チャチャ入れマンディーという番組で大阪弁を面白おかしく取り上げていた。
その中「ごまめ」は「大目に見られる幼い子」と解説されていた。
すごく、耳障りの良い言葉で語られているが、違う意味の方がよく使われる。

「ごまめ」とは「対等に扱わない者」と上から見下した言葉である
だから【ごまめの歯ぎしり】と言う言葉がある。

【ごまめ】にされた者は、いくら頑張っても結果も評価も上の立場の者のものとされ、失敗した時の言い訳に使われる。
面白いものを見つけると横取りされるか、つぶされて放り出されて泣かされる。
尻尾を振るように懐いて、動かされている時は気付かないが、対等に扱われていない事に気付いて文句を言うと、扱いは雑になるし、抜けたらやりたいことは出来ないし、独りぼっちになってしまう。
上の立場の者は、「ごまめ」がいなくても痛くもかゆくもないのである。
ただただ悔しい。

年齢や規模ではなく、上や周りの人の一方的な見方である。
仲間のつもりで動いていても、便利遣いや道具扱いされているだけで、本気で仲間扱いはしてもらえていないのである。
対等に扱われたくて筋を通そうとすると、周りはそのことさえ気付かずに「ごまめのくせに生意気」と一層ごまめ扱いしていくのである。
どれだけ悔しいか。

頑張って、頑張って「私が頑張ったの!」と訴えるしかない。
大きな周りに認めてもらえると、なんとか「ごまめ」から抜け出せるかもしれないが、良くも悪くも「ごまめ」扱いをしていた仲間を一度に無くしてしまう。
「ごまめ」時代が長いと、本当の仲間のつくり方や付き合い方を学ぶ時間が無くなってしまう。

高齢者が増え、幼い子の定義がどの辺になるのかが分かりませんが、「大目に見られる幼い子」が、大きな子の中で同じように切磋琢磨でき、失敗しても温かい目で見守られながら成長できますようにと、心より願います。

昔の言葉が、生き生きと子供を育んでいた時代から、今の見えない【いじめ】の対象にされる子供が、世間からの「ごまめ」になりませんよう、にと思い願い書き込みました。

大きな子も小さな子も混じって教えあえた「親子で作ろう!エコ料理教室」のなか参加してくれた子供たちのように
対等にお互いを扱い仲良くしてほしいと思います。