「御堂関白藤原道長の時代」

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・日時:平成31年1月15日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:若井敏明先生(関西大学非常勤講師)
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**藤原道長の時代(((略歴)**
・966年、藤原兼家の五男として生まれる。。
・長徳元年(995年):伊周との抗争に勝ち、内覧となって、政権の座に就いた。
・長保元年(999年):長女・彰子を一条天皇に入内。立后(1000年)。
・寛弘四年(1007年):金峰山参詣(浄土教を信仰)、経筒を奉納。
・寛弘五年(1008年):彰子、敦成親王を御産。(即位して後一条天皇になる)
・寛弘六年(1009年):彰子、敦良親王を御産。(即位して後朱雀天皇になる)
・長和四年(1015年):道長、三条天皇との対立。
・長和五年(1016年):後一条天皇即位。道長、摂政に就任。翌年、息子・頼道にその地位を譲る(道長は、外戚として栄華を極める)。
・寛仁三年(1019年):出家し、晩年(1022年)この世の浄土とも称せられる法成寺を建立。
・万寿四年(1027年):逝去。享年62歳。

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道隆の死去と道兼の七日関白(*右の略系図を参照)
・藤原道長(966〜1027年)の時代は、摂関職が常置になり、藤原氏の氏長者が世襲するようになると、摂関職をめぐって一族の争いが激しくなる。
・道長は、父兼家の五男として生まれ、兄に道隆、道兼などがおり、さほど栄華を極めるに至るとは考えていなかった。→ところが、長徳元年(995年)4月、関白道隆が疫病で倒れ、後の関白道兼も在職七日にして薨去(七日関白)。
・道兼の跡目をめぐり、内大臣藤原伊周(これちか)と権大納言・道長(30歳)との間で争い。
藤原道長の登場
**長徳元年(995年)5月には、道長に内覧宣旨が下され、6月には右大臣となり、伊周を超える。
・(注)『大鏡』によれば、、道長には、姉で一条天皇の生母の東三.条院詮子(せんし)の支援。→藤原伊周の失脚(996年)。

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藤原氏の栄華
・王権をめぐる姻戚関係を藤原氏が支配する。
・娘を天皇もしくは皇太子に嫁がせ、そこに生まれた皇子が天皇になったときに、みずからは摂政もしくは関白となって、天皇を後見して.政治を主宰した。
・道長の長女・彰子は、一条天皇の中宮として、後一条・後朱雀を産み、次女・妍子は三条天皇の中宮、三女・威子は後一条の中宮となり、一家三后となる。.

望月の歌(*右の資料を参照)
道長は三女威子が後一条天皇に.入内する際、邸宅に公卿を集めて祝宴を催した。その時に詠んだ歌が有名な望月(もちづき)の歌。道長が喜びのあまり詠んだ歌。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の欠けたることも 無しと思へば」
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**あとがき**
・内覧とは、正式に関白を補任できない.場合などに、臨時に天皇の宣旨によって付与される職能。天皇へ奏上する文書と天皇から下さる文章をあらかじめ見ることで職掌とする関白に準じる官職。・・・道長が藤原氏のリーダー(氏長者)になったのは、「内覧」となった995年(長徳元年)。道長は、娘たちを次々に天皇に嫁がせる。娘が男の子を産めば次の天皇となり、自分は外戚として摂政・関白で政治を行なえる。…しかし、道長の息子・頼道も父の真似をしたが、娘たちが男の子を産まなかった。そのため、次第に藤原氏と親戚関係にない天皇が登場し、存在感が薄くなる。
・御堂関白日記…道長の日記。長徳四年(998年)33歳から寛仁五年(1021年)56歳までのものが知られている。この期間は、道長の全盛期に相当し、貴重な史料となっている。
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平成30年後期講座(歴史コース)(8月〜1月)は、平成31年1月15日で終了しました。
講師の先生並びに受講生の皆様に厚く御礼申し上げます。
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