性教育について—愛…涙色

時々思い出したように性教育についての議論が起こることがありますが、その議論を見てみると体や生殖器に関する内容の是非に重点が置かれていて、あまり「愛」に関する教育については触れられません。

 確かに体の成長等とは違って、「愛」とは何かという統一見解がないので、教育の中にいれるのは難しいという点があります。

 「愛」と言ってもこの前のビオタウンのところでも述べたように自然に対する愛もありますし、人に対する愛でも、某首相の言う友愛の様な(若干キリスト教ちっくな)隣人愛的なものもあります。

 愛に関する定義も様々ですが、一応もっともらしい…いや納得しやすそうな例を一つあげると「ある他人(B)の幸せを自分(A)の幸せのように感じ、その他人(B)も自分(A)の幸せを当人(B)の幸せのように感じる、これが愛なんだー!」というものがあります。恐らくこの考え方によると、この精神に基づいて恋愛も性愛も発生する、つまりは全てはこの「愛」の精神がベースとなり、性愛等は大きな「愛」の中の一部となります。

 ではそれならば性教育など部分的なことを大々的にやらずに、「愛」についての教育をまず優先的にやったらいいじゃないか、ということになります。

 ただ先程述べたように愛に関する定義が定まっておらず(逆に個人的には完全に定まってしまうと怖いような気がしますが)、一つの考えを押し付けるのは、教育的、心理的にまずいのなら、「愛」にとは何かについて議論するような教育を行うことも一つの方法でしょう。それと同時平行して性教育も行えば良いのではないでしょうか(バイオロジーの一環としてやるのも面白そうです)。

 一方、「実際の恋愛で性と愛を分けることは難しい、従って肉体的な『性』と精神的な『愛』を分けて教育するのはいかがなものか」、といった反論もあるかと思います。

 これもある程度説得力がある意見ですので、それを踏まえて、恋愛の精神的な部分と肉体的(性的)な部分を違ったもの、相反するものとして分けるのではなく、恋愛に関しては幾つかの重要な要素が相互に作用しあっているという図式でとらえるという方法もあります。

 例としては、精神的な「愛」、性的な欲求、自己承認の欲求等々、恋愛を総合的に見て、そして個別に詳しく(諸説等を)説明し、議論を促していく。物議を醸しがちな性交や性器についての説明等は性的な欲求の中で説明していけば良いのではないでしょうか。

その一方自分の中には、「愛」に関してあれこれ説明出来るものなのか、いやそれ以前にしてもよいものなのか、という(ロマンチスト的な)疑問もあります。従って教育の範囲では必要最低限な知識を教え、考えさせるという程度に抑えて、後は本人の良心と自由意思(これを育むための教育は別途行って)に任せるという感じで良いんじゃないかと思います。

 余談ですが、ある飲み会で格差について論じ、その中で恋愛格差について半分ネタっぽく、
「そもそも恋愛なんて数値化出来るものじゃないのに、何をもって格差というのか」
 と述べたところ、そこにいた若い女性に、
「その考え方は高校生までよ」
 とツッコミをいれられました。まあ確かに高校生になる前に日本から離れたので、ここではまだ高校生扱いでしょうが(んなこたーない)。

 冗談はさておいてこの恋愛格差については、就労問題、少子化、そして何より幸福度に関連するところも大きく、個人的にはかなり深刻で、“格差問題”の中でももっと重要視されてもよいのではないかと認識しています。またこれもとりあげたいとは思いますが、心理的にも結構ヘビーなテーマとなりそうです。

 さて今回は性教育から「愛」についても少し見ていきましたが、私自身はいわゆる耐え忍ぶ恋というのも「愛」の一つに加えてもいいじゃないか、と思うところがあります。例え相手と両想いにならずとも、誰かを大切に想う心自体が尊い、という考え方もこれからの時代見直されるかもしれません。

 某首相による性教育ならぬ友愛教育構想(あるのか?)にも多少期待しますが、日本古来(マジで?鍋島藩だけじゃね?)の葉隠的純愛教育構想、或いは、世に生を受けるもの全てを尊重する八百万愛教育(こちらは結構日本古来っぽい)教育なんてのも、温故知新でオリジナリティーもありなかなか面白そうです。