2012/03/26のBlog
[ 00:47 ]
[ 東日本大震災について ]
中央公民館に着き、そこの会場の準備をされている地元の方々や今回のイベントの指揮をされている方と合流した後、共にテントやイスを並べ、会場の設営のお手伝いをしました。
作業の途中で、皆に甘酒がふるわまれ、全員の心と体を温めてくれました。
「酒が飲みたくなるなぁ」という声に、心の中で大いに共感しながら、今まで飲んだ中でも一番美味に感じた甘酒をちびりちびりと頂きました。
作業の途中で、皆に甘酒がふるわまれ、全員の心と体を温めてくれました。
「酒が飲みたくなるなぁ」という声に、心の中で大いに共感しながら、今まで飲んだ中でも一番美味に感じた甘酒をちびりちびりと頂きました。
その後皆でキャンドルを入れる竹の入れ物を並べました。それは竹の表面を削りそこにメッセージを書けるようにしたもので、案内をしてくれた人も作ったそうですが、とても難しく、時間がかかる作業だったそうです。
竹の入れ物はまとめて水に濡らしてあるものを会場に一列に並べました。水に濡らしてあるのは、乾かないようにするためで、一度キャンドルとして使えば乾いてしまい、使えなくなるそうです。
竹の入れ物はまとめて水に濡らしてあるものを会場に一列に並べました。水に濡らしてあるのは、乾かないようにするためで、一度キャンドルとして使えば乾いてしまい、使えなくなるそうです。
2012/03/19のBlog
[ 01:05 ]
[ 東日本大震災について ]
先週3月11日に、いわき芸術文化交流館(いわきアリオス)で行われた『「3.11ふくしま復興の誓い2012」~前を向き そして明日へ~』というイベントに参加&お手伝いを行いに、そして現地の方々や支援者らとの交流のためいわき市に伺いました。
このイベントでは、多くの方々のメッセージが書かれたキャンドルを、いわきアリオスと中央公民館の前に並べ、様々な催し物が開かれました。
このイベントでは、多くの方々のメッセージが書かれたキャンドルを、いわきアリオスと中央公民館の前に並べ、様々な催し物が開かれました。
このイベントでは、多くの方々のメッセージが書かれたキャンドルを、いわきアリオスと中央公民館の前に並べ、様々な催し物が開かれました。
当日は、午前中に飛行機に乗って福島県いわき市に向かい、昨年親しくさせて頂いた震災復興支援のためのグループ「いわきフェニックス」の方々と合流し、そこからいわき芸術文化交流館(いわきアリオス)に行きました。
当日は、午前中に飛行機に乗って福島県いわき市に向かい、昨年親しくさせて頂いた震災復興支援のためのグループ「いわきフェニックス」の方々と合流し、そこからいわき芸術文化交流館(いわきアリオス)に行きました。
2012/03/10のBlog
[ 23:07 ]
[ 東日本大震災について ]
[ 22:52 ]
2010年に誘われて行ったビオタウン市民プロジェクトの会議の中で縁ができたメンバー達と語りあううちに、社会にある問題を見極めて、様々な事業や活動を通じ、より大きく総合的に解決していきたい、皆の中でそういった思いが高まり、やる限りは皆責任を持ってきちんとやらねばという総意から、法人化して、決意を決めてやっていこう、という決断をしました。
そこで私が代表に選ばれ、法人設立のための準備に奔走することになりました。
ビオタウン市民プロジェクトでは自然環境を重視したまちづくりや環境教育等の事業を行っていたのですが、新法人ではそれに加え、社会教育等幅広く多種多様な教育、相談やワークショップ等を通じた心理・進路サポート等、このブログの前身である「NPO傾聴」で書いていたような理念やアイデアを活かし、それを形にして、社会問題に対処していく方針を固めました。
2010年末から2011年度初頭に向けた法人化への準備を始め、2011年の3月頃はその最終段階で、必要な書類の確認等で忙殺されていました。
そんな中、3月11日、日本の歴史にとっても未曽有の出来事である東日本大震災が起こりました。
そこで私が代表に選ばれ、法人設立のための準備に奔走することになりました。
ビオタウン市民プロジェクトでは自然環境を重視したまちづくりや環境教育等の事業を行っていたのですが、新法人ではそれに加え、社会教育等幅広く多種多様な教育、相談やワークショップ等を通じた心理・進路サポート等、このブログの前身である「NPO傾聴」で書いていたような理念やアイデアを活かし、それを形にして、社会問題に対処していく方針を固めました。
2010年末から2011年度初頭に向けた法人化への準備を始め、2011年の3月頃はその最終段階で、必要な書類の確認等で忙殺されていました。
そんな中、3月11日、日本の歴史にとっても未曽有の出来事である東日本大震災が起こりました。
2012/03/09のBlog
[ 09:50 ]
皆様、お久しぶりです。
長らくブログをお休みして失礼いたしました。
2009年から2011年まで「NPO傾聴」という名称でこのブログを始めて、記事を書いておりましたが、自分自身の身にも大きな変化があったこともあり、今後は「共生の環創造社 クマブロ」と一新して、またさまざまな情報を発信してまいれればと思います。
昨年は日本にとって非常に大きな変化があった年でした。東日本大震災ては多くの方々が犠牲になり、そして日本中の人々に激しいショックを与え、世界にも影響を及ぼしました。
機を同じくして個人的にも色々な変化がありました。一昨年から準備して去年の春に、共生の環創造社という一般社団法人を設立しました。
次回から、他の記事と併せて、2011年の共生の歩みをご紹介していければと思います。
長らくブログをお休みして失礼いたしました。
2009年から2011年まで「NPO傾聴」という名称でこのブログを始めて、記事を書いておりましたが、自分自身の身にも大きな変化があったこともあり、今後は「共生の環創造社 クマブロ」と一新して、またさまざまな情報を発信してまいれればと思います。
昨年は日本にとって非常に大きな変化があった年でした。東日本大震災ては多くの方々が犠牲になり、そして日本中の人々に激しいショックを与え、世界にも影響を及ぼしました。
機を同じくして個人的にも色々な変化がありました。一昨年から準備して去年の春に、共生の環創造社という一般社団法人を設立しました。
次回から、他の記事と併せて、2011年の共生の歩みをご紹介していければと思います。
2011/03/17のBlog
[ 00:55 ]
被災地の外国から来られた方、日本語が分からない方のためのサイトがあるのでご紹介させていただきます。
私も微力ながらボランティアで災害情報を複数スペイン語訳しています。
http://tabumane.jimdo.com/ 特定非営利活動法人 多文化共生マネージャー全国協議会
被災地や関東地方に住む外国の方をご存じの方は、このサイトを見たりお伝えして頂ければと思います。中に多言語ホットラインの連絡先もございます。
よろしくお願い致します。
皆様お久しぶりです。更新が遅れ申し訳ございませんでした。
今回、正に国難というべき震災がおこり、矢も楯もたまらず長らくお休みさせていただいたブログの更新を取り急ぎさせて頂きました。
私自身は環境の変化によりあわただしく動いておりますが、何とか元気に日々過ごしています。あいも変わらず、社会や公のために奔走していく気持ちは、依然としてふつふつと煮えたぎり高まるばかりです。
また私自身のことや社会の問題についての分析、以前の様なコラム的なもの等々も、つれづれなるままに書いていく時も近づいている気配がありますので、その際はよろしくお願い申し上げます。
私も微力ながらボランティアで災害情報を複数スペイン語訳しています。
http://tabumane.jimdo.com/ 特定非営利活動法人 多文化共生マネージャー全国協議会
被災地や関東地方に住む外国の方をご存じの方は、このサイトを見たりお伝えして頂ければと思います。中に多言語ホットラインの連絡先もございます。
よろしくお願い致します。
皆様お久しぶりです。更新が遅れ申し訳ございませんでした。
今回、正に国難というべき震災がおこり、矢も楯もたまらず長らくお休みさせていただいたブログの更新を取り急ぎさせて頂きました。
私自身は環境の変化によりあわただしく動いておりますが、何とか元気に日々過ごしています。あいも変わらず、社会や公のために奔走していく気持ちは、依然としてふつふつと煮えたぎり高まるばかりです。
また私自身のことや社会の問題についての分析、以前の様なコラム的なもの等々も、つれづれなるままに書いていく時も近づいている気配がありますので、その際はよろしくお願い申し上げます。
2010/09/12のBlog
[ 20:34 ]
[ 活動 ]
しつこいぞ!なんでやねん!いいかげんにしろ、もうええわ…どうもありがとうございましたー
と言いたくなるような相変わらずの暑さが続いている今日この頃ですが、本日はひょうごNPOユースの勉強会に行ってまいりました。
今回はNPOで働き始めて2年以内の人を対象とした勉強会でした。
午前中は今NPOで働いていて幸せことを書き、皆で答を合わせる等のゲームをし、アイスブレークをして親睦を深めました。
その後昼ご飯の前にグループに分かれ、皆クジを引いて、そのクジに書かれている要件に沿って昼食をとる、ということをしました。
午後からはmottoひょうご事務局長の栗木剛さんが「第三者から見たNPO」という講演を行って頂きました。その中で印象に残っているのは、NPOの常識が世間の非常識になることがあり、特に自分の団体からあまり外に出なければ自分の所の非常識にさえも気付かない可能性もある、というところです。
栗木さんは演技力が素晴らしく、また話の展開もスリリングで最後まで聴衆を引き付けていました。私は事情により前日は一時間の仮眠しか取らず、朝はよから汗ダラダラで大阪から直行したのですが、最後まで手に汗握る、笑い有り涙有りの講演でした。講演的視点だけではなく芸人的視点からも学ぶべきものが多くありました。
講演が終わり、名刺交換をした際には、お互いに変わった名字ですね、等とお話をしました。
次に答えにくい質問をNPOで長く働いている方々が答える時間があり、最後には全員がこれからNPOで働いていく上での決意を書きました。
今回は多くの新しい出会いがあり、また旧知の人たちとも親交を深めることができ、大変有意義な場となりました。そこにいた皆さんには感謝の一言でおます。
と言いたくなるような相変わらずの暑さが続いている今日この頃ですが、本日はひょうごNPOユースの勉強会に行ってまいりました。
今回はNPOで働き始めて2年以内の人を対象とした勉強会でした。
午前中は今NPOで働いていて幸せことを書き、皆で答を合わせる等のゲームをし、アイスブレークをして親睦を深めました。
その後昼ご飯の前にグループに分かれ、皆クジを引いて、そのクジに書かれている要件に沿って昼食をとる、ということをしました。
午後からはmottoひょうご事務局長の栗木剛さんが「第三者から見たNPO」という講演を行って頂きました。その中で印象に残っているのは、NPOの常識が世間の非常識になることがあり、特に自分の団体からあまり外に出なければ自分の所の非常識にさえも気付かない可能性もある、というところです。
栗木さんは演技力が素晴らしく、また話の展開もスリリングで最後まで聴衆を引き付けていました。私は事情により前日は一時間の仮眠しか取らず、朝はよから汗ダラダラで大阪から直行したのですが、最後まで手に汗握る、笑い有り涙有りの講演でした。講演的視点だけではなく芸人的視点からも学ぶべきものが多くありました。
講演が終わり、名刺交換をした際には、お互いに変わった名字ですね、等とお話をしました。
次に答えにくい質問をNPOで長く働いている方々が答える時間があり、最後には全員がこれからNPOで働いていく上での決意を書きました。
今回は多くの新しい出会いがあり、また旧知の人たちとも親交を深めることができ、大変有意義な場となりました。そこにいた皆さんには感謝の一言でおます。
2010/09/06のBlog
[ 00:52 ]
いやー暑は夏いね。
なんてギャグを言ってみたくなるほどの蒸し暑い日が続いておりますが、皆さまはいかがお過ごしでしょうか。こちらは日連の、いや連日の暑さで、冒頭のギャグを見てもわかるように全体的にぼけーとしており、気付いてみるともう9月といったモハメッド、いや有様です。
何とか状況を打破せねば、というわけでもないですが、長い間行けていなかった空手の教室に行ってきました。8月に空手の合宿があったのですが、それ以降は全く行けずじまいでした。
練習をすることで気合が入り、いい汗をかけたのもよかったのですが、何より久しぶりにメンバーの方々と会えたことで安堵感というか、諸行無常とは言え変わらないものを感じられ、また少しずつ練習を積み重ねて頑張っていこうという気が湧きました。
先ほど言った合宿は2泊3日の泊まり込みで、同じ流派の各道場の師範と子どもたちが参加しました。私は新参者ですので子どもらと一緒に練習をして、師範らの教えを請うたり、練習の補助をしたりしたのですが、普段とは違い大人数で練習したことや、子どもらの指導のお手伝いをしたことで、またいつもとは違う学びを得ることができました。
そして夜はおそらく毎回恒例であろう飲み会もあり、空手の現状や、それに関わる人達の熱い思いを聞くこともできました。その場にいて思ったのは、皆で本音で話し合える場というのは大切だな、ということです。今回は空手ということを主題にして皆が集まり、私の場合は初めて参加させていただいたのですが、それでも空手をやり始めたということでありがたいことにその場に居させてもらい、場を共有することができました。何か共通のことをしているもの同士が集まった方が、共感もしやすく、最初に集まるための動機づけも生まれてきます。しかしそれと同時に、たとえそれほど強固な共通項がなくとも集えるような場も意識的に作っていくことも、個人の孤立化を防ぐためには大切だな、という思いを改めて体感しました。運よく縁あって人のつながりが持てた場合はよいのですが、なかなかそういうきっかけがない場合には、とりあえずだれでも自由に来ることができ、人とつながりが持てる場を増やすことも必要だと思います。「皆で助け合う社会」とは経済的なものだけではなく、精神的な助け合いを特にこれからは重要視すべきであると思います。
なんてギャグを言ってみたくなるほどの蒸し暑い日が続いておりますが、皆さまはいかがお過ごしでしょうか。こちらは日連の、いや連日の暑さで、冒頭のギャグを見てもわかるように全体的にぼけーとしており、気付いてみるともう9月といったモハメッド、いや有様です。
何とか状況を打破せねば、というわけでもないですが、長い間行けていなかった空手の教室に行ってきました。8月に空手の合宿があったのですが、それ以降は全く行けずじまいでした。
練習をすることで気合が入り、いい汗をかけたのもよかったのですが、何より久しぶりにメンバーの方々と会えたことで安堵感というか、諸行無常とは言え変わらないものを感じられ、また少しずつ練習を積み重ねて頑張っていこうという気が湧きました。
先ほど言った合宿は2泊3日の泊まり込みで、同じ流派の各道場の師範と子どもたちが参加しました。私は新参者ですので子どもらと一緒に練習をして、師範らの教えを請うたり、練習の補助をしたりしたのですが、普段とは違い大人数で練習したことや、子どもらの指導のお手伝いをしたことで、またいつもとは違う学びを得ることができました。
そして夜はおそらく毎回恒例であろう飲み会もあり、空手の現状や、それに関わる人達の熱い思いを聞くこともできました。その場にいて思ったのは、皆で本音で話し合える場というのは大切だな、ということです。今回は空手ということを主題にして皆が集まり、私の場合は初めて参加させていただいたのですが、それでも空手をやり始めたということでありがたいことにその場に居させてもらい、場を共有することができました。何か共通のことをしているもの同士が集まった方が、共感もしやすく、最初に集まるための動機づけも生まれてきます。しかしそれと同時に、たとえそれほど強固な共通項がなくとも集えるような場も意識的に作っていくことも、個人の孤立化を防ぐためには大切だな、という思いを改めて体感しました。運よく縁あって人のつながりが持てた場合はよいのですが、なかなかそういうきっかけがない場合には、とりあえずだれでも自由に来ることができ、人とつながりが持てる場を増やすことも必要だと思います。「皆で助け合う社会」とは経済的なものだけではなく、精神的な助け合いを特にこれからは重要視すべきであると思います。
2010/07/22のBlog
[ 22:43 ]
[ エッグマンのつれづれ探求 ]
お久しぶりです(^O^)長い間更新が遅れてしまい申し訳ありません
先日偶然数人から「ブログ見てるよ~」と言われました。私如きの書くものを待って下さる方がおられるということを知り、エネルギーを頂くとともに、ブログという場でメッセージを発するということについて考えさせられました。というか実はその前からも、更新しない間、自分はなぜ、何を、どんな風にブログを書いていたのか、書いているのか、そして書くべきなのか、ということについては考えてきました。
またその分析なども行い、ブログとは何かについても皆様と考えていければと思いますが、今回は最初の部分だけでも三回出てきた単語「考える」についてカンガルー、いや、かんガエルことにします。
「考えるな。感じろ」という言葉は故ブルースリーが言った有名なセリフです。ちなみに映画『ラストサムライ』の中でもトムクルーズに向かって、彼に剣術を教えていたサムライが同じセリフを言い、その後トムクルーズが急に馬鹿みたいに強くなるという超常現象が起きます。このことから見てもこの「考えるな。感じろ」という思想(?)はブルースリーだけではなく日本の伝統にも通じると見られているようです。
或いはトムクルーズは、ブルースリーがそう言ったんだったら日本人もそう思ってんだろ、と感じたのかもしれません。勘違いはブルースリーとだけではなく、『ラストサムライ』においても明らかにアメリカの原住民と日本のサムライ(とその家族)をダブらせ、まるで日本がコロニー、植民地であったかのような印象を与え、トムクルーズ演じる主人公自身もフラッシュバックや懺悔等を通じて、どっちがどっちか混同し、日本とアメリカの先住民族を同一視しているかのようにも見えます。
余談ですが、とある外交関係の勉強会でアングロサクソン(イギリス人とかアメリカ人)の世界戦略について学び、議論した時に出てきたアングロサクソンの典型的な戦略の一つとして、同士討ちさせて力を弱めておいてから自分が乗り出す、といういわゆる「漁夫の利」戦法があります。
例えばイギリスの場合、歴史的にフランスとドイツを戦わし、疲弊させる戦略をとっています。そしてアメリカの場合(というかイギリスからの移民の場合)、先住民(ネイティブアメリカン)を滅ぼすためにとった戦略は、大陸に散らばる一つ一つの族を潰していくのは大変なので、一部の先住民の族に新式の武器を与え、その敵対する族を滅ぼさせておいてから、最初に助けた族をまとめて潰す、といったものです。
そうやってみると『ラストサムライ』も、いわゆるアメリカのとってきた世界戦略とそれを戯画化したいわゆるインディアン映画に酷似しており、さらにはブルースリーの言葉もパクっているので、岡本真夜さんやジャッキーチェンもびっくりのパクリ技が炸裂している、という見方も出来ます。もちろん監督自身はどこまで自覚的か分かりませんし、彼のオリジナリティーも沢山出ていると思いますので、パクリだけではないでしょうが。
ただそういう見方で見ると、この映画のヒロインの小雪さんもポカホンタスのように見えてきます。そしてトムハンクス、いやトムクルーズは愛する者と“正義”のため一人でアメリカとそれから軍事援助を受けた原住民共、いや厳密に言えば彼らの持っている銃器、特にマシンガン(それがなければただの雑魚共)と戦うのです。まさに北野武監督の『ブラザー』のクライマックスを彷彿とさせ、涙なしには見られません。彼には是非“ブラザー”の称号を与えて、これからはブラザー・トムと呼ばせて頂きます。
さてさて(かなり)話を戻しまして、「考えるな。感じろ」という言葉の意味を自分なりに考えてみると、武道などにおいては、「あっ、今右ストレート来るな」などと考えて、ゼロコンマ何秒遅れただけで勝負に負けてしまう、だからいちいち脳に信号を送る前に反射神経のように判断し動くことが大切で、そのためには日々の厳しい鍛練が必要だ、という解釈になります。私も少しは武道をかじっているとはいえ、まだまだ超弩級の新参者ですので、あまり大きなことは言えませんが、ブルースリーは「考えるな」と言っているのではなく、より高速にしかしより深く考えられ、判断でき、そして瞬時に行動出来ることが、武道において重要であるということを、この「考えるな。感じろ」というメッセージにこめたのではないか、と感じます。
頭だけではなく、五感を使い学ぶということは(広い意味での)学習の基本であり、これからの教育等においてもその点を考慮することは大切でありますが、かといって「考える」ということの重要性が減ることはなく、逆に高まっていくと思います。
そもそも「考える」ことと「感じる」ことを対立させること自体どうかとも思います。別に考えれば感じられなくなるわけではなく、その逆もしかりです。
「考えなくていいんだ。フィーリングだよ。フィーリンぐ~」という考え方はギャグとしては良くとも、生きる上においては多少問題があるかと思います。ですので偉大な故ブルースリーの言葉を引用する際にも、「考えるな」の方ばかりを強調せずに、「感じながら考えろ。考えながら感じろ」の意味で捉えた方がより的確な感じがします。
まあむしろ逆に「感じるな…考えろ」くらい言ったった方がええんちゃいまっかー!!
…急に誰?何のキャラ?( ̄○ ̄;)
なんて意見もあってもええんちゃいまっかー!!
また…まさかの2度づけ( ̄○ ̄;)
というわけでまたぼちぼちと書いていきますのでよろしこーんo(`へ')○

先日偶然数人から「ブログ見てるよ~」と言われました。私如きの書くものを待って下さる方がおられるということを知り、エネルギーを頂くとともに、ブログという場でメッセージを発するということについて考えさせられました。というか実はその前からも、更新しない間、自分はなぜ、何を、どんな風にブログを書いていたのか、書いているのか、そして書くべきなのか、ということについては考えてきました。
またその分析なども行い、ブログとは何かについても皆様と考えていければと思いますが、今回は最初の部分だけでも三回出てきた単語「考える」についてカンガルー、いや、かんガエルことにします。
「考えるな。感じろ」という言葉は故ブルースリーが言った有名なセリフです。ちなみに映画『ラストサムライ』の中でもトムクルーズに向かって、彼に剣術を教えていたサムライが同じセリフを言い、その後トムクルーズが急に馬鹿みたいに強くなるという超常現象が起きます。このことから見てもこの「考えるな。感じろ」という思想(?)はブルースリーだけではなく日本の伝統にも通じると見られているようです。
或いはトムクルーズは、ブルースリーがそう言ったんだったら日本人もそう思ってんだろ、と感じたのかもしれません。勘違いはブルースリーとだけではなく、『ラストサムライ』においても明らかにアメリカの原住民と日本のサムライ(とその家族)をダブらせ、まるで日本がコロニー、植民地であったかのような印象を与え、トムクルーズ演じる主人公自身もフラッシュバックや懺悔等を通じて、どっちがどっちか混同し、日本とアメリカの先住民族を同一視しているかのようにも見えます。
余談ですが、とある外交関係の勉強会でアングロサクソン(イギリス人とかアメリカ人)の世界戦略について学び、議論した時に出てきたアングロサクソンの典型的な戦略の一つとして、同士討ちさせて力を弱めておいてから自分が乗り出す、といういわゆる「漁夫の利」戦法があります。
例えばイギリスの場合、歴史的にフランスとドイツを戦わし、疲弊させる戦略をとっています。そしてアメリカの場合(というかイギリスからの移民の場合)、先住民(ネイティブアメリカン)を滅ぼすためにとった戦略は、大陸に散らばる一つ一つの族を潰していくのは大変なので、一部の先住民の族に新式の武器を与え、その敵対する族を滅ぼさせておいてから、最初に助けた族をまとめて潰す、といったものです。
そうやってみると『ラストサムライ』も、いわゆるアメリカのとってきた世界戦略とそれを戯画化したいわゆるインディアン映画に酷似しており、さらにはブルースリーの言葉もパクっているので、岡本真夜さんやジャッキーチェンもびっくりのパクリ技が炸裂している、という見方も出来ます。もちろん監督自身はどこまで自覚的か分かりませんし、彼のオリジナリティーも沢山出ていると思いますので、パクリだけではないでしょうが。
ただそういう見方で見ると、この映画のヒロインの小雪さんもポカホンタスのように見えてきます。そしてトムハンクス、いやトムクルーズは愛する者と“正義”のため一人でアメリカとそれから軍事援助を受けた原住民共、いや厳密に言えば彼らの持っている銃器、特にマシンガン(それがなければただの雑魚共)と戦うのです。まさに北野武監督の『ブラザー』のクライマックスを彷彿とさせ、涙なしには見られません。彼には是非“ブラザー”の称号を与えて、これからはブラザー・トムと呼ばせて頂きます。
さてさて(かなり)話を戻しまして、「考えるな。感じろ」という言葉の意味を自分なりに考えてみると、武道などにおいては、「あっ、今右ストレート来るな」などと考えて、ゼロコンマ何秒遅れただけで勝負に負けてしまう、だからいちいち脳に信号を送る前に反射神経のように判断し動くことが大切で、そのためには日々の厳しい鍛練が必要だ、という解釈になります。私も少しは武道をかじっているとはいえ、まだまだ超弩級の新参者ですので、あまり大きなことは言えませんが、ブルースリーは「考えるな」と言っているのではなく、より高速にしかしより深く考えられ、判断でき、そして瞬時に行動出来ることが、武道において重要であるということを、この「考えるな。感じろ」というメッセージにこめたのではないか、と感じます。
頭だけではなく、五感を使い学ぶということは(広い意味での)学習の基本であり、これからの教育等においてもその点を考慮することは大切でありますが、かといって「考える」ということの重要性が減ることはなく、逆に高まっていくと思います。
そもそも「考える」ことと「感じる」ことを対立させること自体どうかとも思います。別に考えれば感じられなくなるわけではなく、その逆もしかりです。
「考えなくていいんだ。フィーリングだよ。フィーリンぐ~」という考え方はギャグとしては良くとも、生きる上においては多少問題があるかと思います。ですので偉大な故ブルースリーの言葉を引用する際にも、「考えるな」の方ばかりを強調せずに、「感じながら考えろ。考えながら感じろ」の意味で捉えた方がより的確な感じがします。
まあむしろ逆に「感じるな…考えろ」くらい言ったった方がええんちゃいまっかー!!
…急に誰?何のキャラ?( ̄○ ̄;)
なんて意見もあってもええんちゃいまっかー!!
また…まさかの2度づけ( ̄○ ̄;)
というわけでまたぼちぼちと書いていきますのでよろしこーんo(`へ')○
2010/06/02のBlog
[ 17:08 ]
久しぶりにスペインに住む母が日本に一時的に戻ってまいりました。母は向こうで介護福祉士として公的機関で訪問介護の仕事をしています。日本に来るときに、行っている家の淑女から泣きつかれ、「行かないで!行かないで!」とか「帰ってくると約束してちょうだい!」とか「息子さんとお母さんによろしくね」とか言われたそうですので、わが母ながら立派なことをしているのだと誇らしげに思います。普段はそれほど話す習慣はないのですが、久方ぶりに話をすることで刺激を受け、私も負けずに自分なりの道で頑張らなあかんな、という思いが益々強まってきました。
我が家は経済的には豊かではなく、どこをたたいても埃くらいしか出ませんが、少しずつでも徳を積み上げられていけば、何千万円のおこずかいや莫大な資産よりも将来の助けとなるのではないでしょうか。私はまだまだ不徳であり、ふつつか者ですので、これからも精進してまいりたいと思います。
さて堅い話はこれ位にして、今回土産話と共にいろいろな物資の方も持ってきてくれたので、その方に移りませう。
まず一つ目の写真にあるのは、私の酒の「友」といえるオリーブさんです。
我が家は経済的には豊かではなく、どこをたたいても埃くらいしか出ませんが、少しずつでも徳を積み上げられていけば、何千万円のおこずかいや莫大な資産よりも将来の助けとなるのではないでしょうか。私はまだまだ不徳であり、ふつつか者ですので、これからも精進してまいりたいと思います。
さて堅い話はこれ位にして、今回土産話と共にいろいろな物資の方も持ってきてくれたので、その方に移りませう。
まず一つ目の写真にあるのは、私の酒の「友」といえるオリーブさんです。
話は変わりますが皆さんは「友」という言葉を聞いてまず初めに何を連想されるでしょうか。友愛ですか。
世の中にはいろいろな「友」がいます。心の友、竹馬の友、ご飯の友、そして今回紹介する酒の友…。普段はあまり気がつかないかもしれませんが、我々は様々な「友」に囲まれ、そして支えられているのかもしれません。友に歩き、友に笑い、友に泣き、永遠に友に…
オリーブというと油のイメージが強いかもしれませんが、そのままでも食することができ、大変おいしゅうございますね。時々ピザの上でも見かけたりしますが、やはりお酒を片手にオリーブの実をつまむ、これに勝るものはございません。
一口噛めば脂がしみ出て、お口の中はパラダイス銀河。遊ぼうよコロンブス。お酒はぬるめの燗でいい。まあ出来ればワインかビールが合うかと思いますが、何にでもあうでしょう。
飲む方はぜひ一度ご賞味あれ。もちろん飲みすぎには気を付けてください。
飲みすぎと言えば、余談ですが、三国志で諸葛孔明のライバルとして描かれることの多い呉の将周瑜は、どんだけ酒を飲んでいても、宴会に呼ばれている生バンドの演奏に間違いがあれば、それにするどく気づき振り向いたそうです( ̄ー+ ̄)こんな顔で。このことから人は「曲に誤りあれば周郎が振り向く」と言ったそうですが、我々もどうせ飲むならこのくらいのレベルで飲みたいものです。
ちなみに二枚目の写真のオリーブは中にアンチョビが入っております。
世の中にはいろいろな「友」がいます。心の友、竹馬の友、ご飯の友、そして今回紹介する酒の友…。普段はあまり気がつかないかもしれませんが、我々は様々な「友」に囲まれ、そして支えられているのかもしれません。友に歩き、友に笑い、友に泣き、永遠に友に…
オリーブというと油のイメージが強いかもしれませんが、そのままでも食することができ、大変おいしゅうございますね。時々ピザの上でも見かけたりしますが、やはりお酒を片手にオリーブの実をつまむ、これに勝るものはございません。
一口噛めば脂がしみ出て、お口の中はパラダイス銀河。遊ぼうよコロンブス。お酒はぬるめの燗でいい。まあ出来ればワインかビールが合うかと思いますが、何にでもあうでしょう。
飲む方はぜひ一度ご賞味あれ。もちろん飲みすぎには気を付けてください。
飲みすぎと言えば、余談ですが、三国志で諸葛孔明のライバルとして描かれることの多い呉の将周瑜は、どんだけ酒を飲んでいても、宴会に呼ばれている生バンドの演奏に間違いがあれば、それにするどく気づき振り向いたそうです( ̄ー+ ̄)こんな顔で。このことから人は「曲に誤りあれば周郎が振り向く」と言ったそうですが、我々もどうせ飲むならこのくらいのレベルで飲みたいものです。
ちなみに二枚目の写真のオリーブは中にアンチョビが入っております。
このalcachofaという野菜はよくパエリアなどに入っています。タケノコのように何層かの堅めの皮に覆われていて、普通は中身の柔らかいところだけを食べるのですが、私の通っていた学校の給食ではよく皮も入っていて難儀したことがあります。
2010/05/23のBlog
[ 00:35 ]
[ エッグマンのつれづれ探求 ]
私は闇の中を歩く。
遠い目的地に向い、ひたすら足を前に運ぶ
頑丈だった足は徐々に乳酸が溜まり、引きずるようになる。靴は擦り切れ、服は汗と少し前から降り始めた雨で湿り気を帯びる
呼吸は荒くなり、疲労感と倦怠感に襲われ、歩を止めそうになりながら、しかし私の中の希望の灯に気付く。恐らく方向は間違っていない。なぜなら私は目的地を知っているから
一人道を歩いていると、色々なことが頭を駆け巡る。そして何か懐かしい感覚におそわれる
そういえば、前はいつだっただろうか…
終電に乗り遅れたのは
今回は珍しくポエムらしきものを書いてみましたが、実際歩いていると贅肉が削ぎおとされ、雑念も浄化される感覚になります。
例え終電に乗り遅れても、てやんでぃバーロ畜生!、Fu○k!、¡Hijo de pu○a!等と思うのではなく見方を変えて、天が自分に歩く機会を与えてくれた(少なくとも)、と感謝の気持ちを持てば、歩いている時間を学びや振り返りの時として使うことも出来ます。
人事が万事塞翁が馬
千里の道も一歩から
三歩進んで二歩さがる
江戸川乱歩よりエドガー・アラン・ポー…
最後はあまり関係なかったですが、迷い、つまずきながらもしぶとく前に進んでいく精神を大切に、これからも歩いていきたいと思います。
遠い目的地に向い、ひたすら足を前に運ぶ
頑丈だった足は徐々に乳酸が溜まり、引きずるようになる。靴は擦り切れ、服は汗と少し前から降り始めた雨で湿り気を帯びる
呼吸は荒くなり、疲労感と倦怠感に襲われ、歩を止めそうになりながら、しかし私の中の希望の灯に気付く。恐らく方向は間違っていない。なぜなら私は目的地を知っているから
一人道を歩いていると、色々なことが頭を駆け巡る。そして何か懐かしい感覚におそわれる
そういえば、前はいつだっただろうか…
終電に乗り遅れたのは

例え終電に乗り遅れても、てやんでぃバーロ畜生!、Fu○k!、¡Hijo de pu○a!等と思うのではなく見方を変えて、天が自分に歩く機会を与えてくれた(少なくとも)、と感謝の気持ちを持てば、歩いている時間を学びや振り返りの時として使うことも出来ます。
人事が万事塞翁が馬
千里の道も一歩から
三歩進んで二歩さがる
江戸川乱歩よりエドガー・アラン・ポー…
最後はあまり関係なかったですが、迷い、つまずきながらもしぶとく前に進んでいく精神を大切に、これからも歩いていきたいと思います。
2010/05/07のBlog
[ 23:10 ]
[ 活動 ]
新年度が始まり、先月はてんやわんやしていましたが、ようやくペースがつかめてきました。
昨年度から私にも多少の変化があり、四月から自然あふれる美しいKという市(ブログをくまなく見て頂ければ大体すぐわかります)の市民活動センターの運営スタッフとして勤務するようになりました。まだまだ微力ですが市民活動を幅広くサポートするという立場になりました。いつもそこにいるわけではないですが、市民活動に興味のある方は一度おいで下さい。
さて今回その市民活動センターの近くにある神社で護摩を焚くということで、ゴマキ(護摩木)を頂いていたのですが、今日それに93歳になる祖母と連名で願いを書きました。
昨年度から私にも多少の変化があり、四月から自然あふれる美しいKという市(ブログをくまなく見て頂ければ大体すぐわかります)の市民活動センターの運営スタッフとして勤務するようになりました。まだまだ微力ですが市民活動を幅広くサポートするという立場になりました。いつもそこにいるわけではないですが、市民活動に興味のある方は一度おいで下さい。
さて今回その市民活動センターの近くにある神社で護摩を焚くということで、ゴマキ(護摩木)を頂いていたのですが、今日それに93歳になる祖母と連名で願いを書きました。
護摩を広辞苑で調べてみると、『密教で、火炉を設け、乳木などを焚いて本尊に祈ること。智慧の火で煩悩の薪を焚き、息災・増益・降伏・敬愛を祈願する。不動明王などが本尊とされる。』とあります。古い広辞苑ですので今では若干定義が変わっているかもしれません(そんなに大きくは変わっていないとは思いますが)。
行者が私たちや他の多くの方の願いのこもったゴマキを焼き、その成就を祈願をする護摩焚きは日曜にあるそうで、ちょうどその日はセンターの方にいるので、護摩を焚いている煙が漂ってくるかもしれません。
行者が私たちや他の多くの方の願いのこもったゴマキを焼き、その成就を祈願をする護摩焚きは日曜にあるそうで、ちょうどその日はセンターの方にいるので、護摩を焚いている煙が漂ってくるかもしれません。
[ 22:55 ]
[ エッグマンのつれづれ探求 ]
時々思い出したように性教育についての議論が起こることがありますが、その議論を見てみると体や生殖器に関する内容の是非に重点が置かれていて、あまり「愛」に関する教育については触れられません。
確かに体の成長等とは違って、「愛」とは何かという統一見解がないので、教育の中にいれるのは難しいという点があります。
「愛」と言ってもこの前のビオタウンのところでも述べたように自然に対する愛もありますし、人に対する愛でも、某首相の言う友愛の様な(若干キリスト教ちっくな)隣人愛的なものもあります。
愛に関する定義も様々ですが、一応もっともらしい…いや納得しやすそうな例を一つあげると「ある他人(B)の幸せを自分(A)の幸せのように感じ、その他人(B)も自分(A)の幸せを当人(B)の幸せのように感じる、これが愛なんだー!」というものがあります。恐らくこの考え方によると、この精神に基づいて恋愛も性愛も発生する、つまりは全てはこの「愛」の精神がベースとなり、性愛等は大きな「愛」の中の一部となります。
ではそれならば性教育など部分的なことを大々的にやらずに、「愛」についての教育をまず優先的にやったらいいじゃないか、ということになります。
ただ先程述べたように愛に関する定義が定まっておらず(逆に個人的には完全に定まってしまうと怖いような気がしますが)、一つの考えを押し付けるのは、教育的、心理的にまずいのなら、「愛」にとは何かについて議論するような教育を行うことも一つの方法でしょう。それと同時平行して性教育も行えば良いのではないでしょうか(バイオロジーの一環としてやるのも面白そうです)。
一方、「実際の恋愛で性と愛を分けることは難しい、従って肉体的な『性』と精神的な『愛』を分けて教育するのはいかがなものか」、といった反論もあるかと思います。
これもある程度説得力がある意見ですので、それを踏まえて、恋愛の精神的な部分と肉体的(性的)な部分を違ったもの、相反するものとして分けるのではなく、恋愛に関しては幾つかの重要な要素が相互に作用しあっているという図式でとらえるという方法もあります。
例としては、精神的な「愛」、性的な欲求、自己承認の欲求等々、恋愛を総合的に見て、そして個別に詳しく(諸説等を)説明し、議論を促していく。物議を醸しがちな性交や性器についての説明等は性的な欲求の中で説明していけば良いのではないでしょうか。
確かに体の成長等とは違って、「愛」とは何かという統一見解がないので、教育の中にいれるのは難しいという点があります。
「愛」と言ってもこの前のビオタウンのところでも述べたように自然に対する愛もありますし、人に対する愛でも、某首相の言う友愛の様な(若干キリスト教ちっくな)隣人愛的なものもあります。
愛に関する定義も様々ですが、一応もっともらしい…いや納得しやすそうな例を一つあげると「ある他人(B)の幸せを自分(A)の幸せのように感じ、その他人(B)も自分(A)の幸せを当人(B)の幸せのように感じる、これが愛なんだー!」というものがあります。恐らくこの考え方によると、この精神に基づいて恋愛も性愛も発生する、つまりは全てはこの「愛」の精神がベースとなり、性愛等は大きな「愛」の中の一部となります。
ではそれならば性教育など部分的なことを大々的にやらずに、「愛」についての教育をまず優先的にやったらいいじゃないか、ということになります。
ただ先程述べたように愛に関する定義が定まっておらず(逆に個人的には完全に定まってしまうと怖いような気がしますが)、一つの考えを押し付けるのは、教育的、心理的にまずいのなら、「愛」にとは何かについて議論するような教育を行うことも一つの方法でしょう。それと同時平行して性教育も行えば良いのではないでしょうか(バイオロジーの一環としてやるのも面白そうです)。
一方、「実際の恋愛で性と愛を分けることは難しい、従って肉体的な『性』と精神的な『愛』を分けて教育するのはいかがなものか」、といった反論もあるかと思います。
これもある程度説得力がある意見ですので、それを踏まえて、恋愛の精神的な部分と肉体的(性的)な部分を違ったもの、相反するものとして分けるのではなく、恋愛に関しては幾つかの重要な要素が相互に作用しあっているという図式でとらえるという方法もあります。
例としては、精神的な「愛」、性的な欲求、自己承認の欲求等々、恋愛を総合的に見て、そして個別に詳しく(諸説等を)説明し、議論を促していく。物議を醸しがちな性交や性器についての説明等は性的な欲求の中で説明していけば良いのではないでしょうか。
その一方自分の中には、「愛」に関してあれこれ説明出来るものなのか、いやそれ以前にしてもよいものなのか、という(ロマンチスト的な)疑問もあります。従って教育の範囲では必要最低限な知識を教え、考えさせるという程度に抑えて、後は本人の良心と自由意思(これを育むための教育は別途行って)に任せるという感じで良いんじゃないかと思います。
余談ですが、ある飲み会で格差について論じ、その中で恋愛格差について半分ネタっぽく、
「そもそも恋愛なんて数値化出来るものじゃないのに、何をもって格差というのか」
と述べたところ、そこにいた若い女性に、
「その考え方は高校生までよ」
とツッコミをいれられました。まあ確かに高校生になる前に日本から離れたので、ここではまだ高校生扱いでしょうが(んなこたーない)。
冗談はさておいてこの恋愛格差については、就労問題、少子化、そして何より幸福度に関連するところも大きく、個人的にはかなり深刻で、“格差問題”の中でももっと重要視されてもよいのではないかと認識しています。またこれもとりあげたいとは思いますが、心理的にも結構ヘビーなテーマとなりそうです。
さて今回は性教育から「愛」についても少し見ていきましたが、私自身はいわゆる耐え忍ぶ恋というのも「愛」の一つに加えてもいいじゃないか、と思うところがあります。例え相手と両想いにならずとも、誰かを大切に想う心自体が尊い、という考え方もこれからの時代見直されるかもしれません。
某首相による性教育ならぬ友愛教育構想(あるのか?)にも多少期待しますが、日本古来(マジで?鍋島藩だけじゃね?)の葉隠的純愛教育構想、或いは、世に生を受けるもの全てを尊重する八百万愛教育(こちらは結構日本古来っぽい)教育なんてのも、温故知新でオリジナリティーもありなかなか面白そうです。
余談ですが、ある飲み会で格差について論じ、その中で恋愛格差について半分ネタっぽく、
「そもそも恋愛なんて数値化出来るものじゃないのに、何をもって格差というのか」
と述べたところ、そこにいた若い女性に、
「その考え方は高校生までよ」
とツッコミをいれられました。まあ確かに高校生になる前に日本から離れたので、ここではまだ高校生扱いでしょうが(んなこたーない)。
冗談はさておいてこの恋愛格差については、就労問題、少子化、そして何より幸福度に関連するところも大きく、個人的にはかなり深刻で、“格差問題”の中でももっと重要視されてもよいのではないかと認識しています。またこれもとりあげたいとは思いますが、心理的にも結構ヘビーなテーマとなりそうです。
さて今回は性教育から「愛」についても少し見ていきましたが、私自身はいわゆる耐え忍ぶ恋というのも「愛」の一つに加えてもいいじゃないか、と思うところがあります。例え相手と両想いにならずとも、誰かを大切に想う心自体が尊い、という考え方もこれからの時代見直されるかもしれません。
某首相による性教育ならぬ友愛教育構想(あるのか?)にも多少期待しますが、日本古来(マジで?鍋島藩だけじゃね?)の葉隠的純愛教育構想、或いは、世に生を受けるもの全てを尊重する八百万愛教育(こちらは結構日本古来っぽい)教育なんてのも、温故知新でオリジナリティーもありなかなか面白そうです。