それはないだろう、という体験

最近、「すなしま寄席」が終わってちょっと放心状態。
特に話題がないので、久しぶり(2月11日以来)に、「創刊の記」を。
今回は、ちょっと困った出会いのはなし。

『すなしま』の創刊準備号は、2002年の12月22日に完成した。
年が明けて2003年、いろんな配って歩いた。
そんな活動が、朝日新聞に新聞に紹介された。この反響がけっこう大きくて、このとき問い合わせの電話をいただいた方が、今日まで、長年の定期購読の読者となってくれている人がいる。
もはや、こういうお客様は、私にとっては家族のようなもので、ときどき電話で話すような機会があると、とても幸せな気分になれる。

ただ、こういう出会いばかりではない。妙な出会いも経験した。
それは、「実は私も、この地区で同じこと(タウン誌の創刊)をやりたいと考えていたんです」と電話をしてきた人だ。
何でも、かつて編集の仕事をやっていたことがあって、今は砂町のとある場所で、親類の人が経営している美容室の二階で、写真スタジオを開いているらしい。だから、こういう仕事には詳しいというのだ。
そういう人がいても不思議ではない。ただ、私にとっては、「ああ、そうなんですか」という程度で、そういう人がいたから嬉しいとか、助かるということはないわけだ。
ところがその人が、「どうしても会いましょう」というので、仕方なく会うことにした。

その人は、60の手前、それなりの分別を持っているはずの年齢と見た。
私に会うなり、私が手渡した創刊準備号をパラパラと開いて、「で〜、これはどういう作り方をしているの?」「印刷屋さんはどこ?」「予算は?」と、いろいろなことを聞いてくる。
おいおじさん、俺は何であなたに事情徴収のようなことをされなきゃならないんだ?
と思ったが、何とか半分はぐらかすように答えていると、「そうしたら、やっぱりもうちょっとお金を集めるのに、月に一回ぐらい、広告中心のフリーペーパーを出したらどう?うちはそういうものの編集も出来るだけの機材とスタッフが揃ってるから、それを使って、私がディレクションするから……」てなことを話し出す。
え? するってと何か? あなたはもう『すなしま』のスタッフになりきったつもりで、私に指示を出しているわけ?
それで、勝手にいろいろと話を進める。まるで、自分が編集全部を取り仕切るディレクターになって、私がその下のライターにでもなっているようなつもりで。
「でもやっぱり、取材もしなきゃらないことだからな〜、面倒なんだよ、こういうことは」。
ありゃ〜。誰もあなたに頼んでないのに、勝手に「面倒」だ何て。しかも、こういうものは取材がすべて、それが出来ないぐらいなら、私は最初から、こんなことはやりはしない。
そして、この人とはもう話せないという決定的な一言が飛び出した。
「まあ、このあたりは、新宿や渋谷と違っていいお店もないし、見所も少ないからな〜」
それなのに、何でタウン誌になんて興味があるの?

その後、どうしても自分のスタジオを見て欲しいというので、一応その事務所まで行ってみた。
ただ、この人がどういうつもりで私にあったのかどうかは知らないが、こんなに自分の都合で物を考える人を、他に見たことがない。
いくら「私もこの地区でタウン誌を作りたかった」といっても、それは先にやったものが勝ちだろう。
そこを百歩譲って、「すなしま」の同志になったとしても、あなたの立場は私の下だろう。

そのまま、何の約束もせずに、「あなたと何かをやるのはお断り」という態度だけを示して、その人とは別れた。
その態度が、その人のプライドの傷つけたのかもしれない。
もう私に電話してくることはなかった。
ただ、ただ、見せたつもりの創刊準備号のお金も払ってくれずに、そうかといって、その号を返してもくれずにしてしまったことが残念だ。
その1ヵ月後、創刊号ができたときに、定期購読の振込用紙だけを入れて、創刊号を送ったが、その返事も何もなかった。
あれからもうすぐ4年たつというのに、いまだにすっきりしない出来事だ。

実はこの2年後、私はこの人と道ですれ違っている。
「すなしま」の取材で歩き回っている時に、この人に連れて行かれた事務所の前で、すれ違ったのだ。
私は、その場所を忘れもしないし、その顔を見ただけでぴんと来たので、ちょっと、いやらしくニヤついてかるく頭を下げた。
その人は無反応だったが、あれは私のことを認識していたのだろうか?

ちなみに、写真は、何の関係もないですが、28日の三の酉の日の、四谷須賀神社の様子です。
こういう催しが行なわれていましたので、ちょっとした仕事を兼ねて行ってきました。