加害者が被害者であるということ 〜ステーヴィー再考〜

[関連したBlog]

いただいたコメントの回答にはなっていないけど・・・

性犯罪の加害者の8割程度が児童虐待や性犯罪の被害者であると言われている。
被害者の全てが加害者になるわけではないけど、
加害者の8割が被害者であると言う事実は重い。
そして、どこに分岐点があるのかも個人差がある。
同じ虐待を受けても加害者にならない人もいるし、なる人もいる。
しかし、虐待経験は主観的なものであり、物理や化学のようにいつも同じ
反応をするわけではなく、明らかに個人差がある。
加害者になる被害者の方が、ある意味感受性が優れていると言えなくもない。
従って、同じような被害経験をした人でも、加害者にならない人もいるのだから、
あなたが悪いとは一概には言えない。

また加害者自身が過去に虐待を受けていたことを知らず、
加害者の親自身も過去に子どもを虐待していたことを知らず、
さらに加害者である自分の子どもに「そんな子どもに育てた覚えはない。」
と言い、二次被害を与えている場合もある。
児童虐待は時に「しつけ」と称され、
性的虐待は過度な愛情表現と理解され、
また虐待と自覚していても日本の場合は家の恥として
加害者よりも被害者が責められるなど
表面化しない暗数は多い。

確かに全ての被害者が加害者になるわけではないし、
加害者が被害者であると言って、
加害者の行為は許されはしない。

しかし、被害者であることによって、
刑が軽減されたり、医療刑務所に送致されることがある。

虐待を受けても加害者にならず、自暴自棄にもならず
精一杯生きている人を敬意を込めてサバイバーと呼ぶ。
でも、決して被害者であったとはならず、
やはり被害者であることに変わり無く、被害経験は消えない。
被害者は被害者であり続ける。

従って、被害者であった加害者ではなく、
加害者であり、被害者でもあるのだから、
合理的に考えれば、相殺して刑が軽減されたり、
医療刑務所に送致されても良いように思う。

でも、被害者の立場を考えるとそうはいかない。
なぜ私、あるいはこの人だったのかと言う合理的な理由がない限り、
自分とは関係の無い次元で加害と被害を相殺されては堪ったものではない。
例え、過去の被害経験がステーヴィーを加害者にしたとしても
そして、ステーヴィーのような人生を歩めば、誰でもが犯罪者になるだろうと
思ったとしてもステーヴィーの罪を許せるものではないことも確かだ。

だからと言って、彼の歩んできた人生を知れば、
如何なる理由であれ、厳罰に処すべしだとか、
被害者であっても加害者にならない人もいるのだから、
とも言えない。

私が彼と同じ人生を歩むことを想像してみる。
親からの身体的虐待、そしてネグレクト
祖父母の家に預けられたが、高齢を理由に養子縁組が認められず、
そして、祖父の急死によって、祖母に養育能力がないとされ、
施設に預けられ、可愛がってくれた里親が施設を離れ、
その後性的虐待を受け、施設を転々とする。
このドキュメンタリーの監督である大学生がビッグブラザーになり、
親しくなるものの仕事のため、離れ離れになり、
その後、このドキュメンタリーを撮るまでの10年間音沙汰なし・・・
その間、満足な教育を受ける機会も与えられず、生きる術を知らない。
犯罪以外の生きる方法を教えてもらって、なお犯罪を犯しているのではない。
何も教えてもらえず、犯罪するしか選択肢がない。
もちろん人の愛し方も知らない。
これだけでも、生きていることすら奇跡のように思う。
私なら、自殺するか、生きるために精神の病になるかだろう。

しかし、被害者の人権は恢復されなければならない。
罪を憎んで人を憎まずと割り切るわけにもいかない。
そうかと言って、如何なる理由であれ、悪いことは悪いとも言い切れない。
社会が彼を生み出したのだから、社会が悪いんだ!とも言えない。
社会も悪いし、彼を虐待した多くの人々も悪いし、彼の行為も悪い。
唯一確かなことは被害者には非が無いということ。

私にはどうすれば良いかわからない。