大阪府下に殆ど例を見ない「科長の船形だんじり」出現の背景

・日時:平成30年1月16日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:上野勝己先生(元太子町立竹内街道歴史資料館館長)
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1.大阪府下の船地車(ふなだんじり)
(1)地域別の地車の台数…①大阪府:総数六百余台。②南河内:60余台。③太子町山田地区:5台。
(2)そのうち、「船形地車」は、大阪府下で3台。1台は、大阪市住之江区安立南町の地車で、現在は博物館で保管。2台は太子町山田地区。
(3)現在、大阪府下の祭礼などにおいて、船形地車が曳行されているのは、科長神社の夏祭りのみとなっている。
*”だんじり”:一般に「地車」と表記されるが、古文書には、楽車・車楽・檀尻・段尻などの字も当てられている。
2.だんじりが宮入りする科長神社(しながじんじゃ)
・科長神社は、大阪府南河内郡太子町山田にある神社。式内社。
・祭神は、科長津彦命、科長津姫命、天照大神、速素戔嗚尊、天児屋根命、誉田別命、日本武尊。
・当地は神功皇后誕生の地という伝承もあり、社宝に神功皇后所用と伝える雛形の兜がある。

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3.山田地区の「船形地車」出現の背景
大阪府下でも山間部に位置する山田村に、何故、大阪府下でも殆ど類例のない船形地車が3台も出現したのか。(山田の船形地車は元来3台あったが、昭和49年永田町会の船だんじりが焼失し2台となった。)
(1)町会に住した富豪の財力
・「田中家」は、山田の永田町で製油業を営み、大坂へ油を出荷して巨額の財を成し、江戸時代末期に大名貸しなどの金融業に転じた豪商。
・山田を代表する大富豪が、早期に地車を所有した。
(2)天神祭りの天神丸(*右上の資料を参照)
・元禄年間(1688〜1704)より堀川浜の荷物運搬船の同業社仲間に伝わり、祭礼に曳かれていた。石川の浜から大坂へ船で油を出荷していた田中家はこの天神丸に接する機会も多かったと思われる。
・田中家は、天神丸を見たときに、「だんじり」は一般型の箱形ではなく、この船形だと強い感銘を受けたと推察される。そして、田中家の財力で、船大工の土台製作など、より経費のかかる最初の地車が製作されたと考えられる。
(3)誉田祭(神功皇后伝承)
・江戸時代には、『摂津名所図会』・『河内名所図会』などに地車の始まりは、「神功皇后三韓退治の御時磯良の神・住吉の神など舟にて舞給ふをまねる」と神功皇后と関係する船上の神事を真似たものと考えられていた。→歴代の田中家当主は、当時、地車の原型が、氏神である科長神社と強く関係する神功皇后の三韓退治における船の神事を真似たと考えられていた点から、天神丸を見た時、”船形地車”に繋がったものと考えられる。

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4.各種史料に見える”だんじり”記録
①『河内名所図会』巻三 誉田八幡宮(享和元年(1801)刊)
・本文 檀輾(だんじり)「四月八日若宮の例祭にて車楽二輌出る 上に作り花をかざり 笛 太鼓 鉦を囃して音楽の真似あり 三韓退治の吉例にて日本檀輾のはじめとかや。
②『岸和田のだんじり』岸和田市観光振興協会(平成15年)
初期のだんじり祭りについてはまだ十分わかっていない。文化5年(1808年)の岸和田五町の公用日記の抜き書きによると、おそらく、木箱に車を付けただけの簡単な箱車の上で、太鼓を打ち鳴らし、神楽獅子を舞いながら町を練り歩き、城へ曳き入れたのであろう。
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**あとがき**
・科長神社の夏祭りは、7月第4日曜日に行われ、船形だんじりも宮入りする。
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平成29年後期講座(歴史コース)(9月〜1月:全13回講義)は、1月16日で終了しました。
講義の先生並びに受講生の皆様に、厚く御礼申し上げます。
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