見方をしているわけですから、被害者の女性に対して「教育的配慮」をし、通報に際して女性の同意を必要と考え、細心の配慮をしていたというにはあまりにも矛盾しています。
つまり、被害者の女性を第一に考えて対応されてはいない、「教育的配慮」は加害者である学生達のため、と言えるようです。


 「集団準強姦」か「公然わいせつ」か?はたまた「合意の上」か??

加害学生達は、「集団準強姦」の疑いで逮捕されているということなので、立件されれば、裁判にかけられ、その結果有罪となれば罪名が確定となります。大学側が「公然わいせつ」と考えて、それを主張したところで、あまり意味をなさないでしょう。
ただし、なぜ大学が「公然わいせつ」を考えているのか、率直なところを聞いてみたいものです。

「合意」については、集団強姦が親告罪じゃないことから考えればおのずと分かるはずです。法的には「合意」はありえないということです。
それに、被害者の女性が告訴していますので、現実に「合意」はしていないということになるでしょう。
性犯罪の場合、加害者は「合意の上」ということが非常に多いものですが、加害者側の「合意の上」という主張は、信用できないということです。


 大人として考えなければならないこと

今回の事件を「大人」として考えた時、大学という集団あるいは組織の中で起こった悲しい出来事について、大人側の都合で、あるいは認識不足によって、被害者を被害者として認定しなかったり、被害を軽く見積もったり、あるいは被害者を加害者と同罪とする発言(それも公的発言)が、どれほど被害者の女性とその家族を傷つけ、苦しめ、追い詰めているか、ということを、あらためて考えてみなければならないと思うのです。
また、大人として私達は、加害者の子ども達(今回の加害学生は20歳を超えていますが、精神性は子どもでしょう)に何を示したいのか、社会の次の担い手として何を学んで欲しいと思っているのか、問われているのではないでしょうか。




お仲間の皆さん、率直なご意見をよろしく!

2009/06/01のBlog
[ 15:58 ] [ 事務局よりお知らせ ]
2008年2月に、資金難で事務所を閉鎖して以来、事務局としての機能が停滞しており、関係機関および会員・一般の方々には多大なご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ありません。

今後についてですが、一日も早く事務所を再開し、充実した事業展開ができるよう、引き続き努力をして参りたいと考えています。ところが、私どもだけではなかなか難しい状況ですので、皆様のご協力をいただけますよう、重ねてお願い申し上げます。

現在のkiralaは、細々と研修を続けながら、講師派遣とカウンセリングを続けております。
当ブログの更新も、継続していきたいと意向ですので、引き続きお付き合いのほどを、よろしくお願い申し上げます。



今後とも、kiralaをよろしくお願い申し上げます


 kiralaスタッフ一同
2008/08/10のBlog
[ 12:55 ] [ 理事長のつぶやき ]
独身時代、結婚後、そして母親になってからも現役を続け、
「金」にこだわった谷選手。

残念ながら今回は、有言実行とはいかなかったけれど、
でも、大した「女性」だと思う。
私は、手放しでその活躍を称えたい。

「人」ではなく、敢えて「女性」としたのも、大きな意味がある。
私は、当ブログでも、性別で人や人の行動を判断することを極力避けてきた。
なぜなら、人は「男-女」だけではなく、どちらの性別に属さない人もたくさんいるし、
また、「男-女」の二分法で成立している現代の日本社会に窮屈さや
息苦しさを感じている一人として、
そして、公文書の性別記載欄の撤廃を求めてきた立場として、
何かにつけ、色付けされてしまう性別のカラーを薄くしたいという思いが強くあるからだ。

性別にかかわらず、活躍している「人」は、皆輝いている。
それだけでいい、はず。


でも。
今回「女性」としたのは、私自身がかつて抱えていた葛藤と同じような葛藤を
私よりもずいぶん年下の谷選手が、直面していると知ったからだ。
今も、ん十年前も、社会状況も、人々の意識も、たいして変わっていないのだ。
女性が、女性として社会で有意義に、自分らしく生きていくためには、
いつも、「両立」という二文字の壁が立ちはだかる。
これは、いくら制度や法律が新しくなったり変わっても、
あまり変わらないのだなぁと思う。


かつての私は、時には家族と衝突し、
友人達からもいやみを言われ、
社会的にも非難を受けながら、
「両立」を貫いてきた一人だと自負している。
今となっては、家族との衝突も減り(なくなりはしない)、
友人も仕事を持ち始めたのでいやみを言わなくなったし、
社会的にも非難されることも減った。
どちらかというと「両立」していることで賞賛されることが増えた。

でも、「賞賛」も、私にとっては、「違うでしょ」という思いがある。
私は、確かに、睡眠時間を削ってでも自分の時間をとってきたし、
衝突したら話し合ってきたし、
家族を傷つけないように知恵を働かしてもきた。
身内にも、思い切り世話になった。
筆舌しがたい(大げさではなく)葛藤と戦いの連続だった。
でも、人から「賞賛」されることには、違和感を感じる。
誤解しないで欲しいのは、「私の何を知ってるの?」というような、
被害妄想的な類のものではない。
「あんたはエライ!」という賞賛こそが、
女性を、従来の女性としての生き方に閉じ込める意識だから。
賞賛しないで、私のような生き方も「当たり前」と思って欲しい、
という思いがあるからだ。

私は、世の女性達をリードするつもりはない。
ましてや、モデルになったつもりもない。
でも、私が望んでもないのに、時に先駆者のように言われ続けてきたのも事実。
私は、私が生きたいように生きてきただけで、
これからも生きたいように生きていきたいだけ。

谷選手について、「言い訳をしなかった」とテレビで評価されていた。
「言い訳」とは、「母親になって不利な状況がいっぱいあったにもかかわらず、
その不利な状況を前面に出さず、若い選手と混じって戦った」ということなのだろうか?
言い訳をつけたいのは、世間の方だろう。
たぶん、谷選手も、ただの選手としてがんばってきたはず。
「母親」としての看板でがんばったわけではないはずだ。

でも、でも!
実際に、「母親」になった人が社会で活躍するのには、
いくつもの試練や壁が立ちはだかることは、私もよく知っている。
だからこそ、今回だけは「すばらしい女性」と思った。
女性であることの役目や立場を、世間から背負わされ、
がんばった選手なのである。

しかし、いつの日か、結婚しようが、母親になっていようがいまいが、
オリンピックで金メダルをとった人を「選手」として賞賛したい。
そう願いを込めて、今は「女性」として谷選手を称えたい。


余談だけれど。

私が労働者として勤務している職場は、性別による仕事の差は全くない。
女性だからって力仕事も免除されない。
未婚・既婚・子持ちも一切関係なく、
土日の出張命令も、宿泊出張命令も、残業も容赦なく来る。
もちろん、家庭の事情を自己申告すれば、配慮はもらえる。
つまり、自己申告しなければ、性別や家庭の状況は一切区別なし。

いい職場だなって思う。

そして、もっと自慢したいのは、
「私にはできません」と女性を盾(言い訳)に、仕事を拒否する女性職員は、
私の職場には一人もいない。


ある意味、私にとって、ずっと待ち望んでいた環境で仕事ができるようになって、
「女性」が仕事をしていく大変さとありがたさ、やりがいを、
改めて思い知っている今日このごろ。


谷亮子さん、銅メダルおめでとう。
「女性」だけではなく、西宮を愛する者としても、いつまでもエールを贈り続けます。