先日、ひょんなご縁で、人様と共に日帰りで奈良・大峯界隈(洞川温泉郷と吉野山)へ行ってきました^^♪
大峯界隈は「行く」というよりも「通う」という言葉の方が、私にとってはピッタリな程に、第二のふるさと的な場所です。
本当に大峯界隈の祈りの風景は美しいです。。。
・・・人生50年近く生き、その過程で「祈る」ということの効果効能に気づき、人として幸福な人生を歩んでゆく上で本当に大切なことであると実感しています。
祈りとは、【今、ここにいる自分以外の人<存在>の想い/命と繋がる行為】であると観じています。
自身の肉体にある2つの手のひらを合わせ、祈る存在(想い・命と繋がりたい対象)に想いを馳せます(その対象に自らの意識を合わせにいきます)。
するとその対象から、いろいろな、それは言葉や映像となって、私の元に下りて来て、私という存在と一体化します。
それは行く先を示す「智慧」であり、「愛」という、より勁く幸福に生きるためのエネルギーでもあります。
その対象が【高次元】の存在である程に、智慧や愛の強度・精度が増していきます。
より高次元の存在に、自らの意識を合わせたければ、日々一所懸命行に励み、各種執着を捨て、精進し続けるしかありません。
・・・日頃、犬や猫、鳥などの動物を観察しておりますと、動物たちはこの「祈る」という行為をしていません。人間という霊性を持った存在と動物との違いは、こんなところにもあるようですね。
動物たちは、今、ここにある生存欲求とその欲求から発心された感情のみに突き動かされて生きているようです。
人間のように過去の後悔、未来への憂え、生まれて来たことの苦しみも、死ぬことへの恐怖もないようです。「今、楽しい」「今、苦しい」という今の感情だけで生きているようです。
私がこの「祈る」という行為に魅了されてから、「祈る人」への観察眼が強くなっていきました。
一般的に人は、人生がうまく行っている時は、自身を過信し、自己中心的になって、祈るという謙虚さや感謝の気持ちを表現する行為が薄くなる傾向にあり、逆に、各種の大苦難が到来している時は、自身への不信感が募り、祈る行為にすがってしまう傾向にあるようです。
この「祈る」という一つの行為につきましても、どちらか一方に偏るということは、人が人として生きている上で、自らが作り出した無明さによって、不幸に堕ちていってしまうものであると観じています。
過信や不信に偏ることの双方が【無明】であるようです。常に”ニュートラル“な状態である【中庸】を目指し、健全なる自信を持ち続ける必要があるかと思います。
私の複数の知人の男性の方々は、毎年必ず一回、大峯山に登拝をされておられ、自身の心身の浄化・・・自らの過去の行いの振り返りをし、未来の自分の礎となる行をされておられます。
自分自身が決めた時期、また回数で持って、同じ行を続けておられることは、先述しました健全なる自信を持ち続ける、素晴らしい方法の一つであると、私も認識しております^^♪
・・・にしましても、もしも私が生物学的に男性であれば、毎年一回・・・いや、もう里を捨てて山にこもり、自給自足の行者になって、洞川あたりで「大橋茶屋」を営み・・・戸開けの時期は茶屋のおっちゃんとして行者さんのお世話をし、それ以外の時期は大峯やそれ以外の行場を転々をしていたでしょう!?(笑)。
しかしながら幸か不幸か、今世は女性として生まれてきましたので、女人結界門の前で、合掌礼拝しながら、かつてここを行き交った、無量大数の行者たちと対話をし、その皆様方の想いを、大峯の山々に吹く風の音と共に観じ、私自身も、ここで行をさせていただいた気分になっております(笑)。
(私の里・河内の男性たちは、かつて大人になるための通過儀礼として、大峯山に登拝するのが習わしになっていましたので、私の父方はほぼ全員、大峯山に来られたことがあると思われますので、なんだかなつかしい風景でもあります)
私がこの肉体を持っている間は、大峯に上がることはないですが、大峯の名水「ごろごろ水」は15年程愛飲中ですので、自らの体内に御水を通して、大いなる大峯の意識様を忘れず、生きていきたいと思っています。
日常生活では、右に左に、また上に下にと、心身が揺り動かされることがたくさんありますが、祈るということ、信仰心で持ってでも、自身のぶれない心・健全な自信を持ち続け、その偉大なるこころ・たましいの礎の上に、引き続きよりよい仕事・各種活動、人生を構築し続けて参りたいなと改めて、気を引き締めた、善き時間となりました(=人=)☆
【写真】洞川温泉郷




