教育についてーつれづれなるままに… *1*

前に「大阪ペンギン」さんより大変示唆に富んだコメントを頂きました。このブログも私がただダベっているだけでは華がなく、様々な方の意見を取り上げていければと思いますので、ぜひ意見や批判、問題提起等を気楽にコメントしていただければこれ幸いです。基本的にコメントを引用するときは本人の了解を得た上で掲載していきたいと思います(もし音信不通の場合はその度に判断します)。参加型のような形でわいわい楽しく、時に真面目で真剣に、激しくやっていくのも面白いんでないかな(!?(‾□‾;) どこの方言…)。
お待ちしております。

 大阪ペンギンさんのコメントの一部:『…現在進行中のいわゆるエリート教育の復活、学校間格差の拡大に非常に懸念を抱いています。個々人にあった教育という「美名」の下に、スタート時から教育内容に差がつけられているのではないでしょうか?例え不登校が解消したとしても、戻ってくる中学なり高校のレベルがバラバラであれば、社会の普遍的なルールを教える(例えば標準語=共通語という日本語を理解する等)ことさえ不可能になってくるのではないでしょうか?僕の言った例は余りにも極端すぎるかもしれませんが、皆がある程度の共通した教養を持つことは、それが強制であったとしても非常に大切なことだと思う次第です。』

 このペンギンさんのコメントが投げかけているのは、大きく分けて①基本的な教育とは何かという問題、と②格差の問題、についてだと思います。

 この問題の問題に密接に関わっている個所がコメントの中にあります。それは、「…例え不登校が解消したとしても、戻ってくる中学なり高校のレベルがバラバラであれば、社会の普遍的なルールを教える(例えば標準語=共通語という日本語を理解する等)ことさえ不可能になってくるのではないでしょうか?」という部分です。これは、学校を含めた子供の居場所と学ぶ場所のオプションの多様性の問題、とそれを選択する際に影響する経済格差等の問題、が示唆されているものと思えます。

 まず私なりにこの文を意訳させていただくと、「例え気持ちが落ち着き、行動をするくらいのエネルギーが回復したとしても、(オプションの一つとして)選べる学校という教育機関が(親の経済基盤やその時の子供の“学力“、その他の事情によって)バラバラであれば、“基本的な教育”を受ける機会が不平等になる、若しくは受けられたとしてもその“レベル”に偏りが出来るのではないか」という問題提起をされているのではないかと思います。

 私個人としては、全ての不登校のケースが学校に行くことで問題が解決するという見方はとっていません。もちろんペンギンさんはそれを踏まえて、ただもし学校(同じ所にしろ違う所にしろ)に戻りたいという意思のある子供を受け入れる学校の程度にバラツキが出るのではないかと危惧されているのだと思います。

 マクロの視点で見れば、どのような状況の子供でもペンギンさんの言う「社会の普遍的なルール」をしっかりと教える教育機関に入れるような仕組みを作ることが大事だということになります。ただその前にやっておかないといけないことが一つあります。それは「社会の普遍的なルール」の定義付けとその合意形成です。

 これは個々人や社会全体が社会に対しどういうイメージを持っているのか、どのようにして経済が成りたっているのか、何を大事にしているのか等、どういう社会のアイデンティティーを持っているのかに関わってきますが、特に若年者に対しての教育においてはどういう社会にしていきたいのかという、社会全体の意思に影響されます。

 ただ皆それぞれ違う個性や考え方を持っている(という共通前提を持っている)ので、普遍的なルールについて全員の合意を得るのは難しい。そこでこれくらいは持っていないといけないだろうと位置付けられている(ものの一つ)のが、「基礎学力」です。ただこれについても個々人の間に認識のばらつきがありそうです。

 では次回はさらに教育についてさらに深く突っ込んでいき、①の基本的な教育とは、についても考えていきたいと思います。