「四十にて惑わず」

孔子の御言葉・・・

十有五にして学に志す。

三十にして立つ。

四十にして惑わず。

五十にして天命を知る。

六十にして耳順がう。

七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。

・・・「四十にて惑わず」の前、、、

私は今39歳。未だあれこれ迷ってマス((^^;)笑)。

だけど、29歳や19歳の時に比べたら、

随分己自身の精神が安定して来て、

他者・外部環境に影響を受けにくくなり、

また内部環境に関しても自律出来るようになり、

迷わなくなりました♪

おかげさまで日々、

“あるがまま&なすがまま”に暮らせております(^人^)☆

【縁なき修業(=人生)はない】

縁があるからこそ、私は“お四国”に呼ばれる。

呼ばれるから、私は参る。

ただ、それだけのことです。

「何回も行ってどんなメリットがあるの?」

「他にすることがあるのでは?」

「若いのにまだ早い」

「今すべきことをほっといて“信仰”に逃げているのでは?」

とまぁー、一回もお四国に行ったことのないごく一部の方々に、

いろいろと言われ続けております(笑)。

確かに一理あるかとも思いますが、

本筋として今の私には当てはまりません。

何故かと申しますと

【人間の思惟を越えた“縁”というものがなければ

“お四国”は行けないようになっている】からです。

この娑婆は『多』の次元で、多種多様なものが

対立するように出来ていますので、

存在する人間の数だけ価値観・物事の捉え方 ・判断基準があり、

そして【人生そのもの】があります。

自らの選択や人生そのものが、いいのか悪いのか ・・・

他の人が判断するのではなく、

その人自らが選択し決め、実践実行するものであり、

所謂“あの世”の『一』の存在・・・

つまり神仏に例えられる【絶対的存在】が

善か悪かの判断を下すのであります。

自らが下したその判断並びに言動が正しければ

【一の存在】の支援を“陰”に受けて、

その人の周りの境遇や環境、

人間がその人を助けるために動き、

追い風となってスムーズに物事が運んで行く。

間違っていれば【苦難】という形で、

更にハイレベルな様々なトラブルが起こって来て、

その人の間違いを正しにかかる。

ただそれだけのことですので、実は

我々の生きるこの娑婆は意外とシンプルに出来ているようです。

以上のように実際は至ってシンプルに出来ているにもかかわらず、

難しく難題にしているのは我々人間自身のようです。

我々が持つ煩悩〜我が儘〜のせいです。

大概の人間はその事実すら気づかず、

煩悩に溺れ自滅しながら死んで逝き、

地獄行き・・・死んでから更なる苦しみが待っているようです。

人間は騙せますし勝手&我が儘なことも

ある程度は許してくれますが、

【一の存在】は全てお見通しで、

一切の妥協がなく、徹底的にやられます。

一方、少しマシなパターン(人生)は、

そのことを分かりつつも煩悩(我が儘な心)を手放すことが出来ず、

神仏と煩悩まみれの人間との間を魂がフラフラと行き来し、

常に【葛藤】という種類の苦しみを味わいながら死んで逝くパターンです。

これもまた煩悩により人生を不幸にし、

自滅するパターンのようです。

・・・私は「お四国参りをし続けるという【娑婆修業】を通して、

自らの人生のあるべき姿を着実に掴んで行き、

より実りある人生を実践する」と決意し、

自ら稼いだお金を使い、自らの時間をやりくりをしてお参りしています。

自らのお参りし続けたいと思う気持ち【念】と

お四国“お大師さん”の【念】が合致しているからこそ、

私はいつも予定通り、スムーズにお参りすることが出来ています。

【一の存在(お大師さん)】から「もうお参りはやめなさい」と

お四国からはじき飛ばされるまで私は、

自らのペースでお参りをやり続けると決めました。

その今の39歳の私の決意の証として

私は自らの【公認先達】のご推薦を頂いた、

64番前神寺に燈明台を3月20日・春分の日に寄進し、

自らの氏名と先達というお大師さんから

与えられた肩書きを刻むことに致しました。

・・・「肚を決める」「心を定める」ということの

重要性を今、ひしひしと感じています。

自らを決める・定めると、 目的地・ゴールが明確に分かり、

どこにどのように歩むくべきか?今何もをすべきなのか?など、

各種苦難の中、暗中模索しながらもだんだんと、

自らの進むべき道が観得て来る。。。

苦難は自らの肚、決意 心の試練であり、

【試されている】のであります。

やるか?やらないか?

迷っている間は何も観得て来ません。

常に闇や霧の中にいるようなものです。

自らの決断力のなさが、

自らの心に闇や霧を生じさせて、

自らを迷わせているのです。

決して社会や時代、他人のせいで見えなくなっている訳ではなく・・・

自分以外の他者のせいにすればする程に、

自らが観得なくなり、人生の路頭に迷わせているのです。

やると決めた瞬間・・・

つまり、やらないという選択を捨てた時、

『どうすれば目的地に達するのか?』のみを問い、

追い求めるようになる。

後はゴール(結実成就)するまで、

その道をひたすら真っ直ぐ歩き続けるのみであります。

となると物事はやはり、やるかorやらないか・・・

【自らの心の定め方、肚の決め具合】によって、

別れ道が出来て全てが決まって来るようです。

・・・ということで、のこり1年弱で、

40代の『惑わずの境地』を、得たいと思います(^0^)☆