地域で生活することの普遍さ

けっきょく、人は地域で静かに
息を引き取りたいと思うのでしょうか。

それとも、豪華な有料老人ホームで
行き届いたケアを受けて息を引き取りたいと
思うのでしょうか。

人それぞれのご意見があるでしょう。
どちらの意見にも反対はしません。

私個人の場合はです。
地域でひっそりと息を引き取りたいのですね。

私は結婚できないかもしれません。
それはそれで仕方がないと思っています。

その場合はです。一人で生活したまま、
生きてゆき、死にゆくことになるわけですよね。

なので、近所の方々とは、なるべく仲よくというか、
親しい関係性を結んでいないといけないでしょうし、
かかりつけ医、やるべきこと(仕事等)も探しておかないと
寂しくて、虚しくてたまらなくなるでしょう。

数日前は、阪神淡路大震災から20年の節目の日でしたね。
朝から特別番組が組まれ、震災被害者の方のための
住宅も取材されていました。

「孤独死」が増えているのだそうですね。
一人暮らしの高齢者の方が、余りにも寂しく亡くなってゆくのですね。

私も「孤独死」で亡くなってゆくのかもしれませんね。
両親は私より30歳ほど年上ですので、
確実に先に亡くなるでしょう。

それはどうしようもなく避けられない事ですし、
私は一人残されるわけですね。
兄がいますが、兄は別の町に家庭を持っています。
頼るわけにはいきませんね。

なので「地域で生きる術」ですよね。
コミュニティケアですよね。私のためなど(だけ)ではありませんが、
私のようにひきこもったまま、両親に先立たれ、
一人残されて生きてゆくという「孤独ひきこもり」は
これから大勢出てくると思うのですね。

だから「コミュニティケア」です。
見守りであり、地域の助け合い、話し相手、
やれること(簡単な仕事の紹介)、行き場所(居場所)の確保ですよね。

ですが、これは絵に描いた餅です。
現実的にこれを行える地域力を持ったコミュニティは
とっても少ないのだと思います。

「コミュニティケア」という言葉がはやった時期がありました。
数年前です。今ではあまり言われなくなったのでしょうか。
ですが、実践しようとしている活動家の方は大勢いらっしゃると信じます。

私はどうしても「気持ち論」に逃げてしまうのですが、
最終的にはここに行き着いてしまうと思うのですね。
人間の弱さ、情けなさ、ひどさがあるからこそ、
助け合わなくてはならないのでしょうし、
私も今はこうして偉そうなことを申し上げていますが、
いずれ両親も年を取り、動けなくなると、
ゆとりがなくなり、「助けて、助けて」とブログ等で
書いてばかりいるかもしれませんね。

「地域で生活することの普遍さ」とは、
地域に「ひきこもり」がいてもあたたかく見守る空気があること、
制度的、社会生活(地域住民の気持ち)的に何とか生活する、
生活できる空気があり、それが当たり前的になること、

そのための社会(まち)づくりが必要になってくるでしょう。
絵に描いた餅で終わらせないように、努力されている方は
大勢いらっしゃいますね。実現のための努力は半端では
ないと思いますが、頑張ってください。こころから応援と
敬意を払わせて頂きます。

最後に——何だか、余りにも悲観的な文章になってしまいました。
これでは、「ひきこもり」の将来はとてつもなく暗いものだと
決めつけているかのようですね。私のようにヤイヤイ言っている
人間(輩)を説得するかのように努力されている方々が
大勢いらっしゃるのだと私は信じていますし、
社会はそのようにクリアになってゆくのだと思います。

アメリカの俳優、ブラッド・ピットさんがある雑誌でのインタビューで
「年を取ることに不安はまったくない。年を取ると考え方が
クリアになってゆくから」
というような発言をされていました。

これを言い換えるとしたら
「社会が進んでゆくことに不安やこわさはあっても、
大丈夫だと思う。人間自身の気持ちがクリアに
進化してゆくから。祖父・祖母、父・母、息子・娘の
考え方は違うものだし、余りにも差があったりするし、
本人自身のこころもクリアになってゆく可能性に満ちているから」
ということもいえるのではないでしょうか。