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シニア文化塾だより
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2018/09/08のBlog
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・日時:9月6日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:小野恭靖先生(大阪教育大学教授)
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◇『伊勢物語』概説…平安時代初期の歌物語。全125段からなり、ある男の元服から死に至るまでを仮名の文と和歌で作った章段を連ねることによって描く。各章段は、「むかし、男ありけり」と書き出して、その男が歌を読むにいたった経緯を語る小編の歌物語。
◆前回までの復習
・第1回「芥河」(第六段)…むかし、ある男がいた。入内する二条の后に恋して、女を盗み出すことを計画。結局二人の関係は、男が女を連れだした夜、女が鬼に食われたことにより終わりとなる。有名な鬼一口(おにひとくち)と呼ばれる段である。
・第二回「東下り」(第九段)…むかし、ある男がいた。わが身を無用なものと思い、京を離れて東国へと下っていくことになる。男は、道中の三河国の八橋や武蔵国と下総国の間を流れる隅田川などで、京に残してきた女への思いを歌に詠んだり、また、東国の女性とも関係を持つようになる。
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○第三回:第十六段~第三十二段
第十六段「紀の有常」
・むかし、紀有常(きのありつね)という人がいた。三代の天皇に仕え、栄えた時もあった。けれど、時はうつり暮らしは人並み以下になってしまった。有常の人柄は、心が美しく優美なことを好み、他の人とは違っていた。…長年親しく連れ添った妻は、だんだん夫婦の契りも無くなって、ついに尼になり、少し前にやはり尼になった姉のところに行くことになったが、貧しかったので何もしてやれなかった。心苦しく思った有常は、親しい友人に手紙を送り、「こんな事情で、いよいよ妻が去って行きます。それなのに何もしてやれなかった。」と手紙に書いて、その最後に
《和歌》「手を折りて あひ見しことを かぞふれば 十(とを)といひつつ 四(よ)つは経にけり」 (歌訳:指を折って共に暮らした年月を数えてみれば、四十年にもなっていた) (以下、省略)
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第二十二段「千夜を一夜」 (以下、省略)
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第二十三段「筒井筒」(つついづつ)(*右の資料を参照)
・むかし、田舎で行商している人の子供が、井戸のところに出て遊んでいた。大人になったので、男も女も互いに恥ずかしく思うようになったが、男はこの女を妻にしたいと思うし、女は男を夫にと思っていたので、親が他の男をめあわせようとしても、承知しないでいた。そうこうするうちに、この隣の男から、歌を詠んできた。
《和歌》「筒井つの 井筒に.かけし まろがたけ 過ぎにけらし 妹(いも)見ざるまに」(歌意:井筒(井戸の地上部の囲い)で背丈を比べてきたが、あなたを見ないうちに井筒を越すほどに大きく成長したでしょう。もう、大人としてあなたに逢いたい気持ちです。)
女は返しの歌を贈る。
《和歌》「くらべこし ふりわけ髪も 肩すぎぬ 君ならずして たれかあぐべき」
(歌意:あなたとどちらが長いと比べあってきました私の振分け髪も肩を過ぎるほど伸びてしまいました。あなたでなくて、誰が髪上げ(女性の成人式)をしましょうか。)
など歌をやりとりして、もとからの願い通りに結婚した。
・幼い日からの思いを遂げながら、その後、何年か過ぎるうちに、男は河内の国の別の女に思いを寄せるようになった。女は、男を恨むこともなく、その安否を気づかって、「夜半にや君がひとり越ゆらむ」と詠んだのを男は聞いて、とても愛(いと)おしいと思って、河内へあまりゆかなくなった。
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第二十四段「梓弓」 (あずさゆみ)
・むかし、男が片田舎に住んでいた。男は宮中勤めをしに行くといって、女と別れを惜しんで出かけたまま三年帰ってこなかったので、女は待ちくたびれて、心をこめて.求婚してきた人に「今夜逢いましょう」と結婚の約束をした。…そこへ男が帰ってきた。男は「この戸をあけて」と叩いたが、女は開けないで、歌を詠んで男に差し出した。
《和歌》「あらたまの としの三年を 待ちわびて ただ今宵こそ 新枕すれ」(歌意:三年もの間、待ちくたびれて、私はちょうど今夜、新枕を交わすのです。)
この歌を見て、男もくやしくおもったけれども、
《和歌》「あづさ弓 引けど引かねど むかしより 心は君に よりにしものを」(歌意:年月を重ねて、私があなたを愛したように、新しい夫に親しんでくださいよ。)という歌を読んで立ち去ろうとした。
(以下、省略)
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■第三十二段「倭文の苧環」(しづのおだまき) (以下、省略)
・昔、男がいた。かつて情を交わした女に、何年かたってから歌を詠んでおくった。
《和歌》「いにしえの しづのをだまき 繰りかえし 昔を今に なすよしもがな」(歌意:糸巻が繰り返し糸を巻くように、むかしの私たちの愛を再びとりもどしたい。)
この歌を女はどう思ったのだろう。それは女自身しかわからぬことだ。
・この歌は、義経記によれば静御前が若宮八幡宮の神前で、義経の思いをこめて、初句を「しづやしづ」と変えて舞いおさめた伝える。
2018/08/30のBlog
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・日時:8月28日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:天野忠幸先生(天理大学文学部准教授)
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「応仁の乱」の背景
日本の歴史上で、有名な内乱の一つである「応仁の乱」は、室町時代の京都で11年に及んだが、どう始まったのか、何故長引いたのか、勝者は誰なのか?。
①有力守護の争い…細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)の二大勢力の争い。
②将軍家の後継者争い…八代将軍義政は、男子に恵まれなかったので、1464年、弟・義視(よしみ)を後継者。ところが翌年正妻・日野富子との間に、男子が出産(義尚(よしひさ))。義尚を将軍後継者としようとする日野富子が山名を頼る。義視を支持する細川との対立。
③永享の乱(1438~39年)【籤引き将軍義教が鎌倉公方足利持氏を追討】、嘉吉の変(1441年)【播磨の守護赤松満佑が将軍義教を自邸によんで殺した事件】。…守護家の家督争いが原因。幕府と守護の対立。
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畠山義就(よしひろ)の戦い
「応仁の乱」を理解するには、畠山義就を主人公として見ていくと、難解な内乱がいかなる原因で勃発し、どう終結したか、なぜ長期化したか、が理解できる。
室町幕府の仕組み
・将軍(足利家)、管領(三管領-細川・斯波・畠山)、四職(山名 他)、守護・地頭
・幕府の中でも、三菅領(さんかんれい)と四職(ししき)は大きな権力を持っていた。
◇義就-我こそ畠山の主(あるじ)なり。
・1448年父・持国。弟の持富から子の義就(12歳)へ次の統領とする。
・畠山家は、管領になれる家で、守護は河内・紀伊・越中・(山城)、分家は能登。
嶽山城の戦い
*畠山家の家督争い…1460年、細川は、家督と守護職を弟の政長に変更し、義就は将軍の御敵に。
・勝元は大軍で攻める。義就は、嶽山に籠城。細川・山名・北畠・六角・京極らが包囲。→1463年義就は吉野へ没落。
・(注)「嶽山城」(だけやまじょう)…1392年楠木正成が築城した南河内の城。大阪府富田林市彼方の嶽山山頂にあった。
文政の政変(1466年、応仁の乱/半年前)
*山名宗全が義就に同盟を呼びかける。…山名と勝元は、ともに幕府を支えてきたが、山名はこのままではトップになれない。義就という最強を味方につければ、細川政権を転覆させることができる。→義就は5000の兵を率いて上洛。《義就は、ずっと反逆者として幕府から討伐を受ける身であった。地方の武士たちに支持されていたが、京都にいる.大名たちに仲間は一人もいない。初めて、京都の仲間ができた。
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応仁・文明の乱
・1467年(応仁元)5月26日、応仁の乱始まる。細川勝元が室町邸を占拠、将軍義政らを確保。山名方は一条大宮(西陣)に布陣。…応仁の乱が本格化。…それまで中立であった将軍義政が細川方につく。(山名方は反逆者となる)。…京都での激戦で、多くの建物が焼け、死傷者も多数。
・1467年10月3日。劣勢であった山名方は、大内正弘(22歳の若武者、4ヵ国の守護)が宗全の誘いにそって大軍で上洛し、義就の最強の相棒となり、二人の活躍で、戦は振出しに戻る。
・このころから、両方とも陣地を固める。乱は果てしなく続くことになる。(細川方16万、山名方11万)。
・応仁の乱/始まってから5年。…都は荒れはてていた。しかし、終わる気配はなかった。→山名は降参することを考えていた。細川は和睦を前向きに考えていた。(乱が終わると思われた。)
*義就と大内は、和睦に反対。義就は当主の座、大内は幕府内の地位が保証されなければ、5年も戦った甲斐がない!。
・1473年、細川、山名ともに死亡。
・1474年、細川正元と山名政豊が単独講和、形式的には東軍勝利。
・1477年11月、大内政弘は、地位、瀬戸内海の利権を認められ、都を離れる。応仁の乱は終了。
河内王国…義就は何も手に入れられなかった。2000のの兵と再び河内へ。
・畠山義就は、そもそも幕府の命令に従うという発想がない。大乱が始まる前から、幕府の大軍を向こうに回して河内で孤軍奮闘していたのである。彼の本質は、幕府の権威に頼ることなく自力で領土を拡張する独立独歩の姿勢である。→河内国は幕府・将軍に頼らない独立国になり、これは、新たな時代(戦国時代)の先駆けであった。
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**参考文献**
・呉座勇一『応仁の乱』(中公新書、2016年)
・NHK-歴史ヒストリア『応仁の乱』大悪人「畠山儀就」(2017年12月)
2018/08/24のBlog
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シニア文化塾では、教室での学習とともに、歴史・文学・古刹などに関連したウォーキングを行なっています。

*右の写真は、今年、6月16日(土)、「泉南熊野街道を歩く」ウォーキングで、紫陽花の寺で有名な「長慶寺」(泉南市)での集合写真です。
この日は、さわやかな風の吹く晴天で、午前9時にJR和泉砂川駅集合-林昌寺-岡中鎮守の大楠-馬頭観音-熊野街道(信達街道)-往生院-市場稲荷神社-長慶寺-信達本陣角谷家-JR新家駅を散策しました。(約6km)。
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◇「遊歩会」平成30年後期ウォーキング(9月~12月)
*右の資料をご覧ください。
【スケジュール】
・9月28日(金)「高槻の史跡を巡る」
・10月19日(金)「菊薫る葛城山麓を歩く」
・11月16日(金)「奈良北郊京街道を訪ねる」
・12月7日(金)「二条城、晴明神社から護王神社参詣」

【参加者募集】
・参加者は、シニア文化塾の受講生です。
・通常参加費は1000円。(拝観料、食事代がある場合は別記します。)
・歩行距離は、いずれも6キロ前後です。
・(中止の場合)実施日の前日19時前のNHK現地降雨予報で、午前・午後いずれかが50%の場合は中止します。

【問合せ】
・リーダー:佐藤義夫:電話0721-93-7787 携帯:090-1220-5702

2018/08/17のBlog
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受講生の皆様へ
残暑お見舞い申し上げます。

*シニア文化塾(南河内シニア文化塾)は、2010年に設立し、9年目を迎えています。
*受講生は、富田林市、河内長野市、大阪狭山市、河南町、太子町、千早赤阪村、橋本市、羽曳野市、松原市、柏原市、堺市(北区・南区・東区・西区・堺区・美原区)、岸和田市、八尾市、東大阪市、守口市、大阪市(淀川区、生野区)、奈良県(橿原市・香芝市)…から参加です。

◇右上の写真は、今年4月10日(火)の講義風景です。演題は、「三輪山の古代史①-麻糸で結ばれた神と女の物語-」。講師は平林章仁先生。
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◎8月28日(火)から「後期講座」(歴史コース)(8月~1月:全14回講義)が始まります。

・曜日・時間:火曜日、am10時~12時
・会場;すばるホール(会議室3)(富田林市)


*尚「後期講座」(歴史コース)の受講生募集は、定員になりましたので締め切りました。
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◎9月6日(木)から、「後期講座」(文学・文芸コース)(9月~1月:全14回講義)が始まります。

・曜日・時間:木曜日、午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(会議室3)(富田林市)
(注)9月6日、.9月20日の会場は、都合によりカルチャールーム(2階)に変更です。

*尚、「後期講座」(文学・文芸コース)の受講生募集は、定員になりましたので締め切りました。
2018/08/11のBlog
(月日):8月8日(水)am9時(宮島口)
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「宮島・弥山」(右の写真で、赤い大鳥居の背景の山が弥山です。)
厳島(宮島)の最高峰は、弥山(みせん)で535m。古くから信仰の対象になっている。
・806年(大同元年)に弘法大師(空海)が弥山を開基し、真言密教の修験道場となったと伝えられる。
・消えずの霊火…空海が宮島で修業したときに焚かれた護摩の火が、1200年前から消えずに燃え続けている。(広島平和記念公園の平和の火の元火の一つになっている。)
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「 宮島ロープウエー」
ロープウエーで弥山を登る。
・【コース】:紅葉谷公園入口から無料バスでロープウエー「紅葉谷駅」=(約10分)=「かや駅」(のりかえ)=(約4分)=「獅子岩駅」・・・獅子岩駅から山頂までは歩く。往復約1時間。
・ロープウエ-料金:往復1、800円。
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「頂上付近の大きな岩」
頂上付近になるにつれて大きな石は現れる。写真は奇岩「くぐり岩」。
・山頂一帯に見られる巨石群は磐座(いわくら)とみられる。
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「頂上からの眺め」(右の写真で、海を隔てて左側に広島市街。
中央から少し右側に呉市街。江田島も見える。)
・山頂には展望台があり、視界を遮るもののない360°の大パノラマ。見晴らしの良い日には、四国連山まで見渡せる。

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**あとがき**
ともかく、外国人が多い。弥山の頂上に登る時、下る時、出会う外国人に「こんにちわ」と声をかけてみた。ほとんどの外国人が「こんにちわ」「おはよう」「〇×△*(意味不明)」の言葉を返してきました。気持ちの良い登山の日でした。
酷暑お見舞い申し上げます。
(月日):2018年8月6日(月)
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広島に原爆投下されたのは、1945年(昭和20)8月6日午前8時15分。今年は、被爆73年になる。原爆死没者名簿の登載数は、31万4,118名。今年の追加奉納数は5,393名。年々被爆者の数が減少。

「広島平和記念資料館」
資料館は、広島原爆の惨状をを後世に伝えるための施設として、1955年(昭和30)に開館。入場料は、大人200円。(今日は、「原爆の日」なので無料)。
・右上の写真は、資料館にある原爆投下後の壊滅した広島市街地です。
・ぜひ、機会がありましたら、この資料館の見学をお勧めします。
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「原爆ドーム」
右の写真は、2018年8月6日午後4時頃の原爆ドーム周辺です。
・核抑止力を信奉する保有国、その「核の傘」に頼る同盟国と、核軍縮は進まず。・・・昨年、国連で122か国が賛成し、採択された核禁条約。・・・唯一の戦争被爆国の日本は、核兵器禁止条約に反対。今後の動きが注目される。



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**あとがき**
◆7月の西日本豪雨で被災した広島
広島県・海田町は、私(常本)の故郷。墓参りに帰省して、周辺を歩きましたが、思っていたより、大きな被害で、そして、多くの場所で起こっており、異常気象での豪雨の怖さを知りました。今後も、日本の各地で起こりうると思われる。
2018/08/01のBlog
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・日時:7月19日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:吉村稠先生(園田学園女子大学名誉教授)
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**恩田 陸(おんだ りく)「略歴」**
1964年、宮城県生まれ。1992年『六番目の小夜子』でデビュ-。
2005年『夜のピクニック』で第26回吉川英治文学新人賞および第2回本屋大賞を受賞。
2017年、『蜜蜂と遠雷』で第156回直木賞と本屋大賞を受賞。
…著書多数。とてつもない読書量と、とてつもないビール量(ビール党)で知られている。
・右上の写真は、『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎、2017年4月第12刷発行)。
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1.芳ケ江国際ピアノコンクール
小説『蜜蜂と遠雷』の舞台は、架空の地方都市、芳ケ江市。3年毎に開催される国際ピアノコンクールに挑む若手ピアニストたちの成長を描く。
2.登場人物
・「風間塵」…養蜂家の父とともに、各地を転々と支自宅にピアノを持たない少年。天才児-カザマ・ジンから刺激、啓蒙を得る主要人物たち。16歳。
・「栄伝亜夜」…天才少女ピアニストとして、栄光と挫折を経験した。20歳。
・「高倉明石」…音大出身だが、今は楽器店勤務のサラリーマンで、コンクール年長制限ギリギリ。芸術と生活の場からピアノ演奏を目指す。28歳。
・「マサル・C・レヴィ・アナトール」…優れた才能を持つ完璧な演奏技術と音楽性で優勝候補と目される名門ジュリアード音楽院。19歳。
・「その他、数多くの天才たち」が繰り広げる競争という名の自らとの戦い。.
・「審査員」…音楽芸術への多面的刺激、視点を生み出す脇役的人物の魅力。
3. 「第一次予選」「第二次予選」「第三次予選」「本選」という構成
(1)作者恩田陸の音楽芸術への造詣ぶり、取材の努力
・会場の雰囲気の描出…交差する演奏者の意識と聴衆の思惑、表情
・予選一次~三次までの進行とコンテスタント、会場、聴衆の様々な情景
(2)本選
・各コンテスタントの選曲により構成、創出されるピアノによる音楽的世界の魅力。
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**あとがき**
・今回の小説の学びどころ(吉村先生)…①読者を納得、満足させる作品とは=作者の構想、取材、構成、表現力(文章)等の現場を実感させる。②作家の能力、資質について=単なる興味、関心のひけらかしや商業主義に染まった作家意識ではなく、作家が自身への誠実な向き合いの光景を示しうること。
・恩田陸の作品は初めて読みました(常本)。一次、二次、三次予選と様々な情景がなかなか面白い。音楽の知識が深くなくても、まずこの作品を読むことをお勧めします。
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平成30年前期講座(文学・文芸コース)(3月~7月:全12回)は、7月19日で終了しました。
講師の先生並びに受講生の皆様に、厚く御礼申し上げます。
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2018/07/23のBlog
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・日時:7月17日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:森岡秀人先生(奈良県立橿原考古学研究所共同研究員)
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出雲二大発見例の検討
わが国では、他に例を見ない、大量の青銅器が出雲の2箇所から出土した。
◆「神庭荒神谷遺跡」(島根県出雲市)
*右の写真は、荒神谷遺跡の銅鐸・銅矛の出土状況です。
1984年(昭和59)、荒神谷(こうじんだに)遺跡から、大量の青銅器が見つかる。→358本の銅剣が出土。1985年には、同じ場所で銅鐸6個・銅矛16本が発見。
・銅剣358本は、それまでの全国銅剣発見総数310本を上回る。この銅剣は、中細形C類が中心で、弥生中期中頃の出雲生産を前提とする。
・銅剣には×印(344本の茎(なかご))が、鋳造後タガネ状工具で刻まれている。
・複数種の青銅器の合体埋納例は、これまで例の無い発見だった。
◆「加茂岩倉遺跡」(島根県雲南市)
1996年(平成8)、一箇所からの出土例としては、日本最多となる39個の銅鐸が発見。
・荒神谷遺跡から僅か3,4kmしか離れておらず、両遺跡から出土の銅鐸に「×」印の刻印があるところから、古代出雲を研究する上で、手がかりとなっている。
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出雲から塗り替えられた青銅器分布
・これまで、全国で470個の銅鐸が発見されて、その1割を超える銅鐸が出雲に見つかっている。
・神庭荒神谷遺跡では、数多くの銅剣が出土、また銅鐸・銅矛が一緒に出土した例は他にない。
・「神」の字がついた地名に、銅鐸を埋めた場所が多い。…出雲市神庭、神戸市神岡(かみか)、徳島県神宅(かんやけ)、兵庫県神種(こうのおくさ)など。また、周囲に巨石、岩陰、岩倉、磐座(いわくら)。
◇銅鐸で留意すべき注目点
*「入れ子」(大きな銅鐸のなかに小さな銅鐸が入っている状態をいう。加茂岩倉遺跡の銅鐸-入れ子30cm 大19 45cm 大20 (入れ子20組、内鐸1欠落)。
*同汎銅鐸(同じ鋳型で何個つくられたか。兄弟同氾)
*シカ・カメ・トンボ・顔などの絵画。×印12例
*どこで生産されたのか…近畿地方、九州地方、出雲地方など。
*銅鐸はほとんど偶然の機会に発見されている。集落を見おろす山の斜面などからの出土例が多く、意図的に埋められている。
◇青銅器の原料
弥生時代の青銅は、銅と錫の合金を基本とし、それに鉛を加えるのが普通である。
・原材料の入手方法、生産の方法、用途など、いまだに多くの謎に包まれ、解明できない点が多い。
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**あとがき**
〇史上最多の弥生時代の祭祀に使われた銅鐸は、出雲で作ったのか、近畿で作ったのか。いつ、誰が、何のために埋めたのか。
〇古代出雲には、強大な勢力を持つ王国・.地域国家があったのか。出雲地方の青銅器出土事情は、山陰中部世界の核心勢力の求心性と対外交渉の積極性・広域性を物語る。今後の島根県における大きな青銅器発見が予察される。

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平成30年前期講座(歴史コース)(3月~7月:全13回講義)は、7月17日で終了しました。
講師の先生並びに受講生の皆様に厚く御礼申し上げます。
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