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人と物の集まる所に繁栄があります。市はやがて町を形づくるようになり、人と物の集まる「津」や「駅」に常設の店ができるようになりました。

老若男女が列を成して参詣にやってくる大寺院や神社の門前には、当然のように商人が集まってきて見世(みせ)を張りました。これが門前町の始まりです。

見世は、商品を見せることに始まりました。そこで、町通りに面したところに上げ下げできる棚をだして、そこに商品を並べた常設の見世を、「棚(たな)」と呼ぶようになり、後には店(みせ)と棚が同義語として使われるようになりました

常設の店が増えて、商店街を形成するようになったのは、鎌倉時代からのことでしょう。

京都には、いまだに衣棚や魚棚といった地名が生き残っています。

様々な「座」形成の大商人隆盛の時代

中世になると、京の七条の小袖屋や柳酒屋といった大商人がにわかに頭角を現し始めます。

祇園社をバックとする綿座の仲間の中には、三条通、錦小路、七条などに店を構える大商人が目立つようになり、「座」を形成した大商人隆盛の時代でした。

技術集団としては東大寺の鍛冶座や京都の釜座といった座商人が有名ですが、この特権もやがて崩れる日がやってきます。戦国大名が、城下町の繁栄と収入増を図るために、“楽市楽座”を行ったからです。

楽市楽座が果たした役割・・・楽市楽座が促した自由商人の台頭 座商人の没落

楽市楽座とは、つまり自由市自由取引で、座商人でなくては売れなかった商品を、自由に売買してよろしいという、武将の保護による自由取引でした。

織田信長は、この楽市楽座を多いに広め、各大名もこの風潮を助長しました。信長が天下人となってからは、いよいよ自由取引が盛んになり、やがて都にも持ち込まれるようになり、座商人の崩壊を決定付けることになりました。

秀吉による関所の廃止などで商品流通が加速

座商人の没落を待っていたかのように、自由商人が台頭して次の時代の主導権を握りました。海外交易に乗り出した博多や堺の商人は、珍しい異国の品々を都や鎌倉にもたらしました。

南蛮貿易は更紗(さらさ)、羅紗(らしゃ)、金巾(かなきん)、ビロード、パン、金平糖(こんぺいとう)、カステイラ、ボウロ、鉄砲などとともに、洋風の風俗や梅毒まで持ち込んできました。

次に天下人となった豊臣秀吉は、信長の手法をさらに徹底させ、各地の関所を廃止して、商品の持ち出し・持ち込みを無税としました。しかも市場取引の自由化と無税化を実施したため、商品流通が一段と広まり、商人はいよいよ活気付きました。

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