●平成27年5月 四国遍路体験報告 後編 〜ある種の“宿命”〜

今回・・・5月23日〜24日と、

ある種の『成り行き』でたまたま行きました、

今回の団体&乗り物遍路行ですが、

詳しくは記しませんが・・・

私は、今回の行で

『私は一生、四国遍路をし続ける宿命に在る』

ということに、ようやく気がつきました・・・

といいますか、悟りました。

私がいくら嫌だ・面倒くさい、しんどい!と

感情で思ってはみても、既に『そうなっている』ので、

私個人がどうあがいても、どうしようもありません。

これも『“お大師さん”のお導き』つまり『天命』・・・

私は今、肚をくくり、覚悟を決めました。

ほんと、『くるくると回されている』という

ある種の自らの思惟を越えるところで、

何か“大きな存在”から、突き動かされているという感じが

めちゃくちゃしております。

四国遍路に縁の無い人は、

四国遍路(それに関わる方々等)から必要とされないし、

四国遍路に行くために必要な全ての条件

(①行きたいと願う心(願力)、

②行けるだけの体力、③資金力、そして④時間)が

揃うことは永遠にないようです。

私は必要とされているし、行ける条件が全て揃っています。

つまり逆に『行かない(行けない)理由』が無いのです。

しかもまたフツフツ・・・と

『一人でまた歩き遍路がしたい』と

真剣に思い始めてます(苦笑)。

正直困りました・・・(^^;)

あれだけコリたはずやのに・・・

時間もお金も体力もめちゃくちゃかかるのに・・。

とにかくステキに困りました(笑)。

孔子の言葉に・・・

子曰く、吾十有五にして学に志す、

三十にして立つ、

四十にして惑わず、

五十にして天命を知る、

六十にして耳順う、

七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず

・・・というものがありますが、

私は早く「四十にして惑わず」の境地を得、

そして五十まで・なるべく早く「天命」を知り、

そこに一点集中したいと真剣に願っています。

私はせっかちですので、50歳まで待てません(笑)。

早く天命を知りたい・・・

つまり、天寿を全うするその『目的』を早く知って、

残りの人生をそっちに没頭したいです。

ですので、四国遍路のような荒行に投身したり、

この世に数名おられる我が人生の師匠に

心身を寄せて、真剣に相談させて頂いたりしております。

ほんと今の私の心って(人様に比べればまだ大きめですが・笑)

小さな箱に閉じ込められている・・・窮屈な感じがしています。

ま、結局自分の手で小さな箱に入っている訳ですが。。。

ご縁ありまして四国遍路と出合い、

その行等によって、この8年もの間

いろいろなものを得、そして捨てて来ました。

それは物質であったり、感情であったり、境遇であったりします。

最も捨てることを意識したのは、「執着(こだわり)」でしょうか。

その究極は「命(生)への執着」でしょうか?

人間にとって、最も重要なものは、

お金(物質)でも、他者(人間関係)でも

ありとあらゆる出来事(境遇)でもありません。

己自身の『命』であります。

命がある・生きているからこそ、

お金が使えるのであり、いろんな人と出会えるのであり、

いろんな出来事を体験することが出来るのです。

命がなければ、全て無意味・・・「無」であります。

私は、この四国での歩き遍路で

数回、死にかけました。

正に、『一度死に逝く』という

白装束(いつでも葬式が出来る衣装)に

込められた境地(覚悟)であります。

その体験のおかげさまにより、

「死」というものを始めて心の底から意識し、

『命』というものは、実は儚いもので、

この娑婆の世界に産み落とされた人間(生物)は必ず

我がこの命を天に還す・・・つまり死ぬんやということに気づいた・・・

その境地が、うっすらと観得たのです。

命があることが、当たり前・・・

特に私たち若者は、今ここで生きている

生かされていることに、どっぷり漬かり過ぎ

「当たり前だ。命は永遠に続く」という錯覚・幻想に陥り、

更に、目の前の取った・取られた、多い・少ない・・・

はたまた儚い快楽(目先の利益・幸福)に執着しすぎです。

その執着により結局、自分自身を不幸へと陥れているということに

全くもって気づいていないのです。なんと哀れなのでしょう!

そして、いざ死ぬ時になると、心の覚悟が出来ていない為に、

悲惨な死に様で、死んで逝くのです。

信じる・信じないかは人それぞれで、

読者の方々に判断を委ねますが、

死んで身体が無くなっても、

自らの魂と、その魂の中にある「念」は遺ります。

その「念」というものの中に、

死んだ瞬間の自分の感情と罪&徳が遺ってしまうのです。

死ぬ瞬間に誰かに対する恨みや懺悔、心配・・・

何かに対する後悔・・・いいこともわるいことも全て遺ってしまいます。

例えば、何かの辛苦に逃れたいからといって自殺したとしても、

その辛苦を魂の中に持って、あの世に行かなければならないのです。

その人は、あの世に行っても永遠にそんな辛苦の念に苦しみ続ける・・・

死んでもその辛苦から逃れられないのです。

まさに地獄・・・

生身の身体で持って、人生修行を通して

自分の手でその辛苦を超尅するしかないのです。

しかも死んでしまうと、身体を持っていないので、

修行をして徳積みや消罪が出来ません。

従って、生きている人(子孫・縁者)に『供養』という形で求めて来て、

子孫の健全な生成発展の足を引っ張ったり、

子孫に頼れない場合は、同じような辛苦を抱える生きている人や

所謂「霊媒体質」の人に憑いたりして、助けや同情を求めて来るようです。

ですので、「自殺」というのは、生物界において、

人間だけが起こす、もっとも哀れで、そして最大の罪のようです。

私は、人生最期にその人その人の

『生き様全て』が出てくると観ています。

実際、人様のお葬式の時や臨終の時を

何回か体験させて頂きましたが、

全くその通りだと確信いたしました。

「終わりよければ全てよし」

そんな諺がありますが、私もそう思っています。

人生最期の時になって、

「苦しい、苦しい、死にたくない!」と

人間の力ではどうしようもない天の力に抗ってもがき苦しんだり、

「あれをやっておけば良かった、

あんなこと、やらなければ良かった!」と

後悔や懺悔の念を持って逝きたくないです。

私は、いつ終焉を迎えるかは分かりませんが、

自分が与えられた天寿を全うし、

そして死期が来れば、「我が人生に悔いなし」と

その死期を一番幸せだと感じ、潔く笑顔で逝きたいです。

つまり、死ぬ瞬間が最も幸福だという境地です。

私はまだまだそんな境地には達することが出来ません。

死ぬことは怖いですし、

正直、死にたくありません。

早く、死ぬことを「自然の流れだ」とありのままの心で

歓迎出来る境地に達したいです。

だけど、「いつかは死ぬのだ」ということは

常に意識しております。

『朝には紅顔ありて、夕(ゆう)には白骨となれる身なり』

です。

この死(即ち、生)に対するお手本は、

現時点ではこの世(身近)では見つけておりません。

そこで私は、お手本に出来そうな人を

歴史的人物(過去に生きていた人)に見出すことにいたしました。

そこで見つけたのが、

「広瀬武夫(1868〜1904)」です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%80%AC%E6%AD%A6%E5%A4%AB

日露戦争時、海軍で活躍された方であります。

来月、我が師匠の一人に会うべく、

熊本・阿蘇に参りますので、

その通り道に、広瀬武夫の出身地・大分県竹田市がありますので、

広瀬武夫氏についてあれこれ調べ、そして感じて

見聞を深めて参りたいと意気込んでおります。

・・・おかげさまで、ここ数年で随分と身辺整理をし、

あらゆる不必要なもの(物、感情、人間、時間)を

捨てて参りましたが、

とにかく、40歳になるまでの残り2年弱で、

更なるスリム化を成し遂げたいと決めております。

40歳以降は

『選択と集中を凡人徹底&終始一貫にやり続け、天寿を全うする』

という、更に悪い無駄(不必要な余計な回り道)なき

人生を歩んで参りたいと考えております。

その為には己自身の心身を更に錬磨し、

ぶれない強い自分(貫き通す力)を確立させなければならず、

と同時にどんな人や境遇とも自分の心と調和出来る、

しやなかな心(すなおな心。許し切る心)を持ち続けなければなりません。

今の自分の有様と、

上記の40歳以降の自分の理想の(あるべき)姿との雲泥の差に、

かなり愕然としておりますが(涙)、

この残り2年弱の時間の中で、曲がりなりにも一所懸命精進し、

その「あるべき自分・なりたい自分」に

少しでも近づいて参りたいと思っています。

ということで、また時間を作って、

ちょこちょこと四国遍路に参りたいと思いま〜す(^^)♪

追記・・・

司馬遼太郎さんの『空海の風景』。

3回目の読書中です。

これを買った9年前は、さっぱり意味不明でしたが(笑)、

だんだんと司馬ワールドの凄さ、面白さが観えて参りました。。。(ー人ー)☆