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シニア文化塾だより
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2018/10/12のBlog
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・日時:10月9日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:白石太一郎先生(大阪府立近つ飛鳥博物館 名誉館長)
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○「6基の初期倭国王墓
奈良盆地の東南部のやまとの地には、初期のヤマト政権の盟主(初期の倭国王)の墓と想定される大規模な前方後円墳が営まれている。
①箸墓古墳→②西殿塚古墳→③外山茶臼山古墳→④メスリ山古墳→⑤行燈山古墳→⑥渋谷向山古墳。…の順に造営されたと考えられる。
◆(1)箸墓古墳と西殿塚古墳
・《箸墓古墳:桜井市、箸中古墳群。三輪山の西の麓》-最初の王墓と考えられる箸墓(はしはか)は、墳丘長280mの巨大な前方後円墳。この古墳から、弥生時代末期の吉備の首長墓に立てられた特殊壺・特殊器台の流れをひく特殊壺形埴輪、特殊器台形埴輪が出土しており、3世紀中葉過ぎの古墳と考えられる。『日本書紀』は、三輪山の神オオモノヌシに仕えあた巫女の、ヤマトトトヒモモソヒメの墓と伝えている。⇒被葬者:三輪山の麓に営まれた箸墓古墳が、卑弥呼の墓である可能性はきわめて大きい。
・《西殿塚古墳:大和古墳群)二代目の王墓とされる西殿塚(にしとのづか)は.、墳丘長240mの前方後円墳で、箸墓古墳のものよりは新しい吉備型の特殊器台形埴輪が出土しており、3世紀後半の古墳であることが知られる。⇒被葬者:箸墓を卑弥呼の墓と考えて良いとすると、それに次ぐ2代目の王墓として卑弥呼の後継者である台与(とよ)の墓である可能性が高い。この古墳では、後円部と前方部に同型同大の方形壇が存在する。一方が宗教的・呪術的の王の台与であり、もう一方が、男兄弟での政治的・軍事的の王である可能性が大きい。
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◆(2)外山茶臼山古墳とメスリ山古墳
・三代目の外山茶臼山古墳(とび ちゃうすやま)は、墳丘長200mの前方後円墳。四代目のメスリ山古墳は、墳丘長240mの前方後円墳で、ともに中心的な埋葬施設は後円部の竪穴式石室一基だけ。この二つの王墓は、すでに盗掘されていましたが、それでも多数の副葬品や多量の武器・武具とともに、腕輪形石製品などが出土。⇒被葬者:おそらく、三代目、四代目の倭国王は男性で、政治的・軍事的王権と、宗教的・呪術的王権をかねて備えていたと想定される。
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◆(3)行燈山古墳と渋谷向山古墳
・五代目の行燈山(あんどんやま)古墳は、墳丘長240mの前方後円墳、六代目の渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳は、墳丘長310mという古墳時代前期では列島最大の前方後円墳である。
・両古墳とも未調査で、埋葬施設や副葬品は不明。ただ、埴輪の様式などから、行燈山が4世紀前半、渋谷向山が4世紀中頃の造営と想定される。⇒被葬者:行燈山は崇神陵、渋谷向山は景行陵を宮内庁は比定。両古墳の比定が合っている蓋然性は大きいと思われる。
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初期ヤマト政権形成時の倭国王の実像
・卑弥呼の晩年に西方の邪馬台国連合と東の狗奴国連合が合体して日本列島の中央部に初めて一つの政治的まとまりができる。これが初期ヤマト政権にほかならない。
・古墳出現の前提となる広域の政治連合の成立が、3世紀初頭の邪馬台国連合の成立にほかならないとすると、古墳の成立自体は、半世紀ほど後の出来事になる。
・定型化した画一的内容を持つ「前方後円墳」の創出は、新しい政治連合の政治秩序、政治体制の整備の一環と考えられる(共通の葬送儀礼を執り行い、共通の首長墓を営むことが、政治的連合関係の維持・確認に有効である)。
・最初の倭国王墓である箸墓が卑弥呼の墓である蓋然性が高いことを重視すると、倭国王、すなわちヤマト政権の盟主の王統が、卑弥呼に始まる可能性は少なくない。
・オオヤマト古墳群では、渋谷向山古墳以降の王墓はみられない。王墓の造営地は、その後曽布の佐紀古墳群、さらに4世紀末葉以降は大阪平野南部の古市古墳群、百舌鳥古墳群へ移動する。
2018/10/08のBlog
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・日時:10月4日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:浅尾広良先生(大阪大谷大学教授)
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○国宝『源氏物語絵巻』について
「源氏物語絵巻」は、紫式部が『源氏物語』を書き綴ってから約100年後の平安時代後期(12世紀前半)に制作された現存する最古の絵巻です。
・本来は「源氏物語」の54帖全体について作成されたと考えられている。
・現存する国宝「源氏物語絵巻」は、絵19面、詞書37面が徳川美術館と五島美術館に所蔵されている。→現存する絵巻は、現在では色が褪せ、剥落が進み、当時の面影はない。⇒国宝源氏物語絵巻の全巻復元プロジェクト(1999年から2005年にかけて、すべての絵巻の復元が完成。)
**国宝『源氏物語絵巻』の講義は、2013年から始め、今回の「竹河(二)」で12回目の講義です。
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第四十四帖 「竹河」 (たけかわ)
前回の「竹河」(一)
・鬚黒(ひげくろ)の亡き後、訪客もなく、近親も疎遠になっていた。妻の玉鬘(たまかずら)は、三人の息子と二人の娘を育て上げたが、娘たちの結婚問題に悩んでいた。
・特に、姉の大君(おおいぎみ)は、その美貌から、帝(みかど)と冷泉院、蔵人少将(夕霧の子)らに求婚され、薫も思いを寄せている。
・薫は、夕刻に玉鬘邸を訪問し、優雅に振る舞い、人々にもてはやされる。
 
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竹河(二)
蔵人少将、薫を羨む。玉鬘、薫の筆跡を誉める
蔵人少将は、大君と結婚したいと思っているが、薫が折々、玉鬘邸を立ち寄ると、皆が薫に好意をもつので、自分は浮かばれず気が弱くなって、恨めしい思いである。
桜花の下、蔵人少将、姫君たちの囲碁を垣間見る
三月なって、桜も盛りの頃、18,9歳に美しく成長した姉妹は、弟の藤侍従が審判役となって碁に興ずる。二人の兄、左近中将・右中弁も見物に加わり、睦まじい語らいが続く。…中将たち兄弟が立ち去り、夕暮れも近くなったので、座を端近に移し、幼児から争ってっていた坪前栽(中庭)の桜の所有権を三本勝負に賭けようと.戯れ、姉妹は再び碁に打ち興ずる。…侍女達もはやし立てているところへ、かねてから大君に思いを寄せている蔵人少将が来合せ、またとない好機とばかりに、そっと身をひそめて、御簾の陰から姫たちを垣間見る。⇒冷泉院に促されて、.玉鬘は大君の参院を急いだ。…大君は、翌年四月には女宮、数年後には.男子にも恵まれるが、周囲の嫉妬がつのり、たびたび面倒なことも起こるので、玉鬘は思うにまかせぬ世を嘆くのでした。
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国宝『源氏物語絵巻』~竹河(二)~
右の絵巻は、「竹河(二)」を復元模写したものです。
・図は、春三月の玉鬘邸。左方は、御簾を巻き上げ、碁を打つ姉妹。上手に、左袖を上げ、右手はまさに石を置こうとするのが姉の大君か。…下方の侍女は中君付きの侍女であろうか。正面の侍女二人は、大君付きの侍女か。
・坪前栽の桜は満開である。
・右手前、御簾越しに、姫たちをみつめる蔵人少将。
2018/10/03のBlog
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・日時:9月25日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:市大樹先生(大阪大学准教授)
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聖武天皇の関東行幸(*右の資料を参照)
天平12年(740)9月、藤原広嗣の乱がおこった。悪疫大流行の疲弊を背景に、橘諸兄政権への不満を抱いた大宰少弐藤原広嗣が挙兵した。…10月26日、聖武天皇は、「朕は思うところがあって、今月の末にしばらく関東に行こうと思う」と勅(みことのり)を発し、平城京を後にして、まず伊勢の国に向かった。→引き続き聖武天皇一行は、美濃・近江、そして山背の国とめぐり、恭仁宮に入る。
・聖武天皇が8世紀に関東行幸をされているが、これは大和を出発して、伊勢経由で北伊勢に出て、美濃の不破方面から近江に戻る行幸経路である。(関東といっても、鈴鹿の関、不破の関の東に行幸されたという。)
関東行幸の3段階
《第1段階》:平城宮~赤坂頓宮(11月4日~22日)…伊勢神宮への奉幣。広嗣の乱の経過・余波を注視。
《第2段階》:赤坂頓宮~不破頓宮(11月26日~29日)…大海人皇子のルートをたどる。王権の継承を実感・誇示。
《第3段階》:不破頓宮~恭仁京(12月15日)…恭仁宮を目指す。
・聖武天皇の関東行幸は、あてどない旅と言われているが、正しくは、計画的な行幸であったと思われる。
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関東行幸への助走
①聖武天皇の時代は、相次ぐ天災・疫病→天皇権威の失墜
・天平6年(734):大地震
・天平9年(737):疫病(天然痘?) 藤原四子の死去(→橘諸兄政権の誕生)
②恭仁遷都…山背国相楽郡。古くは奈良時代初めに、甕原(みかのはら )離宮がおかれていた。
③華厳経・盧舎那仏への着眼
・天平12年(740)2月、難波行幸の際、河内国知識寺に立ち寄って、盧舎那仏を礼拝し、それ以来、盧舎那仏造立の願いを持っていた。
・『続日本紀』天平15年(743)10月辛巳条-「盧舎那仏造立の詔」を発する。

◆聖武天皇は4度も都を遷している。
710年平城京(元明)→740年恭仁京(聖武)→744年難波京(聖武)→紫香楽宮(聖武)→745年平城京(聖武)→784年長岡京(桓武)
・聖武天皇が各地を彷徨し、遷都を続けた天平期後半は、災害や疫病が頻発する不安と動揺の時代であった。
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聖武天皇の関東行幸と『万葉集』
『万葉集』巻6には、聖武天皇の巡行に際して、伊勢の国の河口、朝明(あさけ)、狭残(さざら)の行宮(かりのみや)、不破の行宮、そして恭仁京での歌をそれぞれ伝えている。(巻6-1029~1037)。
◇伊勢国に幸(いでま)せる時に、河口の行宮にして、内舎人(うどねり)大伴家持が作る歌一首。
河口の 野辺に廬(いお)りて 夜の経(ふ)れば 妹が手本(たもと)し 思ほゆるかな」(巻6-1029)
(意訳:河口の野辺に仮屋を営んで幾夜にもなったので、妻の手枕が恋しくおもわれることよ)
◇『万葉集』1033番歌と御食国志摩…狭残(さざら)の行宮にして、大伴家持が作る歌二首。
大君の 行幸(みゆき)のまにま 吾妹子(わぎもこ)が 手枕まかず 月そ経にける」(巻6-1032)
(意訳:天皇の行幸のままに従って、わが妻の手枕をすることなく月日が経ってしまったことよ)
御食(みけ)つ国 志摩の海人(あま)ならし ま熊野の 小船に乗りて 沖辺(おきへ)漕ぐ見ゆ」(巻6-1033)
(意訳:天皇の食善に奉仕する国なる志摩の海人であるらしい。熊野の小船に乗って沖の辺りを漕いでいるのが見える)
*天皇が日常的に食する材料〈贄(にえ)〉を献上する志摩海人の姿を詠み込むことは、聖武天皇の支配の正当性を確認する意味でも重要であった。
2018/09/30のBlog
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・日時:9月28日(金)10時~15時
・【コース】:阪急高槻市駅-寺町-しろあと歴史館-八幡大神宮-城跡公園(昼食)-野見神社-藤井竹外邸跡-高山右近記念堂-昼神車塚古墳-上宮天満宮-西国街道-霊松寺-三好長慶の墓-JR高槻駅 (約6km)
・参加者:12名
・天候:晴れ
・リーダー:佐藤義夫
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高槻市立「しろあと歴史館」(高槻市城内町1-7)(*右上の写真)
高槻市は、大阪市と京都市のちょうど中間に位置し、古来、京・大阪間の交通の要所として栄えてきた。
・「しろあと歴史館」は、平成15年に開館。戦国時代以降の文化財を中心に、三好長慶や高山右近ゆかりの史料が収蔵品の中核。
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高山右近の銅像(城跡公園-高槻市城内町3)
*右の写真は、高槻市の城跡公園にある右近の銅像。
・高山右近(1552-1615年)はキリシタン大名であり茶人。右近は、16世紀の一時期、摂津・高槻城主として信長に仕えた後、秀吉配下でも武功をあげ、明石6万石の城主へと出世。秀吉のキリシタン禁止令により地位や財産を捨て信仰を選んだ。後に、家康のキリシタン追放令によ国外追放となり、追放先のマニラで、熱病に冒され現地で歿した。
・高槻城は摂津国における西国街道沿いの重要拠点。二重の堀を構えた結構大きな城郭だったようが、残念ながらほとんど遺構は残っていない。
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上宮天満宮(じょうぐう てんまんぐう)(高槻市天神町一丁目)
大宰府天満宮に次いで2番目に古い(創建1050年以上の古社)天満宮と伝えられる。主祭神は、野見宿禰と菅原道真。
・竹の本殿…本殿の外部資材は主に竹が用いられ、平成14年に日本で初めての竹で作った本殿。(*右の写真が竹の本殿)
・広い境内(4万平方m)で、長い参道。→西国街道沿いの参道入口に鳥居が立ち、そこから参道は北に約150m歩程続き、そこから石段を上がっていくと二の鳥居、尚も坂道の参道を進むと、正面に大きな拝殿がある。
2018/09/24のBlog
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・日時:9月20日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:瀧本和成先生(立命館大学教授)
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梶井基次郎の略歴
1901年(明治34年)、大阪市生まれの小説家。「檸檬」「城のある町にて」「闇の絵巻」など20編ほどの短編小説を残し、1932年(昭和7年)31歳の若さ(ほとんど無名のまま)で病死した。
・梶井は、虚無と倦怠にむしばまれた青春を描きながら、みずみずしい感受性や繊細な観察に支えられた独自の作風を展開した。
・梶井は、旧制三高にから東大に進学するまでの4年半を京都で過ごした。(結核と怠学で2度も落第)。
・梶井の命日(3月24日)は、代表作の「檸檬」から「檸檬忌」とよばれる。
・大阪市西区の靭公園内に梶井の文学碑がある。(昭和56年に建立。碑には.「檸檬」の一節が刻まれている)。
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小説「檸檬」
◆作品の初出…1925年(大正14年)、同人雑誌「青空」創刊号に発表。単行本は1931年(昭和6年)、武蔵野書院刊。
冒頭文
「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終おさえつけていた。焦燥といおうか、嫌悪といおうか-酒を飲んだあとに宿酔(ふつかよい)があるように、酒を飲んでいると宿酔に相当した時期がやってくる。…(以下、右の資料を参照)」

作品の概要
「えたいの知れない不吉な塊」を胸に抱いた青年が、京都・二条寺町の八百屋で買った「檸檬」(レモン)で、なんとなく幸せな気持ちになり、日ごろ重苦しく迫る「丸善」の美術書の上にレモンを置き、そのレモンが爆発するのを空想しながら立ち去るという物語である。」
・病気や借金に苦しみ、目的をもつことが出来ない無気力な生活の中にあって、空想という贅沢にふける主人公の心情を描き出した青春文学の秀作。花火やびいどろ(おはじき)へのあこがれ、壊れかかった街への愛着やどこか遠い町をさまよっているかのような錯覚。そうした主人公の心を慰めてくれたのが一個の檸檬であった。五感を刺激する檸檬の存在が、すべての憂鬱を吹き飛ばしてくれる檸檬爆弾の空想へと一気に流れ込んでいくのである。
・青春の倦怠、彷徨をテーマに詩情あふれる筆致で描いた珠玉の短編小説として有名。
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〇「檸檬」に描かれた〈京都〉-「私は」何処から来て、何処に行ったのか-
*作品中の「私」の足取り
(1)その頃、私は友達の下宿を転々として暮らしていた。ある朝、友達が学校へ出てしまったあとの空虚な空気のなかにぽつねんと一人取り残された。
(2)何かが私を追い立てる。そして街から街へ。(中略)二条の方へ寺町を下り、そこの果物屋で足を留めた。(中略)その店には珍しい「檸檬」が出ていたので買物をした。
(3)どこをどう歩いたのだろう。私が最後に立ったのは丸善の前だった。
(4)そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った。→つまり、「私」は三条から四条へと風俗的快楽を味わえる京極通りを下り、五条界隈の遊郭街へと歩をすすめていったのではないかと推測する。(瀧本先生)
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**参考文献**
『京都 歴史・物語のある風景』(瀧本和成 編集)(嵯峨野書院、2015年)
2018/09/08のBlog
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・日時:9月6日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:小野恭靖先生(大阪教育大学教授)
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◇『伊勢物語』概説…平安時代初期の歌物語。全125段からなり、ある男の元服から死に至るまでを仮名の文と和歌で作った章段を連ねることによって描く。各章段は、「むかし、男ありけり」と書き出して、その男が歌を読むにいたった経緯を語る小編の歌物語。
◆前回までの復習
・第1回「芥河」(第六段)…むかし、ある男がいた。入内する二条の后に恋して、女を盗み出すことを計画。結局二人の関係は、男が女を連れだした夜、女が鬼に食われたことにより終わりとなる。有名な鬼一口(おにひとくち)と呼ばれる段である。
・第二回「東下り」(第九段)…むかし、ある男がいた。わが身を無用なものと思い、京を離れて東国へと下っていくことになる。男は、道中の三河国の八橋や武蔵国と下総国の間を流れる隅田川などで、京に残してきた女への思いを歌に詠んだり、また、東国の女性とも関係を持つようになる。
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○第三回:第十六段~第三十二段
第十六段「紀の有常」
・むかし、紀有常(きのありつね)という人がいた。三代の天皇に仕え、栄えた時もあった。けれど、時はうつり暮らしは人並み以下になってしまった。有常の人柄は、心が美しく優美なことを好み、他の人とは違っていた。…長年親しく連れ添った妻は、だんだん夫婦の契りも無くなって、ついに尼になり、少し前にやはり尼になった姉のところに行くことになったが、貧しかったので何もしてやれなかった。心苦しく思った有常は、親しい友人に手紙を送り、「こんな事情で、いよいよ妻が去って行きます。それなのに何もしてやれなかった。」と手紙に書いて、その最後に
《和歌》「手を折りて あひ見しことを かぞふれば 十(とを)といひつつ 四(よ)つは経にけり」 (歌訳:指を折って共に暮らした年月を数えてみれば、四十年にもなっていた) (以下、省略)
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第二十二段「千夜を一夜」 (以下、省略)
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第二十三段「筒井筒」(つついづつ)(*右の資料を参照)
・むかし、田舎で行商している人の子供が、井戸のところに出て遊んでいた。大人になったので、男も女も互いに恥ずかしく思うようになったが、男はこの女を妻にしたいと思うし、女は男を夫にと思っていたので、親が他の男をめあわせようとしても、承知しないでいた。そうこうするうちに、この隣の男から、歌を詠んできた。
《和歌》「筒井つの 井筒に.かけし まろがたけ 過ぎにけらし 妹(いも)見ざるまに」(歌意:井筒(井戸の地上部の囲い)で背丈を比べてきたが、あなたを見ないうちに井筒を越すほどに大きく成長したでしょう。もう、大人としてあなたに逢いたい気持ちです。)
女は返しの歌を贈る。
《和歌》「くらべこし ふりわけ髪も 肩すぎぬ 君ならずして たれかあぐべき」
(歌意:あなたとどちらが長いと比べあってきました私の振分け髪も肩を過ぎるほど伸びてしまいました。あなたでなくて、誰が髪上げ(女性の成人式)をしましょうか。)
など歌をやりとりして、もとからの願い通りに結婚した。
・幼い日からの思いを遂げながら、その後、何年か過ぎるうちに、男は河内の国の別の女に思いを寄せるようになった。女は、男を恨むこともなく、その安否を気づかって、「夜半にや君がひとり越ゆらむ」と詠んだのを男は聞いて、とても愛(いと)おしいと思って、河内へあまりゆかなくなった。
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第二十四段「梓弓」 (あずさゆみ)
・むかし、男が片田舎に住んでいた。男は宮中勤めをしに行くといって、女と別れを惜しんで出かけたまま三年帰ってこなかったので、女は待ちくたびれて、心をこめて.求婚してきた人に「今夜逢いましょう」と結婚の約束をした。…そこへ男が帰ってきた。男は「この戸をあけて」と叩いたが、女は開けないで、歌を詠んで男に差し出した。
《和歌》「あらたまの としの三年を 待ちわびて ただ今宵こそ 新枕すれ」(歌意:三年もの間、待ちくたびれて、私はちょうど今夜、新枕を交わすのです。)
この歌を見て、男もくやしくおもったけれども、
《和歌》「あづさ弓 引けど引かねど むかしより 心は君に よりにしものを」(歌意:年月を重ねて、私があなたを愛したように、新しい夫に親しんでくださいよ。)という歌を読んで立ち去ろうとした。
(以下、省略)
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■第三十二段「倭文の苧環」(しづのおだまき) (以下、省略)
・昔、男がいた。かつて情を交わした女に、何年かたってから歌を詠んでおくった。
《和歌》「いにしえの しづのをだまき 繰りかえし 昔を今に なすよしもがな」(歌意:糸巻が繰り返し糸を巻くように、むかしの私たちの愛を再びとりもどしたい。)
この歌を女はどう思ったのだろう。それは女自身しかわからぬことだ。
・この歌は、義経記によれば静御前が若宮八幡宮の神前で、義経の思いをこめて、初句を「しづやしづ」と変えて舞いおさめた伝える。
2018/08/30のBlog
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・日時:8月28日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:天野忠幸先生(天理大学文学部准教授)
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「応仁の乱」の背景
日本の歴史上で、有名な内乱の一つである「応仁の乱」は、室町時代の京都で11年に及んだが、どう始まったのか、何故長引いたのか、勝者は誰なのか?。
①有力守護の争い…細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)の二大勢力の争い。
②将軍家の後継者争い…八代将軍義政は、男子に恵まれなかったので、1464年、弟・義視(よしみ)を後継者。ところが翌年正妻・日野富子との間に、男子が出産(義尚(よしひさ))。義尚を将軍後継者としようとする日野富子が山名を頼る。義視を支持する細川との対立。
③永享の乱(1438~39年)【籤引き将軍義教が鎌倉公方足利持氏を追討】、嘉吉の変(1441年)【播磨の守護赤松満佑が将軍義教を自邸によんで殺した事件】。…守護家の家督争いが原因。幕府と守護の対立。
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畠山義就(よしひろ)の戦い
「応仁の乱」を理解するには、畠山義就を主人公として見ていくと、難解な内乱がいかなる原因で勃発し、どう終結したか、なぜ長期化したか、が理解できる。
室町幕府の仕組み
・将軍(足利家)、管領(三管領-細川・斯波・畠山)、四職(山名 他)、守護・地頭
・幕府の中でも、三菅領(さんかんれい)と四職(ししき)は大きな権力を持っていた。
◇義就-我こそ畠山の主(あるじ)なり。
・1448年父・持国。弟の持富から子の義就(12歳)へ次の統領とする。
・畠山家は、管領になれる家で、守護は河内・紀伊・越中・(山城)、分家は能登。
嶽山城の戦い
*畠山家の家督争い…1460年、細川は、家督と守護職を弟の政長に変更し、義就は将軍の御敵に。
・勝元は大軍で攻める。義就は、嶽山に籠城。細川・山名・北畠・六角・京極らが包囲。→1463年義就は吉野へ没落。
・(注)「嶽山城」(だけやまじょう)…1392年楠木正成が築城した南河内の城。大阪府富田林市彼方の嶽山山頂にあった。
文政の政変(1466年、応仁の乱/半年前)
*山名宗全が義就に同盟を呼びかける。…山名と勝元は、ともに幕府を支えてきたが、山名はこのままではトップになれない。義就という最強を味方につければ、細川政権を転覆させることができる。→義就は5000の兵を率いて上洛。《義就は、ずっと反逆者として幕府から討伐を受ける身であった。地方の武士たちに支持されていたが、京都にいる.大名たちに仲間は一人もいない。初めて、京都の仲間ができた。
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応仁・文明の乱
・1467年(応仁元)5月26日、応仁の乱始まる。細川勝元が室町邸を占拠、将軍義政らを確保。山名方は一条大宮(西陣)に布陣。…応仁の乱が本格化。…それまで中立であった将軍義政が細川方につく。(山名方は反逆者となる)。…京都での激戦で、多くの建物が焼け、死傷者も多数。
・1467年10月3日。劣勢であった山名方は、大内正弘(22歳の若武者、4ヵ国の守護)が宗全の誘いにそって大軍で上洛し、義就の最強の相棒となり、二人の活躍で、戦は振出しに戻る。
・このころから、両方とも陣地を固める。乱は果てしなく続くことになる。(細川方16万、山名方11万)。
・応仁の乱/始まってから5年。…都は荒れはてていた。しかし、終わる気配はなかった。→山名は降参することを考えていた。細川は和睦を前向きに考えていた。(乱が終わると思われた。)
*義就と大内は、和睦に反対。義就は当主の座、大内は幕府内の地位が保証されなければ、5年も戦った甲斐がない!。
・1473年、細川、山名ともに死亡。
・1474年、細川正元と山名政豊が単独講和、形式的には東軍勝利。
・1477年11月、大内政弘は、地位、瀬戸内海の利権を認められ、都を離れる。応仁の乱は終了。
河内王国…義就は何も手に入れられなかった。2000のの兵と再び河内へ。
・畠山義就は、そもそも幕府の命令に従うという発想がない。大乱が始まる前から、幕府の大軍を向こうに回して河内で孤軍奮闘していたのである。彼の本質は、幕府の権威に頼ることなく自力で領土を拡張する独立独歩の姿勢である。→河内国は幕府・将軍に頼らない独立国になり、これは、新たな時代(戦国時代)の先駆けであった。
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**参考文献**
・呉座勇一『応仁の乱』(中公新書、2016年)
・NHK-歴史ヒストリア『応仁の乱』大悪人「畠山儀就」(2017年12月)
2018/08/24のBlog
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シニア文化塾では、教室での学習とともに、歴史・文学・古刹などに関連したウォーキングを行なっています。

*右の写真は、今年、6月16日(土)、「泉南熊野街道を歩く」ウォーキングで、紫陽花の寺で有名な「長慶寺」(泉南市)での集合写真です。
この日は、さわやかな風の吹く晴天で、午前9時にJR和泉砂川駅集合-林昌寺-岡中鎮守の大楠-馬頭観音-熊野街道(信達街道)-往生院-市場稲荷神社-長慶寺-信達本陣角谷家-JR新家駅を散策しました。(約6km)。
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◇「遊歩会」平成30年後期ウォーキング(9月~12月)
*右の資料をご覧ください。
【スケジュール】
・9月28日(金)「高槻の史跡を巡る」
・10月19日(金)「菊薫る葛城山麓を歩く」
・11月16日(金)「奈良北郊京街道を訪ねる」
・12月7日(金)「二条城、晴明神社から護王神社参詣」

【参加者募集】
・参加者は、シニア文化塾の受講生です。
・通常参加費は1000円。(拝観料、食事代がある場合は別記します。)
・歩行距離は、いずれも6キロ前後です。
・(中止の場合)実施日の前日19時前のNHK現地降雨予報で、午前・午後いずれかが50%の場合は中止します。

【問合せ】
・リーダー:佐藤義夫:電話0721-93-7787 携帯:090-1220-5702