不登校について—「不登校再考」の講義より *あとがき*

今回は10月14日にあった『不登校再考ー「学校と家庭の関係」を見直すー』という講義を聞き、それをきっかけにこの連載を書き始めました。そこで感じたことやメモをとったことを使い、それに自分の分析や意見などを加えて書いた故に、当然ながら元の講義の内容と私の文の内容は誤差があると思いますので、その点はご了承いただきたいと思います。

 ではなぜそういう形式で書いたかというと、この「不登校」というテーマについて語ろうとすると、このテーマは様々な要因が複雑に関連しており、またそれをどの立場でどのように語るかで全く内容も変わるので、いきなり「不登校とはこういうものである」という風にまず全体を抑える書き方をせずに、一つずつ穴を埋めていくようにこのテーマを扱っていくためです。今回はこういう視点で書きましたが、また違う視点や論点で書いてゆき、そして書いたものをまたその後に深く突っ込んでいくという作業を続けていきます。

 基本的には物事を断定したり、決めつけたりするのではなく、なるべく幅広い視点で見ていくことを心がけるようにしています。もちろん様々な推論を立て一定の結論は出ることもありますが、それもまた論議の対象となります。自分の考えや意見というものはありますが、排他的な態度を取らずに、全く異なる考えや意見にも類似点や相違点を見ていき、より発展的な議論をしていきたいと思っています。

 不登校に関しては生まれつきのものが主原因ではなく、周りの環境や社会的な要因が関連しあって、生まれつきの(生得的)もの(性別、体格、性格など)もそれらと互いに影響しあっておこる現象だ、との考えを持っています。他の社会現象(例えば差別や格差等)もそうやって発生するものだとの認識です。従って「不登校」というのは特殊な現象でなく、社会的に見てそれなりの必然性を持った出来事であるという見方を持っています。

 ただ一方、原因が何にしろ傷ついている人に対しては、まず理屈よりもしっかりと寄り添って、その思いをしっかりと聴くということが何よりも重要であると思っています。皆それぞれ違った個性や経験を持っているのだから、社会がどうあれ一人一人のアイデンティティを尊重することは大切です。

 皆がお互いに尊敬の念を持ち、思いやりの気持ちを持った社会であればいいのにという思いはかなり前から持っており、今もそう思っています。しかしそのためには社会の個々の現象がなぜ起こったのかという分析も、同時に行う必要があると感じています。

 何事においても道は険しくてどんなに苦しくても、どこかに必ず希望はあるものだとも信じています。別に大した根拠はありませんし、常に絶望と隣り合わせでありますが。常に謙虚な気持ちを持って、己を奮い立たせて前に進んでいく他はありません。

 最初の記事にも書きましたが今回は、子供が学校に行く意義を感じられなくなった、ではそれはなぜなのか?という問いを、社会状況の変化と歴史的背景をもとに探ってきました。基本的には子供(学生)の側に立って、社会の変化にどういった影響を与えてきたか書いてきており、親やその他の大人たちの意識や心理の変化の考察は今回不十分だったので、それもまた他の機会に考察してみたいと思います。また一人一人の思いや私自身の考え、対策や対処法といったものも今回主軸にはおかなかったので、これもまたおいおいやっていきます。とにかくまだ始めたところなので、書いていてもツッコミどころはたくさんあり、いろいろと検証し、さらに深く考察して付け加えなければいけないと思うところは多々ありましたが、一つ一つ積み上げていきたいと思います。

 今回の連載では、他の不登校関係の文に多く見られるようないわゆるメッセージ性はあまりありませんでしたが、あえて挙げるとすれば…
 
 私や他の多くの人もそうかもしれないが、どうしても絶望したり元気を失っていたりすると、問題の原因を自分自身や周りの近くの人や物に置きがちになる。それもまた一つの見方で、真実の中の一つかもしれないが、今自分の周りで起こっていることは決して自分だけのせいではなくて、社会的なものも大きく関わっていて、同じような考えを持って同じような気持ちで日々過ごしている人も多くいるかもしれないよ。
 
 …みたいなものかもしれません。これは不登校関係者だけではなく、老若男女全ての人に向けたものです。私自身も皆と同じように日々闇の中でもがきながら、何かを探している一人の弱い不器用な人間なのだと思います。

fin