「黎明期の日本古代木簡」

・日時:4月18日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:市 大樹先生(大阪大学准教授)
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木簡について
木簡とは、発掘調査によって地中から見つかる墨で字が書いてある木片の総称。1961年「平城京跡」での最初の発見が、日本における木簡の存在が広く認知される契機になった。これまで日本で出土した木簡は、小断片や削屑(けずりくず)も含めて、総計43万点余り。

日本最古の木簡 (*右上の資料を参照。)
現在、年紀の書かれた日本最古の木簡は、難波宮跡出土の「戊申年」と書かれた木簡で、西暦648年で、大化四年にあたる。
・その他の事例を含めて、確実な日本最古級の木簡は640年代頃。当時、政治の中心である飛鳥・難波とその周辺地を中心に出土している。出土点数は少ないが、文書・記録・荷札・付札・呪符(じゅふ)・習書・その他の木簡が存在している。木簡を削り取った際の削屑も見つかっている。


法隆寺金堂釈迦三尊像の台座の補足材(*右の資料を参照)
発掘調査による出土品ではないが、法隆寺に興味深い史料がある。それは金堂釈迦三尊像の台座の補足材。もともと建物の扉材であったが、建物を解体したのち、加工して台座の補足材に転用したもので、そこに次のような墨書が残る。
・「辛巳年」(推古二九年(621))の墨書資料。(上記の648年より古い)。
・「留保分七段」「書屋一段」「尻官三段」「ツ支与三段」「椋費二段」などの墨書があり、当時「段」は布の単位として使われたことなどから、布の出納状況を記したものと考えられる。
*注目すべきは、「椋費二段」です。「椋」は「クラ」と訓(よ)む。倉庫を示す「椋」の字は、朝鮮半島で生れたもの。つぎに、「費」は、「費直」と二文字で書く場合もある。これは、氏族のカバネの一つ「直」(アタイ)の古い表記で、「椋費」(くらのあたい)は倉の出納業務に携わった渡来系氏族となる。
このころの戸籍作りなど、文字で記録する仕事は、朝鮮半島からの渡来人に頼っていたようだ。
・飛鳥京苑池遺構からは、「大椋費直伊多」と書かれた木簡が出土している。

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朝鮮半島の影響(*右の資料を参照)
◆ 『古事記』応神記
「百済の照古応(しょうこおう)が和邇吉師(わにきし)を派遣して、『論語』十巻と『千字文』一巻を伝えた話がみえる」。(年代は信用できないが、朝鮮半島の百済を経由して、両書が日本に伝わったことが説話化したものとみられる。)
日本では『論語』『千字文』は役人レベルでは広く読まれたようで、その習書木簡が多数見つかっている。
《事例》
*「観音寺遺跡出土木簡」(徳島市)(7世紀後半)−60cm以上の長大な角材を使い、四側面に墨書(『論語』学而篇の冒頭部など)…韓国の金海遺跡で論語木簡が出土。角材を使用。
*「北大津遺跡出土木簡」(滋賀県大津市.)(7世紀後半)−「字書木簡」。漢字の音を借りて、和訓を示す。(例)「賛」(田須久・タスク)、「鎧」(与里比・ヨロイ)、「慕」(尼我布・ネガフ)など。
*「飛鳥京跡苑池遺構」−「前白木簡」。飛鳥時代には上伸する際、「某の前に白(もら)す」という前白様式が広く使われた。「某の前に白す」は、宣命や祝詞で使用されることもあって、日本独自とみられがちであるが、明らかに朝鮮半島の影響を受けている。
日本語と中国語は言語体系や文法構造が大きく違う。日本語を漢字で記録するために、日本語と近い朝鮮語の記録方法を取り入れたのだろう。

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**あとがき**
・日本における木簡の隆盛は、律令国家の整備・確立とともにもたらされ、最盛期は8世紀であった。
・木簡は、用済みとなった「ゴミ」として捨てられたもの。内容も日常的な、ごく些細なものにすぎない。しかし、それだけに、当時の実態を考える第一級の史料となる。