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シニア文化塾だより
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2018/11/03のBlog
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日時:午後1時~4時
会場:柿衞文庫(伊丹市宮ノ前)
講師:辻村尚子(柿衞文庫学芸員)
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○前回の復習…芭蕉『奥の細道』を読む 第1回
芭蕉の生涯と旅
・寛永21年(1644):伊賀国(三重県)に生まれる
・寛文12年(1672):29歳 江戸に下る。
・貞享元年(1684):41歳 『野ざらし紀行」の旅に出る。
・貞享4年(1687):44歳 『笈の小文』の旅に出る。
・元禄元年(1688):45歳 『更科紀行』の旅に出る。
・元禄2年(1689):46歳 3月『奥の細道』の旅に出る。(~9月)。
・元禄6年(1693):50歳 この頃、『奥の細道』を執筆したか。
・元禄7年(1694):51歳 大坂にて没。

『奥の細道』の構成意識(*右上の資料を参照)
(1)漂泊の思い
冒頭に、「月日は百代の過にして、行きかふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず。…(中略)…〈草の戸も 住替る代ぞ ひなの家〉」。
・芭蕉が尊敬した多くの歌人、西行・宗祇・杜甫・李白など、みな旅の途上で客死している。
(2)旅立ち
行く春や 鳥啼き魚の 目は泪
(44)大垣
蛤の ふたみに別れ 行く秋ぞ
・旅立ちの句、「行く春や…」が、遠く巻末の「…行秋ぞ」の句の伏線を為している構想の妙を忘れてはならない。
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芭蕉の『奥の細道』を読む 第2回
漂泊の思い~草加
・三月もおしつまった27日、深川から船に乗り、『おくのほそ道』に出発した。隅田川を上ったら、千住という所で舟から上がると、同行してきた見送りの人たちと別れ、遠い異郷へ三千里もの長い旅に行くのだなという感慨が胸いっぱい広がる。
行く春や 鳥啼き魚の 目は涙」(芭蕉)
(句意)【春が過ぎ行こうとしていて、名残り惜しいことである。行く春との別れを惜しんで、鳥は悲しげに鳴き、魚の目は涙で曇っていることだ。)
・草加という宿に着きにけり…旅の第一夜は、やっと草加(埼玉県)という宿駅にたどり着いた。痩せて骨ばった私の肩にかかっている荷物に、何よりも最初に苦労した。
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柿衞文庫 特別展「芭蕉の手紙」の見学
・兵庫県伊丹市の博物館「柿衞文庫」で、開催中の特別展-芭蕉の手紙-を、講義の終了後、辻村先生の案内で見学。
・厳選した芭蕉の手紙を中心に、短冊や懐紙・画賛などの名品が紹介され、手紙から芭蕉のさまざまな表情や人間性が伝わってくる展示です。
・女性の弟子・智月に宛てた芭蕉の直筆手紙が、新発見され、女性が読みやすいように平仮名を多用するなど、女性宛の手紙の特徴が現れていた。
・芭蕉の手紙は厳選され約230通保有されているとのこと(芭蕉が早くから有名人で、手紙が大事に保有されていたと思われる)。
2018/10/29のBlog
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・日時:10月23日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:平林章仁先生(元龍谷大学教授)
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○復習「三輪山の古代史①-「麻糸で結ばれた神と女の物語」
・『古事記』『日本書紀』には、三輪山の大物主神と巫女的な女性と交わる三つの神秘的な神婚神話が伝えられている。これら大物主神に関わる神話・伝承には、ヤマト王権成立の重要な鍵が秘められている。
・「麻糸で結ばれた神と女の物語」(概説)…崇神天皇の御世に、疫病が流行って人民が絶えてしまいそうになった。大物主神の祟りで疫病が流行したが、河内の美努(みの)村のオオタタネコを神主として祭らせたら終息させた。…陶邑の首長の娘.イクタマヨリヒメは容姿が端麗であった。ヒメのもとに夜毎に通う男がおり、まもなくヒメは身ごもった。そこで両親は、男の正体をつきとめるために、糸巻に巻いた麻糸を針を通して男の衣の裾に刺すように娘に教えた。翌朝、糸は戸のかぎ穴から抜け出ており、糸を頼りに訪ねて行くと、三輪山の神の社にたどり着いた。そこで、娘の腹の子(オオタタネコ)は、この社の大物主神の子と知れた。
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三輪山の古代史②-丹塗矢伝説(丹塗矢と交わった女)
・丹塗矢伝説:神が丹塗矢に姿を変えて女性に近づくという神婚の伝説。
(1) 『古事記』神武天皇段(神武天応の后の誕生)
・(古事記)…三輪山の大物主神が、丹塗矢に化して溝を流れて、用を足していた三島溝咋(みしまみぞくい)の女のセヤダタラヒメに近づき、のちに美男子に姿を変えて、ヒメと結ばれ、生れた子がホトタタライスキヒメという。(神武天皇の大后ホトタタライスキヒメは、摂津の三島溝咋の女セヤダタラヒメと大物主神の神婚で生れた神の御子である。)
(2) 『日本書紀』神代紀第八段一書第六
一書(あるふみ)に曰く、事代主神が、八尋熊鰐(大きなワニ)に化して、三島溝樴姫(みぞくいひめ)に通い、結ばれた子が神武天皇の大后。

*注1:古事記は大物主神を特筆し、三輪山麓を話の舞台にしている。日本書紀は、事代主神を主役としている。事代主神は賀茂氏の奏祭神。(賀茂氏の祖先伝説が採択されている)
*注2:神武天皇の大后の出自は、母系は.同じであって、摂津の三島。しかし、父系は三輪山の神(大物主神)とする古事記、事代主神と伝える日本書紀で、異なる。
*注3:三島とは、大阪北部(茨木市、高槻市などの地域)を指す。
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◆『山城国風土記』逸文の賀茂神話
「…山城国の賀茂氏の祖伸・賀茂建角見命(かもつたけつぬみのみこと)と丹波国の神野のイカコヤヒメの間に生れた玉依日売が、川に丹塗矢と化して流れきた火雷神(ほのいかづちのかみ)と結ばれたのが、可茂別雷命(かもわけいかづちのかみ)であるという。」
・.京都の上賀茂神社、下鴨神社にも丹塗矢伝説があり、周辺には葛城地方と共通する地名も多い。大和から山城に、賀茂の一族が移っていった。

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**あとがき**
・丹塗矢型三輪山神婚伝承が、山城の賀茂氏系の強い影響をうけている。神武天皇の大后の父を「事代主神」とする日本書紀の所伝は、葛城の賀茂氏の主張にもとづいていると思われる。
・神武天皇には、すでに后妃がいたが、東征後、落ち着こうとする地で、.新たな后を求め、ヤマトの王者に転身しようとしたことが考えられる。
2018/10/22のBlog
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・日時:10月18日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:吉村稠先生(園田学園女子大学名誉教授)
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**中島京子の略歴**
1964年東京生まれ。小説家、エッセイスト。東京女子大学卒。
2003年、田山花袋『蒲団』を下敷きにした書き下ろし小説『FUTON』で作家としてデビュー。2010年『小さいおうち』で直木賞受賞。2014年『妻が椎茸だったころ』で泉鏡花文学賞受賞。『長いお別れ』(2015年)、『眺望絶景』『のろのろ歩け』『かたづのー』など著書多数。

中島京子『長いお別れ』のあらすじ
・東昇平(80歳前…9年前からアルツハイマー型認知症)は、かつて区立中学の校長や.公立図書館の館長を勤めたが、認知症を患っている。長年連れ添った妻・曜子とふたり暮らし、娘が三人、孫もいる。
・妻は、娘たちに依頼せず、頑固な夫の介護に勤めていたが、.網膜剥離で緊急入院に。⇒3人の娘は、母に任せきりから目覚め、認知症介護の諸制度、諸施設の問題を知る。⇒改めて父の状態と人生、人間性に向き合い、急遽三人で父の介護に臨む⇒各自個々の過程(「長女・茉莉」-夫と米国在住。「次女・菜奈」-49歳で第2子懐妊。「三女・芙美」-自立、独身)、人生状況が交錯し……独り身で動きやすい末娘が覚悟を。
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◆最終章-「米国在住の茉莉の長男タカシとグラント校長の会話」(抜粋)
タカシは学校に出て来ずに遊びほうけていたので、校長室に呼ばれ、
話している中で、タカシは突然「祖父が死にました」と言った。
(校長)「ご病気だったの?」、(タカシ)「ずっと病気でした。いろんなことを忘れる病気で。十年前に、友達の集まりに行こうとして場所が分からなくなったのが最初だって、おばあちゃんはよく言っています」。
(校長)「認知症か。…十年か。長いね。長いお別れ(ロンググッドバイ)だね。」「『長いお別れ』と呼ぶんだよ。その病気をね。少しずつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠ざかって行くから」
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認知症と文学と時代
(1)時代的変化
・認知症は「呆け(ぼけ)、痴呆(ちほう)」と呼ばれていた。
・2000年に、介護保険制度がスタート。(看病・付き添い→介護に)
・2004年には、厚労省が呼び方を「認知症」に変えた。(「痴呆だと、何もわからず何もできないという誤解を招きやすい」というのが理由)
・2025年には、「5人に1人が認知症」になる推計。

(2)文学がとらえ訴えた「医療・介護現場の変化」
**有吉佐和子『恍惚の人』 (1972年)
認知症をいち早く取り扱った文学作品。これがきっかけで痴呆・高齢者の介護問題にスポットがあてられることになる。高齢化社会に突入した日本社会における介護問題をいち早く世間に知らしめた作品。…しかし、その後も依然として、「年寄りの面倒は嫁がするもの」という意識が根強かった。
**耕 治人『そうかもしれない』(1988年)私小説、佐江衆一『黄落』(1995年) 
2018/10/12のBlog
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・日時:10月9日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:白石太一郎先生(大阪府立近つ飛鳥博物館 名誉館長)
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○「6基の初期倭国王墓
奈良盆地の東南部のやまとの地には、初期のヤマト政権の盟主(初期の倭国王)の墓と想定される大規模な前方後円墳が営まれている。
①箸墓古墳→②西殿塚古墳→③外山茶臼山古墳→④メスリ山古墳→⑤行燈山古墳→⑥渋谷向山古墳。…の順に造営されたと考えられる。
◆(1)箸墓古墳と西殿塚古墳
・《箸墓古墳:桜井市、箸中古墳群。三輪山の西の麓》-最初の王墓と考えられる箸墓(はしはか)は、墳丘長280mの巨大な前方後円墳。この古墳から、弥生時代末期の吉備の首長墓に立てられた特殊壺・特殊器台の流れをひく特殊壺形埴輪、特殊器台形埴輪が出土しており、3世紀中葉過ぎの古墳と考えられる。『日本書紀』は、三輪山の神オオモノヌシに仕えあた巫女の、ヤマトトトヒモモソヒメの墓と伝えている。⇒被葬者:三輪山の麓に営まれた箸墓古墳が、卑弥呼の墓である可能性はきわめて大きい。
・《西殿塚古墳:大和古墳群)二代目の王墓とされる西殿塚(にしとのづか)は.、墳丘長240mの前方後円墳で、箸墓古墳のものよりは新しい吉備型の特殊器台形埴輪が出土しており、3世紀後半の古墳であることが知られる。⇒被葬者:箸墓を卑弥呼の墓と考えて良いとすると、それに次ぐ2代目の王墓として卑弥呼の後継者である台与(とよ)の墓である可能性が高い。この古墳では、後円部と前方部に同型同大の方形壇が存在する。一方が宗教的・呪術的の王の台与であり、もう一方が、男兄弟での政治的・軍事的の王である可能性が大きい。
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◆(2)外山茶臼山古墳とメスリ山古墳
・三代目の外山茶臼山古墳(とび ちゃうすやま)は、墳丘長200mの前方後円墳。四代目のメスリ山古墳は、墳丘長240mの前方後円墳で、ともに中心的な埋葬施設は後円部の竪穴式石室一基だけ。この二つの王墓は、すでに盗掘されていましたが、それでも多数の副葬品や多量の武器・武具とともに、腕輪形石製品などが出土。⇒被葬者:おそらく、三代目、四代目の倭国王は男性で、政治的・軍事的王権と、宗教的・呪術的王権をかねて備えていたと想定される。
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◆(3)行燈山古墳と渋谷向山古墳
・五代目の行燈山(あんどんやま)古墳は、墳丘長240mの前方後円墳、六代目の渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳は、墳丘長310mという古墳時代前期では列島最大の前方後円墳である。
・両古墳とも未調査で、埋葬施設や副葬品は不明。ただ、埴輪の様式などから、行燈山が4世紀前半、渋谷向山が4世紀中頃の造営と想定される。⇒被葬者:行燈山は崇神陵、渋谷向山は景行陵を宮内庁は比定。両古墳の比定が合っている蓋然性は大きいと思われる。
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初期ヤマト政権形成時の倭国王の実像
・卑弥呼の晩年に西方の邪馬台国連合と東の狗奴国連合が合体して日本列島の中央部に初めて一つの政治的まとまりができる。これが初期ヤマト政権にほかならない。
・古墳出現の前提となる広域の政治連合の成立が、3世紀初頭の邪馬台国連合の成立にほかならないとすると、古墳の成立自体は、半世紀ほど後の出来事になる。
・定型化した画一的内容を持つ「前方後円墳」の創出は、新しい政治連合の政治秩序、政治体制の整備の一環と考えられる(共通の葬送儀礼を執り行い、共通の首長墓を営むことが、政治的連合関係の維持・確認に有効である)。
・最初の倭国王墓である箸墓が卑弥呼の墓である蓋然性が高いことを重視すると、倭国王、すなわちヤマト政権の盟主の王統が、卑弥呼に始まる可能性は少なくない。
・オオヤマト古墳群では、渋谷向山古墳以降の王墓はみられない。王墓の造営地は、その後曽布の佐紀古墳群、さらに4世紀末葉以降は大阪平野南部の古市古墳群、百舌鳥古墳群へ移動する。
2018/10/08のBlog
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・日時:10月4日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:浅尾広良先生(大阪大谷大学教授)
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○国宝『源氏物語絵巻』について
「源氏物語絵巻」は、紫式部が『源氏物語』を書き綴ってから約100年後の平安時代後期(12世紀前半)に制作された現存する最古の絵巻です。
・本来は「源氏物語」の54帖全体について作成されたと考えられている。
・現存する国宝「源氏物語絵巻」は、絵19面、詞書37面が徳川美術館と五島美術館に所蔵されている。→現存する絵巻は、現在では色が褪せ、剥落が進み、当時の面影はない。⇒国宝源氏物語絵巻の全巻復元プロジェクト(1999年から2005年にかけて、すべての絵巻の復元が完成。)
**国宝『源氏物語絵巻』の講義は、2013年から始め、今回の「竹河(二)」で12回目の講義です。
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第四十四帖 「竹河」 (たけかわ)
前回の「竹河」(一)
・鬚黒(ひげくろ)の亡き後、訪客もなく、近親も疎遠になっていた。妻の玉鬘(たまかずら)は、三人の息子と二人の娘を育て上げたが、娘たちの結婚問題に悩んでいた。
・特に、姉の大君(おおいぎみ)は、その美貌から、帝(みかど)と冷泉院、蔵人少将(夕霧の子)らに求婚され、薫も思いを寄せている。
・薫は、夕刻に玉鬘邸を訪問し、優雅に振る舞い、人々にもてはやされる。
 
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竹河(二)
蔵人少将、薫を羨む。玉鬘、薫の筆跡を誉める
蔵人少将は、大君と結婚したいと思っているが、薫が折々、玉鬘邸を立ち寄ると、皆が薫に好意をもつので、自分は浮かばれず気が弱くなって、恨めしい思いである。
桜花の下、蔵人少将、姫君たちの囲碁を垣間見る
三月なって、桜も盛りの頃、18,9歳に美しく成長した姉妹は、弟の藤侍従が審判役となって碁に興ずる。二人の兄、左近中将・右中弁も見物に加わり、睦まじい語らいが続く。…中将たち兄弟が立ち去り、夕暮れも近くなったので、座を端近に移し、幼児から争ってっていた坪前栽(中庭)の桜の所有権を三本勝負に賭けようと.戯れ、姉妹は再び碁に打ち興ずる。…侍女達もはやし立てているところへ、かねてから大君に思いを寄せている蔵人少将が来合せ、またとない好機とばかりに、そっと身をひそめて、御簾の陰から姫たちを垣間見る。⇒冷泉院に促されて、.玉鬘は大君の参院を急いだ。…大君は、翌年四月には女宮、数年後には.男子にも恵まれるが、周囲の嫉妬がつのり、たびたび面倒なことも起こるので、玉鬘は思うにまかせぬ世を嘆くのでした。
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国宝『源氏物語絵巻』~竹河(二)~
右の絵巻は、「竹河(二)」を復元模写したものです。
・図は、春三月の玉鬘邸。左方は、御簾を巻き上げ、碁を打つ姉妹。上手に、左袖を上げ、右手はまさに石を置こうとするのが姉の大君か。…下方の侍女は中君付きの侍女であろうか。正面の侍女二人は、大君付きの侍女か。
・坪前栽の桜は満開である。
・右手前、御簾越しに、姫たちをみつめる蔵人少将。
2018/10/03のBlog
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・日時:9月25日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:市大樹先生(大阪大学准教授)
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聖武天皇の関東行幸(*右の資料を参照)
天平12年(740)9月、藤原広嗣の乱がおこった。悪疫大流行の疲弊を背景に、橘諸兄政権への不満を抱いた大宰少弐藤原広嗣が挙兵した。…10月26日、聖武天皇は、「朕は思うところがあって、今月の末にしばらく関東に行こうと思う」と勅(みことのり)を発し、平城京を後にして、まず伊勢の国に向かった。→引き続き聖武天皇一行は、美濃・近江、そして山背の国とめぐり、恭仁宮に入る。
・聖武天皇が8世紀に関東行幸をされているが、これは大和を出発して、伊勢経由で北伊勢に出て、美濃の不破方面から近江に戻る行幸経路である。(関東といっても、鈴鹿の関、不破の関の東に行幸されたという。)
関東行幸の3段階
《第1段階》:平城宮~赤坂頓宮(11月4日~22日)…伊勢神宮への奉幣。広嗣の乱の経過・余波を注視。
《第2段階》:赤坂頓宮~不破頓宮(11月26日~29日)…大海人皇子のルートをたどる。王権の継承を実感・誇示。
《第3段階》:不破頓宮~恭仁京(12月15日)…恭仁宮を目指す。
・聖武天皇の関東行幸は、あてどない旅と言われているが、正しくは、計画的な行幸であったと思われる。
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関東行幸への助走
①聖武天皇の時代は、相次ぐ天災・疫病→天皇権威の失墜
・天平6年(734):大地震
・天平9年(737):疫病(天然痘?) 藤原四子の死去(→橘諸兄政権の誕生)
②恭仁遷都…山背国相楽郡。古くは奈良時代初めに、甕原(みかのはら )離宮がおかれていた。
③華厳経・盧舎那仏への着眼
・天平12年(740)2月、難波行幸の際、河内国知識寺に立ち寄って、盧舎那仏を礼拝し、それ以来、盧舎那仏造立の願いを持っていた。
・『続日本紀』天平15年(743)10月辛巳条-「盧舎那仏造立の詔」を発する。

◆聖武天皇は4度も都を遷している。
710年平城京(元明)→740年恭仁京(聖武)→744年難波京(聖武)→紫香楽宮(聖武)→745年平城京(聖武)→784年長岡京(桓武)
・聖武天皇が各地を彷徨し、遷都を続けた天平期後半は、災害や疫病が頻発する不安と動揺の時代であった。
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聖武天皇の関東行幸と『万葉集』
『万葉集』巻6には、聖武天皇の巡行に際して、伊勢の国の河口、朝明(あさけ)、狭残(さざら)の行宮(かりのみや)、不破の行宮、そして恭仁京での歌をそれぞれ伝えている。(巻6-1029~1037)。
◇伊勢国に幸(いでま)せる時に、河口の行宮にして、内舎人(うどねり)大伴家持が作る歌一首。
河口の 野辺に廬(いお)りて 夜の経(ふ)れば 妹が手本(たもと)し 思ほゆるかな」(巻6-1029)
(意訳:河口の野辺に仮屋を営んで幾夜にもなったので、妻の手枕が恋しくおもわれることよ)
◇『万葉集』1033番歌と御食国志摩…狭残(さざら)の行宮にして、大伴家持が作る歌二首。
大君の 行幸(みゆき)のまにま 吾妹子(わぎもこ)が 手枕まかず 月そ経にける」(巻6-1032)
(意訳:天皇の行幸のままに従って、わが妻の手枕をすることなく月日が経ってしまったことよ)
御食(みけ)つ国 志摩の海人(あま)ならし ま熊野の 小船に乗りて 沖辺(おきへ)漕ぐ見ゆ」(巻6-1033)
(意訳:天皇の食善に奉仕する国なる志摩の海人であるらしい。熊野の小船に乗って沖の辺りを漕いでいるのが見える)
*天皇が日常的に食する材料〈贄(にえ)〉を献上する志摩海人の姿を詠み込むことは、聖武天皇の支配の正当性を確認する意味でも重要であった。
2018/09/30のBlog
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・日時:9月28日(金)10時~15時
・【コース】:阪急高槻市駅-寺町-しろあと歴史館-八幡大神宮-城跡公園(昼食)-野見神社-藤井竹外邸跡-高山右近記念堂-昼神車塚古墳-上宮天満宮-西国街道-霊松寺-三好長慶の墓-JR高槻駅 (約6km)
・参加者:12名
・天候:晴れ
・リーダー:佐藤義夫
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高槻市立「しろあと歴史館」(高槻市城内町1-7)(*右上の写真)
高槻市は、大阪市と京都市のちょうど中間に位置し、古来、京・大阪間の交通の要所として栄えてきた。
・「しろあと歴史館」は、平成15年に開館。戦国時代以降の文化財を中心に、三好長慶や高山右近ゆかりの史料が収蔵品の中核。
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高山右近の銅像(城跡公園-高槻市城内町3)
*右の写真は、高槻市の城跡公園にある右近の銅像。
・高山右近(1552-1615年)はキリシタン大名であり茶人。右近は、16世紀の一時期、摂津・高槻城主として信長に仕えた後、秀吉配下でも武功をあげ、明石6万石の城主へと出世。秀吉のキリシタン禁止令により地位や財産を捨て信仰を選んだ。後に、家康のキリシタン追放令によ国外追放となり、追放先のマニラで、熱病に冒され現地で歿した。
・高槻城は摂津国における西国街道沿いの重要拠点。二重の堀を構えた結構大きな城郭だったようが、残念ながらほとんど遺構は残っていない。
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上宮天満宮(じょうぐう てんまんぐう)(高槻市天神町一丁目)
大宰府天満宮に次いで2番目に古い(創建1050年以上の古社)天満宮と伝えられる。主祭神は、野見宿禰と菅原道真。
・竹の本殿…本殿の外部資材は主に竹が用いられ、平成14年に日本で初めての竹で作った本殿。(*右の写真が竹の本殿)
・広い境内(4万平方m)で、長い参道。→西国街道沿いの参道入口に鳥居が立ち、そこから参道は北に約150m歩程続き、そこから石段を上がっていくと二の鳥居、尚も坂道の参道を進むと、正面に大きな拝殿がある。
2018/09/24のBlog
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・日時:9月20日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:瀧本和成先生(立命館大学教授)
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梶井基次郎の略歴
1901年(明治34年)、大阪市生まれの小説家。「檸檬」「城のある町にて」「闇の絵巻」など20編ほどの短編小説を残し、1932年(昭和7年)31歳の若さ(ほとんど無名のまま)で病死した。
・梶井は、虚無と倦怠にむしばまれた青春を描きながら、みずみずしい感受性や繊細な観察に支えられた独自の作風を展開した。
・梶井は、旧制三高にから東大に進学するまでの4年半を京都で過ごした。(結核と怠学で2度も落第)。
・梶井の命日(3月24日)は、代表作の「檸檬」から「檸檬忌」とよばれる。
・大阪市西区の靭公園内に梶井の文学碑がある。(昭和56年に建立。碑には.「檸檬」の一節が刻まれている)。
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小説「檸檬」
◆作品の初出…1925年(大正14年)、同人雑誌「青空」創刊号に発表。単行本は1931年(昭和6年)、武蔵野書院刊。
冒頭文
「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終おさえつけていた。焦燥といおうか、嫌悪といおうか-酒を飲んだあとに宿酔(ふつかよい)があるように、酒を飲んでいると宿酔に相当した時期がやってくる。…(以下、右の資料を参照)」

作品の概要
「えたいの知れない不吉な塊」を胸に抱いた青年が、京都・二条寺町の八百屋で買った「檸檬」(レモン)で、なんとなく幸せな気持ちになり、日ごろ重苦しく迫る「丸善」の美術書の上にレモンを置き、そのレモンが爆発するのを空想しながら立ち去るという物語である。」
・病気や借金に苦しみ、目的をもつことが出来ない無気力な生活の中にあって、空想という贅沢にふける主人公の心情を描き出した青春文学の秀作。花火やびいどろ(おはじき)へのあこがれ、壊れかかった街への愛着やどこか遠い町をさまよっているかのような錯覚。そうした主人公の心を慰めてくれたのが一個の檸檬であった。五感を刺激する檸檬の存在が、すべての憂鬱を吹き飛ばしてくれる檸檬爆弾の空想へと一気に流れ込んでいくのである。
・青春の倦怠、彷徨をテーマに詩情あふれる筆致で描いた珠玉の短編小説として有名。
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〇「檸檬」に描かれた〈京都〉-「私は」何処から来て、何処に行ったのか-
*作品中の「私」の足取り
(1)その頃、私は友達の下宿を転々として暮らしていた。ある朝、友達が学校へ出てしまったあとの空虚な空気のなかにぽつねんと一人取り残された。
(2)何かが私を追い立てる。そして街から街へ。(中略)二条の方へ寺町を下り、そこの果物屋で足を留めた。(中略)その店には珍しい「檸檬」が出ていたので買物をした。
(3)どこをどう歩いたのだろう。私が最後に立ったのは丸善の前だった。
(4)そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った。→つまり、「私」は三条から四条へと風俗的快楽を味わえる京極通りを下り、五条界隈の遊郭街へと歩をすすめていったのではないかと推測する。(瀧本先生)
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**参考文献**
『京都 歴史・物語のある風景』(瀧本和成 編集)(嵯峨野書院、2015年)
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