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シニア文化塾だより
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2018/01/13のBlog
〇シニア文化塾のご案内
・シニア文化塾は、2010年1月に設立し、今年は9年目になります。
・シニア世代を対象に、「歴史・古典・文学・文芸などを楽しく学ぶ」をテーマに講座を運営しています。
・講座は「文学・文芸コース」と「歴史コース」があり、年間を「前期」(3月~9月)と「後期」(9月~1月)に分けています。
・シニア世代であれば、地域を問わず参加できます。
(*右上の写真は、昨年11月16日(木)《名画を鑑賞「ゴーギャン」》(末延先生)の講義風景です。)
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◎2018年(平成30年)「前期講座」(文学・文芸コース)のご案内
・期間:3月~7月
・開催曜日:木曜日
・時間:午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
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◎講義日程表(*右の日程表をご覧ください。)
・講義回数:全12回講義
【古典】:万葉集、源氏物語、平家物語、伊勢物語
【近現代文学】:芥川龍之介、恩田睦
【俳句】:芭蕉
【川柳】:時実新子
【能・狂言】:「船弁慶」
【音楽】:フランツ・リスト
【絵画】:岡本太郎
【現地見学】:奈良・文学散歩
・講師:12名…各分野でご活躍の先生方です。
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☆受講生募集
・定員:60名 (定員になり次第締め切ります。)
・受講費用:12,000円(受講料1000×全12回講義)

◇申込方法
・往復ハガキに、住所・氏名・年齢・電話番号を明記の上、下記宛に申し込みください。
【申込先】〒584-0062 富田林市須賀3-11-15 「シニア文化塾」事務局 常本宛
【問合せ】:シニア文化塾・事務局 常本(ツネモト) 携帯:090-3990-3907
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2017/12/21のBlog
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・日時:12月14日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:辻村尚子先生(柿衞文庫学芸員)
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**「おくのほそ道」***
芭蕉が門人の曾良を伴って、みちのくの旅に出たのは、元禄2年(1689)3月27日(陽暦5月16日)のこと。その時、芭蕉46歳、曾良41歳。現在の東京、深川から出発し、東北・北陸を巡り、8月20日(10月3日)前後に、終着地である大垣に着く。その間、約150日、全行程約600里(約2400km)。
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○第十二回…山中温泉から「「全昌寺」、「汐越の松」、「天龍寺・永平寺」、「福井」、「敦賀」、「色の浜」、「大垣」。
(一)「全昌寺」、「汐越の松」、「天龍寺・永平寺」、「福井」
(概説)全昌寺(加賀市大聖寺)に泊まる。曾良も前の晩井に泊まって、一句を残していた。…加賀と越前の境にある吉崎の入江を舟で渡り、汐越の松を見に行った。その昔、西行は「よもすがら嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松」と歌を詠んでいる。…松岡(福井県)の天龍寺に、古いゆかりのある住職を訪ねた。ここで、金沢からついてきていた北枝(ほくし)と別れて、永平寺に参詣。…福井は永平寺から三里ばかりなので、夕飯をすまして出かけたところ、夕暮れ時の道なので、はかどらない。この福井には等裁(とうさい)という隠者がおり、いつの年だか江戸に来て、私を訪ねたことがある。
(二)「敦賀」、「色の浜」
等裁とともに敦賀についたのが8月14日夕暮れで、その夜、気比明神に参詣した。月の美しい夜だった。…16日、晴れたので、西行が詠んだ「ますほの貝」を拾おうと、色の浜へと舟を出した。
◆「名月や北国日和定めなき」(芭蕉)(季語:名月(秋八月))
(意訳)(今晩こそ、中秋の名月であると楽しみにしていたのに、昨夜とうって変わって雨降りである。なるほど、.北国の天気というものは、変わりやすいものだな)
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(三)「大垣」…終章
(概説)「おくのほそ道」全編のおわりを飾る一章である。馬に乗って大垣の町に入ると、曾良も伊勢からやって来て、越人(越智氏)も馬を飛ばして駆けつけ、如行(じょこう)の家にみんな集まった。前川子や荊口父子を始め、親しい人々が昼も夜も訪ねて来て、まるでよみがえった死人に会うように、私の無事を喜んだり、旅の疲れをねぎらってくれる。…長旅の疲れがまだとれないうちに、9月6日になったので、伊勢神宮を参拝しようと思い立ち、ふたたび舟に乗って新しい旅に出るのであった。
◆「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」(芭蕉)
(意訳)(私は今、親しい人々に別れを告げて、伊勢の二見が浦へと出発することになった。蛤の蓋と身が別れるように、つらい別れである。折から季節は、晩秋で別れの寂しさが、ひとしお感じられることだ。)
*(注)末尾に書かれた「蛤の…行秋ぞ」の句は、「旅立ち」の章の「行春や鳥啼き魚の目に涙」という句に呼応している。「行く春」から「行く秋」へと受け継がれていく永遠の旅。
*「おくのほそ道」の旅は、大垣で終わらなかった。芭蕉にとって、旅の終わりは、また、新たな旅の始まりであった。
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**あとがき**
◇『おくのほそ道』
・芭蕉は、元禄4年に江戸に帰着して、その後の2年余りを、『おくのほそ道』に執筆にあてたと考えられる。すでに旅中に成立している句文に、新しく句文を加え、.推敲に推敲を重ね、完成したのは、元禄六年秋頃(諸説あり)。
・旅の目的は、平安時代の歌人西行や能因の歌枕や名所旧跡を辿ることであった。
・同行は曾良(そら)。芭蕉と曾良は、陸奥国・出羽国を巡り、北陸地方に向かうが、山中温泉で曾良は病気になる。ここから越前国松岡までは、金沢の北枝(ほくし)が同行。後は、芭蕉一人旅。
・芭蕉は、感動の高まった場面では、漢文調の強い文体を用いた。
・芭蕉は、句を改作したり、後で入れたりしている。また、日程なども変更していることもある。単なる紀行文ではなく、文学的な作品になっている。
◆「おくのほそ道」の講座
・平成25年(2013)6月に始まり、H29年12月に終了。講師は辻村先生。半年に1回の講義で、5年の歳月を費やしての「おくのほそ道」を詠んだ12回の講座</u>でした。、
2017/12/14のBlog
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・日時:12月8日(木)9時20分(近鉄道明寺駅集合)
・【コース】:道明寺駅-大寅蒲鉾見学-道明寺-道明寺天満宮-梅廼家(昼食)-誉田八幡宮-白鳥神社-近鉄古市駅(15時解散) (約6km)
・参加者:18名
・天候:午前(小雨)、午後(曇り)
・リ-ダ-:佐藤義夫
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○「大寅蒲鉾 道明寺工場」(柏原市石川町)
・新鮮な魚(ハモ・グチなど)を使用した蒲鉾作りを見学。
・【作業工程】水洗い→採肉→すり身(石うす)→板付け→焼き板かまぼこ→包装→冷蔵庫に保管→出荷(形、蒸し、焼き具合などは職人さんの熟練した技術が必要)。
・かまぼこ製品が、初めて文献に登場するのは平安時代初期。魚介類のおいしさを追求した日本独特のかまぼこ技術。
・大寅蒲鉾(㈱は、明治9年(1876年)に創業。
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○「道明寺」(どうみょうじ)
道明寺天満宮の南側にある道明寺は、古墳造営にかかわった土師氏(はじし)の氏寺(土師寺)として、7世紀に建立されたと考えられる。土師氏の子孫の菅原道真ゆかりの寺で、道真公の別名道明から道明寺と呼ばれる。本尊は十一面観音菩薩像。
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○「誉田八幡宮」(こんだはちまんぐう)(羽曳野市誉田)
六世紀に欽明天皇の勅令で、応神天皇陵の直ぐ南に設けられた日本最古の八幡宮と称される。主祭神は応神天皇。
・応神天皇陵(誉田御廟山古墳)は墳丘長420m、仁徳陵に次ぐ全国2位の規模をもつ、五世紀初頭に築造。
・応神天皇陵を信仰の対象とし、陵の後円部を背に神域が広がる神社。古墳の被葬者をまつる神社が、陵畔にあるのは珍しい。
2017/12/11のBlog
・日時:12月7日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:四重田陽美先生(大阪大谷大学教授)
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**「平家物語」について**
・成立:平家滅亡(1185年)から40~50年後の頃(1230年頃)に成立。作者未詳。
・構成:全12巻。平家の栄華と没落を描いた戦記物語。
・関係年表:(1118年)清盛誕生、忠盛の嫡男として生まれる。→(1153年):清盛(36歳)、平家の棟梁。→(1156年)保元の乱、(1159年)平治の乱で清盛は平家繁栄の基礎を作る。→(1167年)清盛、太政大臣。…【1180年】4月、以仁王-平家追討の令旨。9月、源頼朝、伊豆で挙兵。→【1181年】清盛逝去(60歳)→【1183年】平家一門(宗盛、維盛、忠度ら)、安徳天皇、建礼門院とともに都落ち。(西国落ち)→【1184年】一の谷の合戦.。
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講義の内容
○『平家物語』巻七-十六
忠度都落(ただのりのみやこおち)
・平忠度は、忠盛の六男。清盛の末弟。1180年(治承4年)正四位下・薩摩守に任じられる。歌をよくしたが、「熊野育ちの大力」でもあった。
・(要約)「薩摩守忠度は、都落ちに際しては、途中で都へ引き返し、和歌の師の藤原俊成(しゅんぜい)に面会を請い、自作の和歌の巻物を預け、勅撰和歌集の選考の入集を願っている。…後に俊成は、「千載和歌集」に「読み人知らず」として歌一首を採用した。
さざ浪や志賀の都はあれにしを昔ながらの山ざくらかな
(意訳)(志賀の旧都(天智天皇の大津京)は荒れてしまったが、長等山(琵琶湖西岸にある山)の山桜は昔そのままの姿だな)
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○『平家物語』巻第九-十四
忠度最期(ただのりさいご)
「薩摩守忠度は一の谷の西の手の大将軍であったが、味方の軍勢百騎ほどの中に囲まれて、少しも慌てずに逃げていく。途中、源氏の岡部忠純が大将軍だと気が付いて、〈あなたはどういう方ですか?。お名乗り下さい〉と申し上げたので、「私は味方だ」といって、振り切ろうとした時、岡部が甲(かぶと)の中の顔を見ると、お歯黒である。源氏の中には、お歯黒をする武将などいないので、平家の公達に違いないと馬を並べて組みついたところ、この様子を見ていた百騎の平家方の武者たちは、寄せ集めの雇われ兵であるので、一騎も助けに駆けつけず、我先にと逃げていった。…熊野育ちの強力で、岡部を押さえつけて三度刀で突いた。しかし、鎧(よろい)の上からなので、軽い傷なので死ななかったのを、取り押さえて首を斬ろうとしたところ、岡部の家来が、後方から駆けてきて、打ち刀を抜き、忠度の右腕を斬り落とした。…もはやこれまでと、左手で、岡部を投げ飛ばし、西に向かって、念仏を唱えているところを、岡部が忠度の首を討つ。…名を名乗らなかったので、誰ともわからなかったが、箙(えびら・矢を入れる筒)に結ばれていた文(ふみ)を解いて見ると、「旅宿花」という題で、一首の歌が書きつけてあった。**「ゆきくれて木のしたかげをやどとせば花やこよひの主ならまし 忠度」**〈意訳:旅の途中で日が暮れて、もし桜の木の下に宿ったなら、桜の花が今夜の主となり、もてなしてくれたであろうに〉。…忠度と書かれていたので、薩摩盛忠度とわかったのであった。岡部が忠度を討ち取ったと名乗りをあげると、敵も味方も、「ああ気の毒に、武芸にも和歌の道にも秀でていらっしゃった人なのに。惜しい。」といって、落涙した。
・平家武士のお歯黒…平忠度は、源氏武士に呼び止められ、味方と偽るが、お歯黒から.平家と見破られ、討たれる。
・.平忠度の歌は、「新勅撰.和歌集」、「玉葉和歌集」、「風雅和歌集」、などにも入集。
2017/11/30のBlog
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・日時:11月28日(火)集合場所:JR大阪城公園駅 午前10時
・【見学コース】:大坂城コース案内板→大坂城北外堀→極楽橋付近→山里丸→刻印石ゾーン→本丸(天守閣内部には入らない)→桜門枡形・蛸石-南外濠→東外濠→解散:12持30分
・参加者:50名
・天候:快晴
・講師(ガイド):森岡秀人先生(橿原考古学研究所共同研究員)
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大坂城コース案内板(全体説明) (*右上の写真)
・大坂城は、過去に2回、変身している。一回目は石山本願寺から、豊臣秀吉による大坂城への変身。二回目は秀吉の大坂城から徳川幕府の大坂城への変身である。
・今日みる大坂城の石垣は、すべて徳川期もの。豊臣期のものはその下に埋もれている。徳川期の石垣は、元和六年(1620年)から寛永六年(1629年)にかけての天下普請によるもので、三回の工期に分けて実施された。
・石垣は場所により築造年代が違い、石垣の構築法が少しずつ異なる。今日の現地見学は、石垣の見方について学びます。
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大坂城外濠
・第1期工事の石垣で、石垣編年、石垣勾配の見方、矩と反りとスキなどについて学ぶ。
・矢穴…石を分割する際に石の表面に一列に開けられた穴で、その線に沿って石を割る。(矢穴の大きさは時代によって違いがある。)
・石垣出隅部分の構築法(積み方)…石の長い面を交互に使用する「算木積み」。これによって反りのある石垣が完成した。
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刻印石ゾーン
・天下普請を物語る(丁場分担を示す)証拠として、石垣表面に家紋や家印の刻印が残されている。
・刻印石広場、刻印と割普請、家紋刻印、家中組刻印
・刻印…大名家の家紋、姓・官職名等。(しかし、刻印全体から見て多いのは、石切り場における何らかの符号、目印としてきざまれた方が多い。刻印の解明には、あと100年ぐらいかかると思われる。)
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桜門枡形・蛸石
・城内第一の巨石は「蛸石」の愛称で知られている。備前岡山藩主・池田忠雄が備前犬島(推定)から運ばせたもの。高さ5.5m、横幅11.7m、推定重量130トン。
・大坂城に使われている石材は、100万個とも推定。100トンもある巨石が多く用いられていることも、大坂城の特徴の一つ。

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**あとがき**
今回の現地見学は、天候に恵まれ、大坂城を新たな視点(石垣)からみるキッカケになっただけでも良かったのでは、…。
2017/11/25のBlog
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・日時:11月24日(金)
・【コース】:阪急梅田駅(10時発)-桂駅(乗換え)-嵐山駅-渡月橋-亀山公園-展望台-常寂光寺-万葉広場(昼食)-二尊院-落柿舎-トロッコ嵐山駅-竹林の道-天龍寺-嵐山駅(現地解散15時30分) (約6km)
・参加者:20名
・天候:晴れ時々曇り
・リーダー:佐藤義夫
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渡月橋からみた秋の嵐山(*右上の写真を参照)
桂川に架かる渡月橋からみた嵐山は、春は桜、秋は紅葉の名所と、四季の移ろいが美しい。
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二尊院(にそんいん)(京都市右京区二尊院門前長神町)
嵯峨天皇の勅願により建立。釈迦如来・阿弥陀如来の二尊像を祀ることから二尊院と呼ばれる。総門から長く続く参道は、「紅葉の馬場」と称される紅葉の名所。
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竹林の道
大河内山荘から野宮神社へ向かう約100mの竹林のなかの道。空を隠すほどに茂った嵯峨野名物の竹林の小径をたどってゆく。



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天龍寺(てんりゅうじ)(京都市右京区天龍寺芒の馬場町)
室町幕府を開いた足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈って開創。臨済宗天龍寺派の大本山で京都五山の第一位。夢窓疎石作の庭園は、国の特別名勝に指定。法堂(はっとう)に釈迦・文殊・普賢の尊像があり、天井の雲龍図が傑作。

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**あとがき**
・平日というのに、大勢の人で、外国人も多い。桂駅-嵐山駅間の電車も、すし詰め状態。平安貴族の別荘地として愛された嵐山は、今も京都随一の人気観光エリア。古い寺社と自然があいまって魅力的な美景も、人が多すぎて、じっくり拝見は無理な行楽地となり、疲労感が残った一日であった。
2017/11/23のBlog
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・日時:11月16日(木)午後1時半~3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:末延國康先生(元大阪芸術大学教授)
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ポール・ゴーギャンの生涯(1848~1903年)後期印象派
・1848年パリに生まれる。…「数奇な人生」-南米のペルーで幼年時代を過ごし、船乗りや株式仲買人の仕事を経て、1882年の株価大暴落で失業。職業画家への転身。貧乏画家の一家離散へと宿命の放浪が始まる。…フランスのブルターニュ地方のポン=タヴェンやアルル、南太平洋のタヒチへ向かい、画家としての才能を開花。
◇主な作品
《裸婦習作》(1880年)、《説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)》(1888年)、《黄色いキリスト》(1889年)、《浜辺のタヒチの女たち》(1891年)、《タ・マテテ(市場)》(1892年)、《われわれはどこから来たのか・・・》(1897年)など。
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○ゴーギャンの作品(抜粋)
「説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)」
[1888年 画布・油彩 73×92cm スコットランド国立美術館]
・画面を横切る大きな樹木。その手前は現実の世界で、祈りをささげる女性たち。樹の向こうは幻影(ヤコブと天使の闘い)。二つの世界は樹によって隔てられる一方、平担にぬられた赤大地で結ばれている。
・ヤコブと天使の闘い(組打ちする人物)は、葛飾北斎の「北斎漫画の力士図」を手本にした。
・ゴーギャンは、総合主義の絵画を確立する。
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■「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか
[1897年~1898年、画布・油彩 139×375cm ボストン美術館]
・画面には、右下には赤ん坊、左下に老婆の姿、中央には手を挙げて果物を採る人物。赤ん坊は生命の始まりを表わし、老婆は終末を待っている。
・ゴーギャンは、この作品を自殺する前の遺書として制作したと言われている。
2017/11/18のBlog
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・日時:11月7日(火)am10時~12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:白石太一郎先生(大阪府立近つ飛鳥博物館館長)
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奈良・飛鳥の小山田古墳
小山田古墳は、2014年、養護学校の校舎建て替えに伴い、橿原考古学研究所が発掘調査し、想定外の巨大な石張りの掘割が出土。今年3月、新しい発表で、一辺の長さが約70mの方墳で、当時最大級の墓であることがわかった。…これは非常に大きな発見で、蘇我馬子の墓として知られる石舞台古墳よりも大きい石室を持つ巨大な方墳であることがわかった。
小山田古墳の被葬者は?
被葬者像をめぐり、研究者の間では、舒明天皇(641年没)の初葬墓とする説と、乙巳の変(645年)で滅ぼされた大豪族・蘇我蝦夷の墓とする二つの説に分かれて、議論が続いている。
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舒明天皇の墓なのか?
この時期としては最大級の大きさから、舒明天皇の初葬墓であると主張する方もいる。小山田古墳は榛原石とよばれる板石を積み上げて墳丘を化粧していた。この形状は現在舒明天皇陵と考えられている段ノ塚古墳に用いられている板石と似ているので、小山田古墳と同じ被葬者であると考える。
●【舒明天皇の初葬墓とするには、無理がある】
・飛鳥時代に大王や有力な豪族の古墳を造営したのは、土師氏と呼ばれる墳墓の造営集団であった。同じ集団が作った古墳なので、同じ技法や同じ石材を使うことは十分に考えられる。
・舒明天皇陵(段ノ塚古墳)は、日本で最初に作られた八角墳で、小山田古墳と大きな違いがある。
・小山田古墳は、7世紀後半のわずかな期間内に埋められた可能性が強い。(改葬をしたあと時間を置かずに、天皇の墓の石室を壊して濠を埋めるほどの徹底的な破壊を行なうのは、当時の常識からありえない。)
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蘇我蝦夷の墓と考える
『日本書紀』の記述を読む
《あらかじめ双墓を今来に造る。一つをば大陵と日ふ。大臣の墓とす。一つをば小陵と日ふ。入鹿臣の墓とすう。》
・大陵(おおみささぎ)は蘇我蝦夷の墓で、小陵(こみささぎ)は蘇我入鹿の墓で、死んでから周りが困らないように生前のうちに墓を造っていたと「書紀」にある。→白石先生は、小山田古墳が「蘇我蝦夷の墓」と考えられる。入鹿は年若く、蝦夷と違って墓を造る年齢ではなかった。
天皇よりも大きい墓
当時造営された天皇の墓は、最大級でも一辺が60mほどのものがほとんど。豪族の墓は、同時期の天皇の墓よりも大きくならないようにしている。…蝦夷が造らせた小山田古墳ではその配慮がなくなり、自らの本拠地である飛鳥に、天皇の墓よりも一回り大きい墓を造ってしまった。
・それゆえに、蘇我氏の専横は極まれりと、中大兄皇子らによって討たれることになった。だからこそ、完成したばかりの小山田古墳は石室も失われるほど激しい破壊にあったと思われる。破壊痕こそは、現時点では、小山田古墳が蘇我蝦夷の墓であったことのなによりの証拠なのかもしれない。