性犯罪を受けた人がその相手(加害者)に対して思うコト

先日、あるシンポジウムに参加した時のこと。
法律の専門家ほか、精神科医などから、被害者が加害者に対して思うコトについて
ある意見が出され、私としてはとても驚きました。

話の趣旨を簡単にまとめると、以下のようなものでした。
「性犯罪の被害に遭った人は、相手(加害者)に対して、厳罰(刑務所に長く入る)を求めるのが一般的で、
相手(加害者)の更生(立ち直り再犯しないで社会生活を送る)ことは望んでいない」
というものでした。

 ○○○○○

キララには、性的な被害を受けた人からの相談が後を絶たないのですが、
私が今まで経験してきた中で、相手(加害者)に対して
厳罰だけを求める人は、実は皆無です。

もしかしたら、厳罰を求める人は、キララのような民間の相談機関に相談するよりは
警察に被害届をし告訴をするのかもしれませんし、
あるいは弁護士に相談しているのかもしれません。
それでも、警察に被害届を届出して告訴をするのは、被害を受けた人のごくわずかですし、
また、告訴を取り下げる人も多いということですから、
厳罰を求め、実際に行動に移す人は、被害を受けた人の中の、ごくごく少数なのではないでしょうか。
もちろん、あくまでも推測の域を出ないことですが。

キララにご相談される人たちは、加害者に対して厳罰を求める人もいませんが、
かといって加害者に温情をかけ、積極的に許そうという人もいません。
加害者を憎みもするし、憤りは当然あります。
その感情たるや、まさに筆舌しがたいものです。
でも、よくよくお伺いしていると、その言葉の裏側は、奥深い気持ちが存在しています。
「厳罰に処して」「許さない」「許す」など、そんなに単純ではないのです。
極めて複雑で、奥が深いものです。

これまで、キララの支援で、告訴をした人も、民事裁判をした人もいますが、
法的措置はあくまで「手段」であり、「目的」ではありませんでした。
相手(加害者)に対して、再犯を止めさせるため、自分の傷ついた気持ちを伝えるため、
など、法的措置の裏側に、本来の目的があるのです。
(誤解のないように付け加えておきますが、
法的措置を目的的にすることを否定しているのではありません。
本来、被害を受けた場合、法的措置をとる権利はありますし、
諸々の条件が整うのであれば、きちんと法的措置をとる方がいいでしょう。)

また、被害を受けた人の中には、時には加害者を「死刑にして」という時もあります。
一瞬、そのような感情が出ることは、よくあります。
でも、たとえその人物が死刑になったとしても、自分の気持ちが晴れることも、
被害を受ける前のようになることはないということを知っておられます。
死刑になったところで、自分の今の状況に良い変化が訪れることはないとなると、
たとえ自分に対して酷いことをした人物であったとしても、相手の死を望むことはしたくないようです。

このように、毎日毎日、いくつもの相対する気持ちが浮かんでは消え、消えては浮かび・・・
その感情に自分自身が振り回され、ひとときでも解放されることもなく、
自分に押し寄せて来る感情に、疲労困憊させられている。
それが被害を受けたおおかたの人の現実の有様なのです。

私は、これまで「性犯罪者はどんな人間か?」「どうして性犯罪者になるのか?」という質問を
様々な場面で、数えきれないほど受けてきました。
その質問の裏側にあるのは
「自分の子どもが性犯罪をするような人になって欲しくない」
「自分や家族が被害に遭わないために、予備軍の人たちとの付き合いを避けたい」
「どうしてそんな人間になったのか興味がある」
など、それぞれですが、どうやら多くの人たちの大きな関心ごとのようです。

そして、その関心の高さは、実は被害を受けた人も、同じです。
その気持ちの裏側は、
「どうして自分が被害を受けたのか知りたい」
「加害者は自分の心身の痛みを少しでも理解できる能力があるのかを知りたい」
「もう二度と同じことをしない人にさせるための方法を知りたい」
「どういう生育歴をたどってきたのか、親はどんな人なのかを知りたい」
など、様々です。

全員ではありませんが、被害者の中には、相手(加害者)には更生をして欲しいし、
これからはきちんと生きて欲しいと願う人さえいます。(実は、少なくありません。)
もちろん、被害直後からそう思うのではなく、
行きつ戻りつしながら、葛藤の末に、そんな思いに達するようです。

私は、このような相手への尽きない興味と関心や心の動きには、いつも心を打たれます。
自分に起こったことから目を背けることなく本質を見ようとするその姿から、
被害を受けた事実は消すことはできないけれど、
前を向いて生きようとする、人間の力強さと逞しさを感じるからです。

「被害者は厳罰を求めるもの」というひとくくりな見方をする限り、
被害を受けた人の、その後の奥深い葛藤やそれを超えて強く生きている姿は見えてはきません。
私が、今日ここに書きたかったことは、
ある特定の人たちの声をもとに、「被害者はこうだろう」と断定的な見方をし、
制度を整え、サポートを強化しても、一人ひとりの被害者にとって使い勝手良いものには
ならないのではないか、ということです。

ことさら美化するつもりはありませんが、理不尽に酷い体験を受けても、その現実を受け止め、
社会のためと、加害者自身のために彼らの更生を願いながら、
時には加害者と対峙して、
現実をくぐり抜けて生きる人たちもいるのです。

 ○○○○○

*厳罰を求める被害者はいらっしゃるでしょうし、その方々のお気持ちを否定するものではありません。ただ、それらの考えが性犯罪の被害を受けた人の全部とする専門家の方々をはじめとする多くの方々に対して「被害者を十把ひとからげにしないで」というのが本文の趣旨ですので、曲解なさいませんように、くれぐれもお願い申し上げます。