地元の安全どこに? (中日新聞)

(中日新聞)の記事に共感し、記録しておくためにもと思い、添付しました。
以下同新聞記事です。

「政府の大飯原発3、4号機再稼働の方針は、地元とともに私たち国民もよく考えるべきことである。原発に頼らない、安全で豊かな社会に向かって。

 政治と政府が責任を持つのだという。それならば、野田佳彦首相と関係三閣僚の皆さんは、もう一度福島の事故現場をつぶさに歩き、被災者や避難者の話をよく聞いてみるといい。

 福島第一原発は今も、核反応が止まらずに汚染水を排出し、残骸をさらし続けている。帰れない人がいる。その数は十六万人に上る。なりわいを奪われ、健康不安を抱え、地域のきずなは引き裂かれ、美田や美林の荒廃になすすべもなく、海の幸をとることもかなわない。がれきの後始末さえ、めどを付けられないでいる。

責任、本当に取れるのか
 その現実にあらためて接したうえで、それぞれの心に問いかけてみてほしい。「本当に、責任など取れるのか」と。

 原子力損害賠償法には免責規定がある。福島第一原発事故後にできた原子力損害賠償支援機構法でも、政府の責任は限定的だ。原発事故の責任を取り切れるものは存在しない。

 私たちが繰り返し主張し続けてきたことを、再び述べたい。

 枝野幸男経済産業相はこれまでの評価の過程から「二重、三重、四重に安全性を確認した」と言い切った。だが今は、原発の安全性を確認できる状態からはほど遠い。国民の多くがそう思っているだろう。

 第一に、福島第一原発事故の原因は、まだ分かっていない。

 第二に安全評価(ストレステスト)を実施し、政治判断の根拠となる即席の暫定基準をたった二日で作成したのは、福島事故の原因者ともいうべき、経産省傘下の原子力安全・保安院である。原発推進に偏らず、科学的、中立的な規制機関はまだ存在しない。

 関電が政府の要請に対して示した中長期対策の工程表は、八十五項目中三十三項目が未実施だ。

 事故発生時に“司令塔”となる免震施設や、原子炉の圧力を下げるベント(排気)時に放射性物質を取り除くフィルターも、完成は三年先だ。地震や津波がそれまで来ないと、誰も保証できない。

 地震の揺れでがけ崩れが起こり、非常用電源が使えなくなる恐れ、それと同時に住民の避難路が断たれる可能性、津波による浮遊物が建屋を破壊するケースなど、専門家による多くの指摘が、考慮のうちには入っていない。

安全神話時代の認識
 枝野氏は「電力不足が社会の弱者に深刻な事態をもたらすことを痛感した」とも会見で述べた。

 関電はこのまま再稼働ができないと、一昨年並みの猛暑になったとき、最大約二割の電力不足になると試算した。政府はそれを再稼働を急ぐ理由としているが、その見通しは広く検討されたものではない。節電の効果や電力融通の実態も、国民にはよく分からない。

 そもそも、電力不足の影響が病人や高齢者に及ばないように工夫をするのが、政治本来の仕事ではないのだろうか。

 「原発の地元はどこか」についても、国民的な合意はない。

 福島第一原発事故を受け、防災対策の重点区域は、十キロから三十キロ圏内に拡大される。放射能がその日の風向き次第ではるか遠くへ飛散することを、国民は福島事故から学んでいる。

 福井の原発について、大阪府と大阪市は原発から百キロ圏内の全自治体と原子力安全協定を結ぶよう、関電に求めている。無理をいっているのではない。福島の悲しい教訓なのである。

 藤村修官房長官は「法律で地元同意が義務付けられているわけではない」と言った。安全神話時代の認識ではないか。

消費者も協調できる
 私たちは「原発に頼らない国へ」という主張を続けている。

 そこには、原発のリスクを過疎地に押しつけ、電力の大きな恩恵を受けながら、その使用量を右肩上がりに増やし続けてきた、消費者としての自戒が込められている。私たち消費者こそ、原発頼みの電力浪費社会を改める必要に迫られている。

 立地地域の人々も、心は揺れているのではないか。原発が危険なことは重々分かっている。原発交付金が、いつまでも続くわけではない。

 長年の苦衷を国民全体でくみ取って、共有すべきときである。国策の犠牲者である立地地域だけを、これ以上苦しめ続けていいわけがない。原発に代わる地域経済の新たな柱を用意し、地元に安心をもたらすことも、政府の責務ではないか。消費地から立地地域へ呼びかけたい。ともに原発依存から脱却し、持続可能な日本を築こう。協調しよう。」