『平家物語を読む』〜平敦盛と平知盛の最期〜

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日時:4月12日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:四重田陽美先生(大阪大谷大学教授)
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**平家物語**
・平家滅亡(1185年)から40〜50年後の1230年頃に成立。全12巻、平家の栄華と没落を描いた戦記物語。作者不詳。琵琶法師による語りものとして流布。
・四重田先生の講義『平家物語を読む』は、2011年に始まって、今回で16回目の講義。
・平家物語は、平家一門の滅びに焦点を合わせ、敗者の悲運を主題にしている。戦いに敗れて滅んでゆく人々の悲劇的な運命が数多く描き出されている。→しかし、今回の「敦盛最期」の直実の物語では、敗者のあわれではなく、勝者のむなしさ、いわば、勝者のあわれが語られている。

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(%エンピツ%)講義の内容
○『平家物語』巻第九−十六
敦盛最期(あつもりさいご)
「平家が一の谷の合戦に負けたので、源氏の熊谷直実(くまがいなおざね)は、敵の大将と取り組みたい思って、磯の方へ馬を進めていると、美しく立派に着飾った一騎の武者が、沖の船に目をかけて、海に馬を乗り入れ、5〜60mほど泳がせていた。それを見て、熊谷は、〈貴殿は立派な将軍と拝見します。敵に後ろを見せるとは卑怯。戻られよ〉と、扇を上げて招くと、武者は引き返してきた。波打ち際で、馬を並べてぐっと組んでどさっと落ち、取り押さえ首を切ろう兜を押し上げてみると、十六、七歳ぐらいの武将で、薄化粧してお歯黒をつけている。わが子の小次郎の年齢ぐらいであった。…熊谷は名乗ったが、若武者は名乗り返さずに《お前にとっては、私は良い敵だ。名乗らなくても、首を取って誰かに尋ねよ。誰でも私を見知っているだろうよ》。…熊谷は、見逃そうとも思ったが、後方を見ると、味方の土肥・梶原の軍勢が50騎ほどでやってくるのが見える。熊谷は、〈お助けしようと思ったが、味方の武士が大勢こっちへ寄せてきた。他の者の手におかけするよりも、この直実の手でお討ちして、死後のご供養をいたそう〉。というと、《ただ、さっさと首を取れ》と言われた。…泣く泣く、若武者の首を斬ってしまった。やがて、首を包もうとしたところ、錦の袋に入れた笛が腰にさしてあった。〈ああ、今日の明け方、敵陣の中で笛を吹いておられたのは、この人々であったのか。味方の東国勢は何万もの兵士がいるが、戦いに笛を持ってくるような人はいない。身分の高い人はやはり優雅なものだ〉と思って、源義経に見せたところ、涙を流さない者はいなかった。…後に聞くと、この若武者は、平経盛(つねもり)の息子で、当年17歳の敦盛であった。」
・「敦盛最期」の物語は、敦盛という名前は伏せられ、最後になってこの若武者が敦盛という名前であることが明かされる筋立てになっている。
・熊谷直実:武蔵国(現・埼玉県熊谷市)熊谷郷の小領主。敦盛の物語は、直実が語りつないだから、後世に残った。また、直実は、若武者の首を斬るという非常な行為の中でわが身の疑念を抱き、人の世の無常へと思いを深め、出家している。

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○『平家物語』巻九−十七
知章最期(ともあきらさいご)
「平知盛は、息子の知章と侍の監物頼方と、たった主従三騎になって、助け舟に乗ろうと波打際の方へ逃げる。そこに、源氏の武士が十騎ほど、大声を上げて追いかけてきた。…その中で大将と思われる者が、知盛と組もうと馬を並べてたが、息子の知章が間に割ってはいって、馬を並べてむんずと組んで、どうっと馬から落ち、取り押さえて首を斬り、立ち上がろうとしたところ、敵の童(少年)が追いかけて来て、知章の首を討つ。監物も、知章の仇は取ったが、左の膝を射られて、討ち死にした。…知盛は、強力な名馬に乗って、海上を約2km、馬を泳がせて、兄・宗盛の船に追いついた。…(中略)。知盛は、《子が親を助けようと敵と勝負しているのを見ながら、子が討たれるのを助けないで、このように逃げ回っているのでしょうか。どんな親だと、他人の事でしたら、どれほど非難したに違いありません。自分のことになると、命は惜しいものだと、思い知らされます。他人に何を思われるか考えるだけでも、恥ずかしい。》
・父知盛の身代わりとなって死んだ知章は16歳。「知章最期」の段は、子を見捨てた父知盛の心情が、主として描かれている。