2009/12/31のBlog
[ 15:57 ]
いよいよ、今年も西郷どん…いや最後の日です。
まず最初に、今年このブログを見てくださった皆さん、本当にありがとうございました。
このブログは三か月ほど前に始まりましたが、最初はトップページのみ書いて、そこから次に何を書くのか考えながら、手探り状態のまま書き続けて参りました。ここまで続けてこれたのは(まだ三か月やないかいっ)ひとえにブログを読んでくださった皆さんのおかげだと思います。
これからも幅広い視点をもって、面白く骨のあるブログを創ることを目指して頑張っていきたいと思います。ぜひこれからもまたコメントや意見、ご報告等々何でも頂ければこれ幸いです。
まず最初に、今年このブログを見てくださった皆さん、本当にありがとうございました。
このブログは三か月ほど前に始まりましたが、最初はトップページのみ書いて、そこから次に何を書くのか考えながら、手探り状態のまま書き続けて参りました。ここまで続けてこれたのは(まだ三か月やないかいっ)ひとえにブログを読んでくださった皆さんのおかげだと思います。
これからも幅広い視点をもって、面白く骨のあるブログを創ることを目指して頑張っていきたいと思います。ぜひこれからもまたコメントや意見、ご報告等々何でも頂ければこれ幸いです。
このブログは始めから今までは私個人でやっており、NPO傾聴も今のところ実質的には団体というより、私一人で他の団体などで活動している状況です。ですから何の縛りも気兼ねもありませんので、何か活動をしてみたい、或いは興味のある方は気楽に連絡先の方にご一報頂けると有り難いです\(^o^)/。誰に対しても常に門戸は開いていますし、私自身も来年はさらに積極的に活動の方を行いますので、多くの人と関わっていければと思っています。
来年はお互いに良い年になるように、そして皆さんと共に面白く意義のあることが出来るよう願いつつ、一人ミカンを食べます。いつか鐘の音に合わせて108個食うのにチャレンジしたいような気もしますが、今年は12個くらいで押さえておきます。
¡Gracias a todos!
¡Viva Japón!
来年はお互いに良い年になるように、そして皆さんと共に面白く意義のあることが出来るよう願いつつ、一人ミカンを食べます。いつか鐘の音に合わせて108個食うのにチャレンジしたいような気もしますが、今年は12個くらいで押さえておきます。
¡Gracias a todos!
¡Viva Japón!
2009/12/30のBlog
[ 18:32 ]
[ 市民自治 ]
師走になったでごわす、なんて言っている内にもう十二月も終わりに近付いています。
今月はなんやらかんやらで忙しくブログに書くべきことが溜まっている状況でおまして、とりあえず急いで今年が終わらない内に遅ればせながらですが、今回は11月28日に参加した第二回自治の学校「アソシエーション革命とNPO~市民自治におけるNPOの積極的な役割とは」についてご報告させて頂ければと思います。
前回の第一回自治の学校についてはこのブログで書き、講義の内容でもあった「民主主義と市民自治」について考察しましたが、今回はその第二弾です。
今回の講師は田畑稔さんで、主にアソシエーション論についてお話をされました。最初に今回は哲学的な話になると講師が言われたので内心興奮しました。私が講義の後や懇親会の時にいろいろ質問した際には、とても丁寧に一つ一つ答えて頂き、講師の方のお人柄には哲学や思考することに対してとても誠実で真面目な印象を受けました。
今回も前回同様講義の後にグループセッションがあり、各グループのプレゼンテーションがありました。そしてまたこの度も場の空気により私がプレゼンをすることとなり、有り難く拝命しました。
ではその詳細や講義の内容等については次の機会にお伝え出来ればと思います。
今月はなんやらかんやらで忙しくブログに書くべきことが溜まっている状況でおまして、とりあえず急いで今年が終わらない内に遅ればせながらですが、今回は11月28日に参加した第二回自治の学校「アソシエーション革命とNPO~市民自治におけるNPOの積極的な役割とは」についてご報告させて頂ければと思います。
前回の第一回自治の学校についてはこのブログで書き、講義の内容でもあった「民主主義と市民自治」について考察しましたが、今回はその第二弾です。
今回の講師は田畑稔さんで、主にアソシエーション論についてお話をされました。最初に今回は哲学的な話になると講師が言われたので内心興奮しました。私が講義の後や懇親会の時にいろいろ質問した際には、とても丁寧に一つ一つ答えて頂き、講師の方のお人柄には哲学や思考することに対してとても誠実で真面目な印象を受けました。
今回も前回同様講義の後にグループセッションがあり、各グループのプレゼンテーションがありました。そしてまたこの度も場の空気により私がプレゼンをすることとなり、有り難く拝命しました。
ではその詳細や講義の内容等については次の機会にお伝え出来ればと思います。
2009/12/25のBlog
[ 11:54 ]
[ 極上の音楽 del mundo ]
個人的な考えですが、私は皆が海外からきた祝日に便乗して何かをするというのはどうかなと思います。
例えばクリスマスにケン〇ッキーで鳥(どうせ食うなら七面鳥を食うべし)を売る習慣がなくなっても、バレンタインのチョコレートをあげる習慣が無くなったとしても、1mmたりとも私には影響を与えません。
祝日に便乗するようなのにはろくな奴がいないのではないでしょうか。
さて今回はクリスマスにお勧めの音楽を紹介したいと思います。
(▼皿▼メ)怒殺っ!
(*`Д´*)ノ"お前も便乗しとるやないか~い!
メリ!クリ!ミシッ!
え~まあということで、日本は海外の文化を積極的に取り入れ、発展させる素晴らしい国だということにしておいて、お勧めの音楽を紹介したいと思います。
やはりクリスマスはリズミカルで明るい曲を聴くのも良いもの。基本的に私はそれ程明るい曲は好きではありませんが、リズミカルといえばテクノ系でしょうか。
さてお勧めの歌手の一人目(一組目)はAquaというグループです。
彼らの曲自体も軽快な感じでいいのですが、ビデオクリップが面白く、特にDoctor Jonesという曲のビデオクリップは曲と上手くマッチしていて良い感じです。曲自体も軽快で、思わず口ずさんでしまうかもしれません。昔の冒険ものの映画で似たようなシーンを見たことがあるかもしれませんが、きっとそれは気のせいです。
私自身はTurn back timeという曲が好きです。この曲は彼らにしては珍しく(?)バラードで、少し切ない気持ちになりながら、思わず口ずさんでしまうかも知れません。ちなみにスペインのウィキペディアによると、彼らの話では、この曲は彼らが楽しい曲以外のものも出来ることを示した、ある種のイメチェン(スタイルの変化)の意味があったとのことです。
後Barbie Girlという曲のビデオクリップでは、なぜか日本語のテロップでメンバー全員の紹介をしています。ちなみにこの曲はメガヒットしました。
例えばクリスマスにケン〇ッキーで鳥(どうせ食うなら七面鳥を食うべし)を売る習慣がなくなっても、バレンタインのチョコレートをあげる習慣が無くなったとしても、1mmたりとも私には影響を与えません。
祝日に便乗するようなのにはろくな奴がいないのではないでしょうか。
さて今回はクリスマスにお勧めの音楽を紹介したいと思います。
(▼皿▼メ)怒殺っ!
(*`Д´*)ノ"お前も便乗しとるやないか~い!
メリ!クリ!ミシッ!
え~まあということで、日本は海外の文化を積極的に取り入れ、発展させる素晴らしい国だということにしておいて、お勧めの音楽を紹介したいと思います。
やはりクリスマスはリズミカルで明るい曲を聴くのも良いもの。基本的に私はそれ程明るい曲は好きではありませんが、リズミカルといえばテクノ系でしょうか。
さてお勧めの歌手の一人目(一組目)はAquaというグループです。
彼らの曲自体も軽快な感じでいいのですが、ビデオクリップが面白く、特にDoctor Jonesという曲のビデオクリップは曲と上手くマッチしていて良い感じです。曲自体も軽快で、思わず口ずさんでしまうかもしれません。昔の冒険ものの映画で似たようなシーンを見たことがあるかもしれませんが、きっとそれは気のせいです。
私自身はTurn back timeという曲が好きです。この曲は彼らにしては珍しく(?)バラードで、少し切ない気持ちになりながら、思わず口ずさんでしまうかも知れません。ちなみにスペインのウィキペディアによると、彼らの話では、この曲は彼らが楽しい曲以外のものも出来ることを示した、ある種のイメチェン(スタイルの変化)の意味があったとのことです。
後Barbie Girlという曲のビデオクリップでは、なぜか日本語のテロップでメンバー全員の紹介をしています。ちなみにこの曲はメガヒットしました。
私は基本的にラブソングはあまり好きではないかと思うのですが、意外と印象に残った曲の中にはラブソングがあります。
Shania TwainのCome on over も耳に残っている曲の一つです。これはスペインの音楽番組かラジオで聴いて印象に残ったものと思われます。
高校の時通っていたアメリカンスクールで遠足があり、行く時のバスの中で皆テープを持ちあってお気に入りの曲を流しました。
私はラジオで気に入った曲を自分で編集して普段聴いていたテープを渡したのですが、良い曲ばっかり集めていると結構好評で、仲の良かったクラスメートに貸してくれ、と言われて長い間貸すはめになってしまいました。この曲はその中に入っていた一曲です。
このCome on overはスペインだけではなく、全世界で相当売れた曲で、歌手も結構有名だそうですが、私はこの曲しか知りません。その頃はテレビやラジオを通じて知った曲を聴いて、良ければラジオからダビングするという感じで、一人の歌手の曲を集中して聴くというよりも、色んな人の曲を聴いていたので、例外を除いては歌手についてはその聴いた曲しかしらないということも多いです。
これは余談ですが、最初この曲のタイトルも歌手名も思い出せなかったのですが、歌詞とリズムは覚えていたので、ある動画サイトでサビの部分の歌詞をいれて検索すると、すぐ探し当てたというミラクルのおかげで、こうして皆様に曲名と歌手を紹介することができました。恐るべしヨウトゥーベ。
最後にこの曲自体は切なくて素晴らしいのすが、ビデオクリップはなめてます(途中から少し変な世界に…)。まあ映像は好き嫌いの分かれるところでしょう。
ではお互い音楽で孤独な聖夜の次の日を楽しみましょい♪皆で聴いても良いよ
\(≧▽≦)丿
Shania TwainのCome on over も耳に残っている曲の一つです。これはスペインの音楽番組かラジオで聴いて印象に残ったものと思われます。
高校の時通っていたアメリカンスクールで遠足があり、行く時のバスの中で皆テープを持ちあってお気に入りの曲を流しました。
私はラジオで気に入った曲を自分で編集して普段聴いていたテープを渡したのですが、良い曲ばっかり集めていると結構好評で、仲の良かったクラスメートに貸してくれ、と言われて長い間貸すはめになってしまいました。この曲はその中に入っていた一曲です。
このCome on overはスペインだけではなく、全世界で相当売れた曲で、歌手も結構有名だそうですが、私はこの曲しか知りません。その頃はテレビやラジオを通じて知った曲を聴いて、良ければラジオからダビングするという感じで、一人の歌手の曲を集中して聴くというよりも、色んな人の曲を聴いていたので、例外を除いては歌手についてはその聴いた曲しかしらないということも多いです。
これは余談ですが、最初この曲のタイトルも歌手名も思い出せなかったのですが、歌詞とリズムは覚えていたので、ある動画サイトでサビの部分の歌詞をいれて検索すると、すぐ探し当てたというミラクルのおかげで、こうして皆様に曲名と歌手を紹介することができました。恐るべしヨウトゥーベ。
最後にこの曲自体は切なくて素晴らしいのすが、ビデオクリップはなめてます(途中から少し変な世界に…)。まあ映像は好き嫌いの分かれるところでしょう。
ではお互い音楽で孤独な聖夜の次の日を楽しみましょい♪皆で聴いても良いよ
\(≧▽≦)丿
2009/12/23のBlog
[ 14:56 ]
[ エッグマンのつれづれ探求 ]
さて今回は、実際の関係者を招いて行われた前回の「WWViews in Japan」の検証のための第25回学びのデザイン研修会に参加して思ったこと、考えさせられたことを書いていきます。「WWViews in Japan」の概要は前の記事に書いてあるので、照らし合わせて読んでいただくと分かりやすいかと思います。
まず最初に言っておかねばならないのは、私は原則として国や社会の重大事案や政策決定においてもこれからは市民が主体的に意見を述べたり、関わることは重要である、という考えを持っているということです。ただそのやり方には気をつける必要がありそうです。
研修会の中でも話題になったのが、主催者の会議に参加させるための“市民”の選抜方法です。その環境会議では専門家、利害関係者をあらかじめ除外して選抜を行ったのですが、このことはいろんな意味で私には興味深く感じられます。
まず利害関係者でないということは、そのことに対しては普段あまり興味がないという可能性が高まります。例えば私は魚の相場についてはあまり知りません。魚は好きですが、強い、直接の利害関係者(魚屋等)ではないからです。もし私が回転寿司屋の経営者(利害関係者)なら、その必要から魚に関する知識は今と比べて大きな違いがでるでしょう。
専門家はもちろんその分野の知識は豊富で、なおかつその発言には社会的影響力を持ちます。
これらの人を除いた“一般人”に、“主催者側”から事前に環境問題について“細かい”資料が配られ、“映像を使った”大まかな説明が行われたそうです。もちろん主催者はデンマークの人なので、全部和訳され、実際は日本の実行委員の方によって行われたわけですが。
結論から先に言うと、この会議は主催者のデンマークの出した情報に参加者が左右されやすい状況で行われた可能性が高いとの見方が出来ます。そういう状況にするため主催者が戦略的に枠組みを作った、と断定まではしませんが…
ここで大事なことは、環境問題に関わらず、専門家や利害関係者を除いた人々である事柄に関する会議を行うと、一見皆中立的な立場からものを言え、多彩な意見が出てくるように思いがちですが、実際は運用の仕方によっては情報源である主催者の意思が非常に影響を与えることがあるということです。(注:あくまで可能性の話です)
さらに言えば今回は短時間で会議するには項目とそれに関する情報量が多かったそうです。これもねらってやったんじゃないかと、私などは思ってしまうのですが(つまり個々人がゆっくり考え、議論する時間を与えず、より主催者が出した情報に対する依存度を高めるため)。
この会議の結論は、それは各グループが出した提言の中から参加者皆で投票して選ぶということでしたが、各グループの提言セッションではプレゼンテーションはなく、各人他のグループの提言を全て見る時間はなく、内容よりも雰囲気の良い言葉が目を引く傾向は否めなかったそうです。
さてこのイベントが終わってからアンケートを取ったそうですが、その内の二割位はその結果が不満で、その理由は提言に具体性がないというものでした。
特に日本の会議では各グループとも具体的な政策について決めていく、というよりも、「皆で頑張っていこー(^o^)/」みたいな感じの提言(?)が多かったと参加されたファシリテーターの方もおっしゃっていました。
しかし逆に見ると結果的に主催者側の希望にそわない姿勢を示したという解釈もできます。もし運営方法や実施手段をかんがみて、不当な会議であると判断すれば、あえて何も具体的なことを決めないという戦術もなくもないかもしれない。戦略的であるならば、ですが。少なくとも牛歩戦術よりはレベル2~3は上でしょう。
その意味ではもし主催者に何らかの政治的意図があった場合、他の国ではそれにのせられて、数値目標などより具体的な政策提言を(気付かぬ間に誘導されて)作ったことと比べれば、日本人はそれを感じとり、わざと毒にも薬にもならないことを提言として出したということは、日本人のみ英知を世界を知らしめたといえるのではないでしょうか。(注:あくまで仮定上、もしくは一般的な話であって、この会議がそうであったとは一言も断定していませんぜ。)
ここで断っておきますが、私自身は温暖化ガス削減することに関しては基本的には賛成ですし、日本がリーダーシップを持って他を巻込んで引っ張っていくことは、(戦略的にやれば)国際的な地位を高め、環境問題は金融や公共投資にも関わってくるので、経済的な意味での国益にもつながります。
ただ今回は温暖化やロボコップ2、いやcop15について語るのが主目的ではないのでそれにはあまり突っこまずに、むしろ市民が政策提言などを行う際により正当性があり、妥当で効率的、効果的なプロセスと結果を生むためにはどのような方法が望ましいのか、このデンマーク発のWWViews in japan を一つのモデル、そして反面教師にして、次の機会に考えていきたいと思います。
まず最初に言っておかねばならないのは、私は原則として国や社会の重大事案や政策決定においてもこれからは市民が主体的に意見を述べたり、関わることは重要である、という考えを持っているということです。ただそのやり方には気をつける必要がありそうです。
研修会の中でも話題になったのが、主催者の会議に参加させるための“市民”の選抜方法です。その環境会議では専門家、利害関係者をあらかじめ除外して選抜を行ったのですが、このことはいろんな意味で私には興味深く感じられます。
まず利害関係者でないということは、そのことに対しては普段あまり興味がないという可能性が高まります。例えば私は魚の相場についてはあまり知りません。魚は好きですが、強い、直接の利害関係者(魚屋等)ではないからです。もし私が回転寿司屋の経営者(利害関係者)なら、その必要から魚に関する知識は今と比べて大きな違いがでるでしょう。
専門家はもちろんその分野の知識は豊富で、なおかつその発言には社会的影響力を持ちます。
これらの人を除いた“一般人”に、“主催者側”から事前に環境問題について“細かい”資料が配られ、“映像を使った”大まかな説明が行われたそうです。もちろん主催者はデンマークの人なので、全部和訳され、実際は日本の実行委員の方によって行われたわけですが。
結論から先に言うと、この会議は主催者のデンマークの出した情報に参加者が左右されやすい状況で行われた可能性が高いとの見方が出来ます。そういう状況にするため主催者が戦略的に枠組みを作った、と断定まではしませんが…
ここで大事なことは、環境問題に関わらず、専門家や利害関係者を除いた人々である事柄に関する会議を行うと、一見皆中立的な立場からものを言え、多彩な意見が出てくるように思いがちですが、実際は運用の仕方によっては情報源である主催者の意思が非常に影響を与えることがあるということです。(注:あくまで可能性の話です)
さらに言えば今回は短時間で会議するには項目とそれに関する情報量が多かったそうです。これもねらってやったんじゃないかと、私などは思ってしまうのですが(つまり個々人がゆっくり考え、議論する時間を与えず、より主催者が出した情報に対する依存度を高めるため)。
この会議の結論は、それは各グループが出した提言の中から参加者皆で投票して選ぶということでしたが、各グループの提言セッションではプレゼンテーションはなく、各人他のグループの提言を全て見る時間はなく、内容よりも雰囲気の良い言葉が目を引く傾向は否めなかったそうです。
さてこのイベントが終わってからアンケートを取ったそうですが、その内の二割位はその結果が不満で、その理由は提言に具体性がないというものでした。
特に日本の会議では各グループとも具体的な政策について決めていく、というよりも、「皆で頑張っていこー(^o^)/」みたいな感じの提言(?)が多かったと参加されたファシリテーターの方もおっしゃっていました。
しかし逆に見ると結果的に主催者側の希望にそわない姿勢を示したという解釈もできます。もし運営方法や実施手段をかんがみて、不当な会議であると判断すれば、あえて何も具体的なことを決めないという戦術もなくもないかもしれない。戦略的であるならば、ですが。少なくとも牛歩戦術よりはレベル2~3は上でしょう。
その意味ではもし主催者に何らかの政治的意図があった場合、他の国ではそれにのせられて、数値目標などより具体的な政策提言を(気付かぬ間に誘導されて)作ったことと比べれば、日本人はそれを感じとり、わざと毒にも薬にもならないことを提言として出したということは、日本人のみ英知を世界を知らしめたといえるのではないでしょうか。(注:あくまで仮定上、もしくは一般的な話であって、この会議がそうであったとは一言も断定していませんぜ。)
ここで断っておきますが、私自身は温暖化ガス削減することに関しては基本的には賛成ですし、日本がリーダーシップを持って他を巻込んで引っ張っていくことは、(戦略的にやれば)国際的な地位を高め、環境問題は金融や公共投資にも関わってくるので、経済的な意味での国益にもつながります。
ただ今回は温暖化やロボコップ2、いやcop15について語るのが主目的ではないのでそれにはあまり突っこまずに、むしろ市民が政策提言などを行う際により正当性があり、妥当で効率的、効果的なプロセスと結果を生むためにはどのような方法が望ましいのか、このデンマーク発のWWViews in japan を一つのモデル、そして反面教師にして、次の機会に考えていきたいと思います。
2009/12/21のBlog
[ 18:56 ]
[ エッグマンのつれづれ探求 ]
この季節、この風土、この街にぃ、クリスマスがねぇっていうのはどういうこった!
東京ダイナマイトさん、残念でした。決勝にさえ行けばチャンスはあったかと思うのですが…私自身にも多少影響のある(内部で)M-1決勝でした。
さて本文について最初に、この時期にこのタイトルはベタかと思いますがお許しください。
右上のお面(?)はこの前バイトをしている家庭教師センターで誕生日会をしてもらった時に同僚一同からプレゼントしてもらったものです。
自分の誕生日を祝うために人が集まってくれるのはあまりないので、今年は珍しい年だといえます。
誕生日に関わらず、あまり祝日だから何か特別な事をするという習慣はなく、クリスマスも仕事がある時は仕事に行き、ない時は一人で家で過ごすというのが定番なのですが、スペインに住んでいた頃に、クラブチームでラグビーをやっていた時は、クリスマスの日は皆でパーティーをやりました。
高校の時はジュニアチームだったのですが、シニアチームの選手や監督も一緒になって飲んで騒いでました。普段からシニアの人たちとは交流があり、私は体がほんの少し大きかったこともあり、一緒に練習したこともあります。
私は今でもどちらかと言うと内向的で、高校の時はさらにそうでしたが、チームメートもシニアのメンバーやコーチ、監督やその他の関係者も、非常にフレンドリーに優しく接してくれました。
私のような者が皆と一緒に祝日を祝えるというのは、今年の誕生会(これは祝日ではねーゲス!σ)Д`) )やラグビーチームのクリスマスパーティーの例のように、何か団体や機関(学校、チーム、会社等)に所属している、何か目に見えるつながりがある(偶然にでも)、ということがきっかけになるケースが多いかと思います。
でも逆に言えば人とつながる機会や縁がなくて、人とのつながりがあまりない時はそういう機会も少ないともいえます。私自身も今まで祝日を人と過ごす機会の方が一人でいる機会よりも少なかったので、一人で過ごすことは当たり前で抵抗はありません。
ただ人と祝日を過ごすのもいいもんだな、とほんのり思う気持ちもあります。
だから別に深い関係がなくても、目的を共有していようがいまいが、どんな経歴、思想、利害関係を持っていようと、ふらっと立ち寄れて祝日を祝ったり、皆でテレビ(これからはネット?)でスポーツやお笑い等を見たり等して、なんとなしに(同じ場所にいるということで)つながる、そんな“場”を造れれば良いいんじゃないかな、とも思う京唄子、いや今日この頃です。
東京ダイナマイトさん、残念でした。決勝にさえ行けばチャンスはあったかと思うのですが…私自身にも多少影響のある(内部で)M-1決勝でした。
さて本文について最初に、この時期にこのタイトルはベタかと思いますがお許しください。
右上のお面(?)はこの前バイトをしている家庭教師センターで誕生日会をしてもらった時に同僚一同からプレゼントしてもらったものです。
自分の誕生日を祝うために人が集まってくれるのはあまりないので、今年は珍しい年だといえます。
誕生日に関わらず、あまり祝日だから何か特別な事をするという習慣はなく、クリスマスも仕事がある時は仕事に行き、ない時は一人で家で過ごすというのが定番なのですが、スペインに住んでいた頃に、クラブチームでラグビーをやっていた時は、クリスマスの日は皆でパーティーをやりました。
高校の時はジュニアチームだったのですが、シニアチームの選手や監督も一緒になって飲んで騒いでました。普段からシニアの人たちとは交流があり、私は体がほんの少し大きかったこともあり、一緒に練習したこともあります。
私は今でもどちらかと言うと内向的で、高校の時はさらにそうでしたが、チームメートもシニアのメンバーやコーチ、監督やその他の関係者も、非常にフレンドリーに優しく接してくれました。
私のような者が皆と一緒に祝日を祝えるというのは、今年の誕生会(これは祝日ではねーゲス!σ)Д`) )やラグビーチームのクリスマスパーティーの例のように、何か団体や機関(学校、チーム、会社等)に所属している、何か目に見えるつながりがある(偶然にでも)、ということがきっかけになるケースが多いかと思います。
でも逆に言えば人とつながる機会や縁がなくて、人とのつながりがあまりない時はそういう機会も少ないともいえます。私自身も今まで祝日を人と過ごす機会の方が一人でいる機会よりも少なかったので、一人で過ごすことは当たり前で抵抗はありません。
ただ人と祝日を過ごすのもいいもんだな、とほんのり思う気持ちもあります。
だから別に深い関係がなくても、目的を共有していようがいまいが、どんな経歴、思想、利害関係を持っていようと、ふらっと立ち寄れて祝日を祝ったり、皆でテレビ(これからはネット?)でスポーツやお笑い等を見たり等して、なんとなしに(同じ場所にいるということで)つながる、そんな“場”を造れれば良いいんじゃないかな、とも思う京唄子、いや今日この頃です。
2009/12/20のBlog
[ 17:30 ]
いよいよ今日Mー1の決勝戦が行われます
東京ダイナマイトさんは私が今一番ハマっているコンビで、笑い飯さんも昔から好きなので、この二組に決勝に上がってもらってガチンコで雌雄を決して頂きたいものです。
実は私も笑いを学んだことがあり、今も探究しています。芸人というにはおこがまし過ぎる状態ですが、自分の中では非常に大切なものの一つです。
笑いを学ぶきっかけとしては、日本でカウンセリングを学んだ後に、スペイン、アルゼンチンの大学で心理学を学んでいる時に、カウンセリングよりも笑いの方がより多くの人にとって癒しになるのではないか、少なくとも一瞬の清涼剤にはなるのではないか、とふと思ったことです。
その原因としては私自身も昔から人を笑かせるのが好きで、特に普段無口な人やあまり笑わない人の笑顔を見た時に幸せな気分になった経験があることと、アルゼンチンにいる時にインターネットで日本のお笑いを見て楽しんでいたことが考えられます。
もともと不当に苦しんでいたり、困難な状況にある人をサポート出来れば、という想いでカウンセリングを学び始めたのであり、カウンセリングに対しても、それは手段の一つである、という意識があったのでそれを絶対視することはなく、状況に合わせて有効であればとるべき方法の一つである、という考え方を持っていました。
さらに今では社会教育やまちづくり、啓発活動等も初志を達成するために必要であると考えており、笑いも私の中では非常に比重が高く、とにかく出来る限りのことを一生懸命(一所懸命)やり、結びついていけばという想いがあります。
ただそれとは別に、実際に笑いを学んでみると、人や社会がどうこうよりも自分がより高いレベルの笑いを造りたいという思いも強くなって、その意識は現在もあり、まだまだ修行中の身だと言っても良いでしょう。
先程から述べているようにお笑いもカウンセリングも社会活動、NPO活動も全くの別物だとは考えておらず、私の中では相互作用しあう関係ですので、常に全力を尽くしていきます。
ただお笑いに関して、最近困っているのは、今はいわゆるピンの状態で相方がおらずコンビネタが出来ないということです。Mー1にも今年は出られませんでした(泣)
そこで是非相方を募集いたします。年齢、性別、国籍は問いません。ニート、引きこもり大歓迎。別に青年実業家や弁護士、サラリーマン等でもかまいません。公務員でもあなたの職場がOKなら私もOKです。学生や年金受給者でも大丈夫。つまりどなたでも大丈夫なので、笑いに興味がある人、やってみたい人は気楽にこのブログにある連絡先の方にご連絡下さい。
ただ一点だけ、今私は関西に住んでいるので、関西で活動できる方の方が良いかとは思います。
もちろん社会活動にも興味がある人でも熱烈大歓迎ですが、別に関係なくただ笑いに興味にある人も大の大歓迎です。
私には大した力も実績もございませんが、他の人と組むよりも利点があるとすれば、一般の人が出られない大会のいくつかに(そんなには多くはないかも)、少なくとも出るチャンスだけはあるだろう(その結果は努力次第ですが)、ということです。
相性を見られるために参考になりそうな私の特徴を少し言っておきます。
私は昔から本好きで、特に子供の時は片っ端から読んでいった感じで、今でもどんなジャンルのものでも読みます。あえて好きな作家をあげるとすると、筒井康隆、司馬遼太郎、エドガー・アラン・ポー等でしょうか。ただ筒井康隆つながりで星新一、司馬遼太郎つながりで宮城谷昌光、エドガー・アラン・ポーつながりで江戸川乱歩も好きです。今は吉村昭にハマっていて、読み進めています。
私は無宗教ですが、他人が宗教を信じることに否定的な感情はありません。実際にスペインでは敬虔なキリスト教徒の人と出会いましたが、美しい人格の人でした。もちろんキリスト教徒の中でもいろんな人はいるでしょうし、他の宗教でも同じことでしょう。私自身はツッコミ所を常に探してしまうので、一つの教祖や教義を信じるということが出来ない性格で、逆にいろんな宗教の良い所を状況に合わせて組み合わせて使ってったら良いじゃないか、と思ってしまいます。あえて影響を受けた思想を一つあげるとすれば儒教(主に本から)でしょうが、別にこれは宗教ではないですし、孔子に対しても素晴らしい知恵と志をもった春秋時代のごっついおっさんというイメージしかありません。
社会活動やNPO活動に対する姿勢に関しては、このブログで書いているので割愛します。
好きな芸人は始めに述べたとおり東京ダイナマイトさん、笑い飯さんですが、他にはおぎやはぎさんやアンタッチャブルさんや東野幸治さんも好きです。
ちょっと前に人から雰囲気が板尾創路さんや笑い飯の西田さんに似てると言われ、ちょっと嬉しい思いをしました。ちなみに一緒にお笑いを学んだ仲間からは「全然似てへん」と一蹴されましたが、主観的にはちょっと似ているような気はします。後笑いの感じとしては爆笑問題の太田さんやサマーズの大竹さんに類似点はあるかなと感じたことはありますが、こちらも雰囲気と同様全く根拠はありません。ファンからの一切の苦情は受け付けません。
…というわけで、相方を募集中ですので、笑いに興味があって、やってみたい人、何か面白いことをやってみたい人、自分のメッセージや思いを舞台でぶつけてみたい人等々、どなたでもエッグマンまでご連絡をお願いします
共に楽しく真面目に新しいパラダイムを創りましょう

東京ダイナマイトさんは私が今一番ハマっているコンビで、笑い飯さんも昔から好きなので、この二組に決勝に上がってもらってガチンコで雌雄を決して頂きたいものです。
実は私も笑いを学んだことがあり、今も探究しています。芸人というにはおこがまし過ぎる状態ですが、自分の中では非常に大切なものの一つです。
笑いを学ぶきっかけとしては、日本でカウンセリングを学んだ後に、スペイン、アルゼンチンの大学で心理学を学んでいる時に、カウンセリングよりも笑いの方がより多くの人にとって癒しになるのではないか、少なくとも一瞬の清涼剤にはなるのではないか、とふと思ったことです。
その原因としては私自身も昔から人を笑かせるのが好きで、特に普段無口な人やあまり笑わない人の笑顔を見た時に幸せな気分になった経験があることと、アルゼンチンにいる時にインターネットで日本のお笑いを見て楽しんでいたことが考えられます。
もともと不当に苦しんでいたり、困難な状況にある人をサポート出来れば、という想いでカウンセリングを学び始めたのであり、カウンセリングに対しても、それは手段の一つである、という意識があったのでそれを絶対視することはなく、状況に合わせて有効であればとるべき方法の一つである、という考え方を持っていました。
さらに今では社会教育やまちづくり、啓発活動等も初志を達成するために必要であると考えており、笑いも私の中では非常に比重が高く、とにかく出来る限りのことを一生懸命(一所懸命)やり、結びついていけばという想いがあります。
ただそれとは別に、実際に笑いを学んでみると、人や社会がどうこうよりも自分がより高いレベルの笑いを造りたいという思いも強くなって、その意識は現在もあり、まだまだ修行中の身だと言っても良いでしょう。
先程から述べているようにお笑いもカウンセリングも社会活動、NPO活動も全くの別物だとは考えておらず、私の中では相互作用しあう関係ですので、常に全力を尽くしていきます。
ただお笑いに関して、最近困っているのは、今はいわゆるピンの状態で相方がおらずコンビネタが出来ないということです。Mー1にも今年は出られませんでした(泣)
そこで是非相方を募集いたします。年齢、性別、国籍は問いません。ニート、引きこもり大歓迎。別に青年実業家や弁護士、サラリーマン等でもかまいません。公務員でもあなたの職場がOKなら私もOKです。学生や年金受給者でも大丈夫。つまりどなたでも大丈夫なので、笑いに興味がある人、やってみたい人は気楽にこのブログにある連絡先の方にご連絡下さい。
ただ一点だけ、今私は関西に住んでいるので、関西で活動できる方の方が良いかとは思います。
もちろん社会活動にも興味がある人でも熱烈大歓迎ですが、別に関係なくただ笑いに興味にある人も大の大歓迎です。
私には大した力も実績もございませんが、他の人と組むよりも利点があるとすれば、一般の人が出られない大会のいくつかに(そんなには多くはないかも)、少なくとも出るチャンスだけはあるだろう(その結果は努力次第ですが)、ということです。
相性を見られるために参考になりそうな私の特徴を少し言っておきます。
私は昔から本好きで、特に子供の時は片っ端から読んでいった感じで、今でもどんなジャンルのものでも読みます。あえて好きな作家をあげるとすると、筒井康隆、司馬遼太郎、エドガー・アラン・ポー等でしょうか。ただ筒井康隆つながりで星新一、司馬遼太郎つながりで宮城谷昌光、エドガー・アラン・ポーつながりで江戸川乱歩も好きです。今は吉村昭にハマっていて、読み進めています。
私は無宗教ですが、他人が宗教を信じることに否定的な感情はありません。実際にスペインでは敬虔なキリスト教徒の人と出会いましたが、美しい人格の人でした。もちろんキリスト教徒の中でもいろんな人はいるでしょうし、他の宗教でも同じことでしょう。私自身はツッコミ所を常に探してしまうので、一つの教祖や教義を信じるということが出来ない性格で、逆にいろんな宗教の良い所を状況に合わせて組み合わせて使ってったら良いじゃないか、と思ってしまいます。あえて影響を受けた思想を一つあげるとすれば儒教(主に本から)でしょうが、別にこれは宗教ではないですし、孔子に対しても素晴らしい知恵と志をもった春秋時代のごっついおっさんというイメージしかありません。
社会活動やNPO活動に対する姿勢に関しては、このブログで書いているので割愛します。
好きな芸人は始めに述べたとおり東京ダイナマイトさん、笑い飯さんですが、他にはおぎやはぎさんやアンタッチャブルさんや東野幸治さんも好きです。
ちょっと前に人から雰囲気が板尾創路さんや笑い飯の西田さんに似てると言われ、ちょっと嬉しい思いをしました。ちなみに一緒にお笑いを学んだ仲間からは「全然似てへん」と一蹴されましたが、主観的にはちょっと似ているような気はします。後笑いの感じとしては爆笑問題の太田さんやサマーズの大竹さんに類似点はあるかなと感じたことはありますが、こちらも雰囲気と同様全く根拠はありません。ファンからの一切の苦情は受け付けません。
…というわけで、相方を募集中ですので、笑いに興味があって、やってみたい人、何か面白いことをやってみたい人、自分のメッセージや思いを舞台でぶつけてみたい人等々、どなたでもエッグマンまでご連絡をお願いします

共に楽しく真面目に新しいパラダイムを創りましょう

2009/12/18のBlog
[ 16:24 ]
[ エッグマンのつれづれ探求 ]
このブログで不登校再考の記事の時などにさんざん言ってきてミニに宅八郎、いや耳にタコが出来るくらいかもしれませんが、子ども、若者支援を行う際にも、私たちを取り巻く環境や社会状況を見て、それに対しても働きかけることが重要となります。どうしてもほにゃらら支援というとその支援の対象者に対するサポートのみに目がいってしまいがちですが、例えすばらしい理念をもって個別にいくら良い、理想的なサポートが出来たとしても、個人を取り巻く社会や一般の人が全く違うルールで動いているならば、結果的に支援の目標を達成することは困難になります。
例えば就労者、勤労者支援の場合、やりたいことが決まって訓練をしたとしても、受け入れる機関、企業や団体などの勤労者に対する待遇がひどかったり、そこの目的がその個人の目的と合っていない、あるいはそもそもその個人が望む様な所がない等々、というようなことになれば、いくら個人のモチベーションを引き出したり、いい訓練をする支援を行ったとしても元も子もなくなります。つまり子ども、若者支援の場合も個人が社会にあわせるための支援(職業訓練や学業支援等)と同時により多くの個人の意志を尊重し、それにより個人の能力を最大限に発揮させ、より活気ある社会にしていく活動も支援と同時並行で行うことがより効率的な方法であると思います。
TOP PAGEにある三つめの事業の、子どもや若者の意見もしっかりととりいれ、その他にも老若男女、国籍、人種等を問わず、多種多様な人の思いや意見を発表する、という社会に対する啓発活動等も子ども、若者支援の中の一つとして、他のサポートと同時に行っていくのも一つの案です。
人が仕事をするのは当然ながらそれにより生活をするための対価を得るためですが、ただ単にお金を稼ぐだけではなく、自分自身や自分のした仕事を他者から認めてもらえるかどうかというのも一つの大事な要素だと思います。
企業やその他の法人等と協力、連帯しより良い職場環境、受け入れ先を創っていくことも若者支援の中の大切な柱の一つですが、そのためには理念だけをもって改善を図るのでは不十分で、企業や法人の大きな意味での利益と公益が結びつくような仕組みを作るということが大事になってくるかと思います。
企業が発展するために一番大事なものは“人”で、どこも良い人材を手に入れることに一番苦労していると思います。より良い人材と言うのは能力やポテンシャルもさることながら、その企業や法人の仕事に対してどれだけモチベーションをもって働けるかということが非常に大切になってきます。
先ほど述べたように勤労者(言い方が古い(?_?))は、自分自身や自分の仕事に対して他から認めてもらえるかという部分も働く上で重要になってくるので、企業や法人としてはまずその団体のミッションを明示し、さらに自分のところの仕事がこれだけ社会貢献している、或いは本業と別の分野でもこれだけ社会の役に立つことをしているとアピールすることが、求職者の関心を高め、様々な個性をもった人材が集まりやすくなり、ひいては企業や法人の発展にもつながる可能性が高まります。そして若者支援を行う側も雇う側とつながりを持ち、積極的にそういう所を若者や子供に紹介し、就業意欲を高めたり、個人の興味や目標、志等ととそれらの団体のミッションや仕事とのマッチングを行っていけば、子ども、若者の社会進出のためのモチベーションを上げ、自己研鑽に努めるための動機づけを高めることと企業や法人の発展を同時にねらうことができます。そしてそれが合理的な判断であればより良い職場環境を整えたり、社会貢献をしようとする企業等が増え、結果的により良い社会になっていくための正のスパイラルが出来る可能性があります。
もちろん職場を通じての社会貢献だけではなく、職場以外の社会活動(コミュニティーの中や同じ問題意識をもった集団の中等での)も非常に大事で、就労支援と同時に社会教育やまちづくりも並行して行う必要があると思います。ただ生活をするためには働くことは重要であり、せっかく働くのならモチベーション高く働いた方がよりやりがいがありますし、企業などからみてもそういう個人が集まった方がコストパフォーマンスが高まり、より大きく成長する可能性が高まります。その意味でこれから働く側と雇う側両方のニーズに答え、さらに社会全体で創造していく形の総合的な子ども、若者支援を行うことが至急必要なのではないかと思います。
前回の記事、子ども、若者支援の可能性と有効性を考察する
例えば就労者、勤労者支援の場合、やりたいことが決まって訓練をしたとしても、受け入れる機関、企業や団体などの勤労者に対する待遇がひどかったり、そこの目的がその個人の目的と合っていない、あるいはそもそもその個人が望む様な所がない等々、というようなことになれば、いくら個人のモチベーションを引き出したり、いい訓練をする支援を行ったとしても元も子もなくなります。つまり子ども、若者支援の場合も個人が社会にあわせるための支援(職業訓練や学業支援等)と同時により多くの個人の意志を尊重し、それにより個人の能力を最大限に発揮させ、より活気ある社会にしていく活動も支援と同時並行で行うことがより効率的な方法であると思います。
TOP PAGEにある三つめの事業の、子どもや若者の意見もしっかりととりいれ、その他にも老若男女、国籍、人種等を問わず、多種多様な人の思いや意見を発表する、という社会に対する啓発活動等も子ども、若者支援の中の一つとして、他のサポートと同時に行っていくのも一つの案です。
人が仕事をするのは当然ながらそれにより生活をするための対価を得るためですが、ただ単にお金を稼ぐだけではなく、自分自身や自分のした仕事を他者から認めてもらえるかどうかというのも一つの大事な要素だと思います。
企業やその他の法人等と協力、連帯しより良い職場環境、受け入れ先を創っていくことも若者支援の中の大切な柱の一つですが、そのためには理念だけをもって改善を図るのでは不十分で、企業や法人の大きな意味での利益と公益が結びつくような仕組みを作るということが大事になってくるかと思います。
企業が発展するために一番大事なものは“人”で、どこも良い人材を手に入れることに一番苦労していると思います。より良い人材と言うのは能力やポテンシャルもさることながら、その企業や法人の仕事に対してどれだけモチベーションをもって働けるかということが非常に大切になってきます。
先ほど述べたように勤労者(言い方が古い(?_?))は、自分自身や自分の仕事に対して他から認めてもらえるかという部分も働く上で重要になってくるので、企業や法人としてはまずその団体のミッションを明示し、さらに自分のところの仕事がこれだけ社会貢献している、或いは本業と別の分野でもこれだけ社会の役に立つことをしているとアピールすることが、求職者の関心を高め、様々な個性をもった人材が集まりやすくなり、ひいては企業や法人の発展にもつながる可能性が高まります。そして若者支援を行う側も雇う側とつながりを持ち、積極的にそういう所を若者や子供に紹介し、就業意欲を高めたり、個人の興味や目標、志等ととそれらの団体のミッションや仕事とのマッチングを行っていけば、子ども、若者の社会進出のためのモチベーションを上げ、自己研鑽に努めるための動機づけを高めることと企業や法人の発展を同時にねらうことができます。そしてそれが合理的な判断であればより良い職場環境を整えたり、社会貢献をしようとする企業等が増え、結果的により良い社会になっていくための正のスパイラルが出来る可能性があります。
もちろん職場を通じての社会貢献だけではなく、職場以外の社会活動(コミュニティーの中や同じ問題意識をもった集団の中等での)も非常に大事で、就労支援と同時に社会教育やまちづくりも並行して行う必要があると思います。ただ生活をするためには働くことは重要であり、せっかく働くのならモチベーション高く働いた方がよりやりがいがありますし、企業などからみてもそういう個人が集まった方がコストパフォーマンスが高まり、より大きく成長する可能性が高まります。その意味でこれから働く側と雇う側両方のニーズに答え、さらに社会全体で創造していく形の総合的な子ども、若者支援を行うことが至急必要なのではないかと思います。
前回の記事、子ども、若者支援の可能性と有効性を考察する
2009/12/14のBlog
[ 16:10 ]
[ エッグマンのつれづれ探求 ]
前回紹介した子ども、若者支援フォーラムの中で特に重要に思われたテーマの一つは「働くこと」についてです。宮元さんもおっしゃってられていましたが、今までは国の方では就職支援、勤労支援としてサポートしており、それだけではとてもカバーしきれないと思います。
この子供、若者支援において、ただ単に就職すれば良い、仕事が見つかれば良い、という感覚、姿勢では効率的に支援することは難しいように見えます。
まずは段階に分けてサポートすることが重要だと感じました。
仕事を探すにしても、或いは勉強するためにもそれなりのエネルギーやモチベーションが必要となりますし、まずその部分をサポートの根底において支援することが最初の段階になります。
ただひたすら休むことやカウンセリング等も方法としてはあるでしょうし、状況によっては集団活動や社会活動等をすることも有効な手段になりうるかもしれません。ただ本人が自発的に動ける位のエネルギーが溜まっているかどうかと、何か新しいことに挑戦するモチベーションがあるかが、サポートする側が一番留意せねばいけない点になるでしょう。
次にエネルギーがある程度溜まって少し将来について考えたり、動いたり出来る状態になってから大事なのは、本人が何をしたいのか考えることです。サポートする方としては一緒に話し、その中で思いや意見をしっかりと聴き、何に興味があって何をしていきたいのかを共に探っていくという役割が大事になってくるでしょう。どう生きたいのか、どんな人になりたいのか、というのがその根幹にあるテーマです。
そして第三の段階として、そのやりたいことや目標を達成するために情報や場を提供したり、或いはそういうものを提供出来る機関や団体、個人等を紹介したりつなげたりするサポートが必要となります。
就労支援においては主にこの第三の段階のサポートを中心にしているようですが、この第三のサポートを受けるために想定された対象者というのは、基本的に最初から第一と第二の段階を終えている、つまり動くだけのエネルギーがあり、自分が何をしたいかはっきりしている人となります。
逆にその最初の二つがしっかりしていなければ、最初に述べた通りサポート自体はどれだけ最善を尽くしたとしても非効率、非有効的になる可能性があります。最初から支援の対象と想定される人の数は限定的となり、支援自体の効果も薄くなります。仕事の紹介やマッチング自体は非常に大事な支援ですが、仕事をしていなかったり、定職についていない人にはそれさえすれば問題は解決する、という考え方は短絡的というかなんというか、若干認識が甘いというかやっつけ仕事的な考え方のように見えます。若者(だけではないが)の就労対策を考える人は誰でも視野を広げるために、若かろうが年配だろうが、偉かろうが偉くなかろうが、一度ニートになった気分で考えてみることが重要ではないでしょうか。
話を戻すと、つまりより多くの人に対する勤労支援を有効的にするには、まず個人がエネルギーを回復するための支援と方向性を見つけるための支援をその前提として行う必要があるということになります。
先に原則としては段階的に行うべきだと言いましたが、時には状況に合わせサポートを混ぜていくことも有効でしょう。例えば本当に疲れたり、傷ついたりしている人に対してはエネルギーを回復するサポートが大事でしょうが、そういう状態でも本人が何かやりたい事や志をもっている、或いはそれをもちたいと思っている場合はそれを実現するための方法を共に考え、少しずつ行動に移していくということを第一の支援を行いながらも同時並行でさせていくという方法が考えられます。例としては、第一の支援70%、第二の支援25%、第三の支援5%という感じで始めて、状況が変わってくればその割合を変化させていく、という風に流動的で柔軟なサポートが出来ればベターかと思います。
理想をいえば全ての子どもや若者のサポート機関でこの様に総合的に行えれば良いのでしょうが、現実的には様々な資源の問題や意見の相違等があり、分業化されがちです。
従って実際には一つの機関では先述の三つのサポートを行うことが困難な状況であれば、それぞれのサポートを行う機関が連帯しあい一つの機関が総合的に支援を行う様な働きが出来れば効率的な支援が可能になります。
そのためには連携をとるための中間支援が必要となり、その一つの例としては私のブログのTOP PAGEでもあげた、二つめの事業の『インタラクティブな“場”の集合体の創造』もそれにあたるかと思います。ちなみにTOP PAGEの中の一つめの事業の相談事業が主に今回話した第一、第二、第三段階のサポートに該当し、二つめの事業の居場所や場づくりの事業は、第一の段階でも使えるもしれませんが、特に第二と第三の段階の時に関わってくることになります。これも先ほどから述べているように事業同士を状況に合わせて連動して行っていけばより効果的になると思います。
今回は子どもや若者に対してどのような支援を行えばより効率的であるのかを考察してきました。では次回は当事者や個人個人ではなく社会や環境の方に目を転じて、どのような働きかけを行うことが考えられるのか見ていきたいと思います。
この子供、若者支援において、ただ単に就職すれば良い、仕事が見つかれば良い、という感覚、姿勢では効率的に支援することは難しいように見えます。
まずは段階に分けてサポートすることが重要だと感じました。
仕事を探すにしても、或いは勉強するためにもそれなりのエネルギーやモチベーションが必要となりますし、まずその部分をサポートの根底において支援することが最初の段階になります。
ただひたすら休むことやカウンセリング等も方法としてはあるでしょうし、状況によっては集団活動や社会活動等をすることも有効な手段になりうるかもしれません。ただ本人が自発的に動ける位のエネルギーが溜まっているかどうかと、何か新しいことに挑戦するモチベーションがあるかが、サポートする側が一番留意せねばいけない点になるでしょう。
次にエネルギーがある程度溜まって少し将来について考えたり、動いたり出来る状態になってから大事なのは、本人が何をしたいのか考えることです。サポートする方としては一緒に話し、その中で思いや意見をしっかりと聴き、何に興味があって何をしていきたいのかを共に探っていくという役割が大事になってくるでしょう。どう生きたいのか、どんな人になりたいのか、というのがその根幹にあるテーマです。
そして第三の段階として、そのやりたいことや目標を達成するために情報や場を提供したり、或いはそういうものを提供出来る機関や団体、個人等を紹介したりつなげたりするサポートが必要となります。
就労支援においては主にこの第三の段階のサポートを中心にしているようですが、この第三のサポートを受けるために想定された対象者というのは、基本的に最初から第一と第二の段階を終えている、つまり動くだけのエネルギーがあり、自分が何をしたいかはっきりしている人となります。
逆にその最初の二つがしっかりしていなければ、最初に述べた通りサポート自体はどれだけ最善を尽くしたとしても非効率、非有効的になる可能性があります。最初から支援の対象と想定される人の数は限定的となり、支援自体の効果も薄くなります。仕事の紹介やマッチング自体は非常に大事な支援ですが、仕事をしていなかったり、定職についていない人にはそれさえすれば問題は解決する、という考え方は短絡的というかなんというか、若干認識が甘いというかやっつけ仕事的な考え方のように見えます。若者(だけではないが)の就労対策を考える人は誰でも視野を広げるために、若かろうが年配だろうが、偉かろうが偉くなかろうが、一度ニートになった気分で考えてみることが重要ではないでしょうか。
話を戻すと、つまりより多くの人に対する勤労支援を有効的にするには、まず個人がエネルギーを回復するための支援と方向性を見つけるための支援をその前提として行う必要があるということになります。
先に原則としては段階的に行うべきだと言いましたが、時には状況に合わせサポートを混ぜていくことも有効でしょう。例えば本当に疲れたり、傷ついたりしている人に対してはエネルギーを回復するサポートが大事でしょうが、そういう状態でも本人が何かやりたい事や志をもっている、或いはそれをもちたいと思っている場合はそれを実現するための方法を共に考え、少しずつ行動に移していくということを第一の支援を行いながらも同時並行でさせていくという方法が考えられます。例としては、第一の支援70%、第二の支援25%、第三の支援5%という感じで始めて、状況が変わってくればその割合を変化させていく、という風に流動的で柔軟なサポートが出来ればベターかと思います。
理想をいえば全ての子どもや若者のサポート機関でこの様に総合的に行えれば良いのでしょうが、現実的には様々な資源の問題や意見の相違等があり、分業化されがちです。
従って実際には一つの機関では先述の三つのサポートを行うことが困難な状況であれば、それぞれのサポートを行う機関が連帯しあい一つの機関が総合的に支援を行う様な働きが出来れば効率的な支援が可能になります。
そのためには連携をとるための中間支援が必要となり、その一つの例としては私のブログのTOP PAGEでもあげた、二つめの事業の『インタラクティブな“場”の集合体の創造』もそれにあたるかと思います。ちなみにTOP PAGEの中の一つめの事業の相談事業が主に今回話した第一、第二、第三段階のサポートに該当し、二つめの事業の居場所や場づくりの事業は、第一の段階でも使えるもしれませんが、特に第二と第三の段階の時に関わってくることになります。これも先ほどから述べているように事業同士を状況に合わせて連動して行っていけばより効果的になると思います。
今回は子どもや若者に対してどのような支援を行えばより効率的であるのかを考察してきました。では次回は当事者や個人個人ではなく社会や環境の方に目を転じて、どのような働きかけを行うことが考えられるのか見ていきたいと思います。
[ 01:49 ]
[ 活動 ]
11月26日に尼崎で行われた宝塚NPOセンター主催の関西子ども、若者支援フォーラムに行ってきました。
このフォーラムは2ヶ月程前に宝塚NPOセンターの方から紹介され楽しみにしていたのですが、事情により体の一部を悪くして満身創痍で(一部言うたやないかっ!(・_*)\)参加することになりました。
前半のフォーラムでは、放送大学教授で青年社会学者の宮本みち子さん、兵庫県立川西高等学校教諭の山本誠さん、(特)こうべユースネットの責任者の佐伯隆義さん、八尾保健所の相談員で精神保険福祉士の杉原和子さんをパネリストにしての講演となりました。
皆さんそれぞれ経験を元にされたお話やこれから若者支援の取組み等様々なことをお話されました。
後半はこれらの支援に関わっている団体がそれぞれブースを出し、来場者に自分の所の活動を紹介する合同説明会でした。
では次回は近々この子ども、若者支援フォーラムの中で感じ考えたことを述べていきたいと思います。
このフォーラムは2ヶ月程前に宝塚NPOセンターの方から紹介され楽しみにしていたのですが、事情により体の一部を悪くして満身創痍で(一部言うたやないかっ!(・_*)\)参加することになりました。
前半のフォーラムでは、放送大学教授で青年社会学者の宮本みち子さん、兵庫県立川西高等学校教諭の山本誠さん、(特)こうべユースネットの責任者の佐伯隆義さん、八尾保健所の相談員で精神保険福祉士の杉原和子さんをパネリストにしての講演となりました。
皆さんそれぞれ経験を元にされたお話やこれから若者支援の取組み等様々なことをお話されました。
後半はこれらの支援に関わっている団体がそれぞれブースを出し、来場者に自分の所の活動を紹介する合同説明会でした。
では次回は近々この子ども、若者支援フォーラムの中で感じ考えたことを述べていきたいと思います。
2009/12/10のBlog
[ 18:30 ]
[ エッグマンのつれづれ探求 ]
さて前回までは主に世の中を生きぬく能力と教育の関係に焦点を当てつれづれなるままに考察をしてきました。従ってどうしても社会や地域とその変化に対する個人という図式を無視しては話が進められなかったのですが、個人的には社会がどうあろうと人として大切なものもあるだろうという思いがあります。
その一つが考える姿勢です。
それは例えば「なんでこうなるのだろう?」、「この人は何を言っているのだろう?」、「私はなぜこう考えるのだろう?」等の問いをもち自分の頭で考えてみる姿勢です。
基礎学力にしても、ただ世の中を生き抜くための一つの道具としてとらえるよりも考えるための素地と見る方が私の心情により近いと言えます。
社会を生き抜くために必要な能力として「考える力」をもつ必要がある、という考え方に対しては違和感があります。本来は「考える力」を目的にして、手法として勉強法があり、その副産物として知識がつき、結果として世の中を生きるための一助となればいい位のスタンスで伝えていく方が良いかと思います。
例えば確かにいわゆる“お勉強”においても「考える力」は有効ですが、♪そんなーもーのの♪ためだけにあるのではなく、人として生きるために「考える力」はあるのだと思います。※全くの個人的見解です。
正直に言うと「考える」ということは社会を“うまく”生きる上では邪魔になる時もあるかもしれません。
ただ一方「考えること」は他人と関係を築いたり社会生活を送る上で必要不可欠な面もあります。考えるために外からの情報が必要でそのためには人の話をしっかりと聴くことが大切になり、そのことはその人と良い関係を築くことの基本だと思います。もちろん話の内容と同時にその人の気持ちもしっかりと聴ければより良いと言えますが、まずはその人が何を言いたいのかしっかりと聴く姿勢が大事ではないかと思います。
このことについて、心理学者の中では反論があり、例えばコミュニケーションにおいては表情やジェスチェーなどの非言語的な内容の方が話の内容よりも影響を与えると言っている人もいます。話し方や聴く態度等の非言語的な内容も大事ではあるが、それも話の内容があってのことで、ゆえに内容の方が第一義である、というのが私の意見です。ただし話を聴く場合は向こうが話さないと内容もわからないので、話しやすい雰囲気を作り、そしてしっかりと話をしっかりと聴いて考え、その内容に基づいて自分の意見や見解を述べていけば、最初に話した方もそれを聴いて考えまた話していくという風にして会話が成り立っていくと思います。
もちろん実際のコミュニケーションの中には非言語的な要素の方が比重が高いケース(喧嘩など)もありますが、それを通して相手と良い関係を気づくために大事なのは(話をする場合も)、相手に寄り添う姿勢であったり、その基となる相手に対する思いやりの気持ち、ということになります。
つまり社会がどうあれ人として大事になってくるのは考える力と思いやりの気持ちだろうということになってきますが、もちろん社会から影響を受けることは避けがたく、また社会に影響を与えるためにも必要な要素でもある点からみて、考える力と思いやりの心は社会とも相互作用の関係性もあるかと思います。ただ考えるという行為は社会がどうこうとか、他者がこう言うからというよりも、個々人の興味や好奇心によって自然に起こる面もあるように見えます。
その一つが考える姿勢です。
それは例えば「なんでこうなるのだろう?」、「この人は何を言っているのだろう?」、「私はなぜこう考えるのだろう?」等の問いをもち自分の頭で考えてみる姿勢です。
基礎学力にしても、ただ世の中を生き抜くための一つの道具としてとらえるよりも考えるための素地と見る方が私の心情により近いと言えます。
社会を生き抜くために必要な能力として「考える力」をもつ必要がある、という考え方に対しては違和感があります。本来は「考える力」を目的にして、手法として勉強法があり、その副産物として知識がつき、結果として世の中を生きるための一助となればいい位のスタンスで伝えていく方が良いかと思います。
例えば確かにいわゆる“お勉強”においても「考える力」は有効ですが、♪そんなーもーのの♪ためだけにあるのではなく、人として生きるために「考える力」はあるのだと思います。※全くの個人的見解です。
正直に言うと「考える」ということは社会を“うまく”生きる上では邪魔になる時もあるかもしれません。
ただ一方「考えること」は他人と関係を築いたり社会生活を送る上で必要不可欠な面もあります。考えるために外からの情報が必要でそのためには人の話をしっかりと聴くことが大切になり、そのことはその人と良い関係を築くことの基本だと思います。もちろん話の内容と同時にその人の気持ちもしっかりと聴ければより良いと言えますが、まずはその人が何を言いたいのかしっかりと聴く姿勢が大事ではないかと思います。
このことについて、心理学者の中では反論があり、例えばコミュニケーションにおいては表情やジェスチェーなどの非言語的な内容の方が話の内容よりも影響を与えると言っている人もいます。話し方や聴く態度等の非言語的な内容も大事ではあるが、それも話の内容があってのことで、ゆえに内容の方が第一義である、というのが私の意見です。ただし話を聴く場合は向こうが話さないと内容もわからないので、話しやすい雰囲気を作り、そしてしっかりと話をしっかりと聴いて考え、その内容に基づいて自分の意見や見解を述べていけば、最初に話した方もそれを聴いて考えまた話していくという風にして会話が成り立っていくと思います。
もちろん実際のコミュニケーションの中には非言語的な要素の方が比重が高いケース(喧嘩など)もありますが、それを通して相手と良い関係を気づくために大事なのは(話をする場合も)、相手に寄り添う姿勢であったり、その基となる相手に対する思いやりの気持ち、ということになります。
つまり社会がどうあれ人として大事になってくるのは考える力と思いやりの気持ちだろうということになってきますが、もちろん社会から影響を受けることは避けがたく、また社会に影響を与えるためにも必要な要素でもある点からみて、考える力と思いやりの心は社会とも相互作用の関係性もあるかと思います。ただ考えるという行為は社会がどうこうとか、他者がこう言うからというよりも、個々人の興味や好奇心によって自然に起こる面もあるように見えます。
考えるということは誰にでも出来ます。例としては私の様に才なく徳なく、ろくでもないななでもない者でも考えて発言することは可能です。このブログを書いていると、私の様な力のない塵芥の様な人間が意見を述べることによって、世に棲む隠れた凄い素質を持っているが引っ込み思案な人たちが「あんな奴よりも俺、私の方がもっと出来る。」と思って、積極的に意見を述べる様になれば良いのにという思いが湧いてきます。
話を少し教育の方に戻すと、時々、自分には経験や実績がないので意見を言う資格はない、という発言を耳にします。意見を言いたくない人はいると思いますが、意見を言う資格がない人は世の中に一人もいないと思います。もし経験がないと意見が言ってはいけないなら、子供たちや内向的な人間は意見を言いにくくなり、経験豊かな人の話を聞くだけの存在になります。そういう状況は、例えそれで社会がまわろうがまわるまいが、私は望ましいと思えません。
話は変わって、昔中国の燕という国で、燕の昭王が良い人材を集めるにはどうしたら良いか、郭隗先生という人に尋ねました。郭隗さんは、
「この私は屑野郎ですが、こんな屑野郎に高い評価を与え厚遇すれば、『あんな屑野郎が評価されるんだったら、わしやったらもっといけるんちゃうか。』と世界中から人が蟻のように群がってきて、優秀な人材も集まるでっしゃろ。燕を南の斉の脅威から守り、安全な地帯にするためにはまずI Love Youから始めよう…いや、まず隗からはじめてはどうかな。うっしっし。ハウマッチ」
と言ったとか言わないとか。そして隗先生の言う通りにすると、果して燕には各地から人材が集まり、その中には諸葛孔明もリスペクトしてやまない稀代の名将楽穀もいました。ちなみに軍略の面では孔明は楽毅の足元にも及ばないかもしれません。
私には燕の昭王の様な後ろ盾も無く、誰からも高く評価されることもなく、能力も隗先生よりも遥かに下位でしょうが、声をあげていき、隠れ声をひそめている優れた人たちと共により良い社会を創っていければ、最高で~す( ´ ▽ ` )ノ
全て上手くいっている時よりも、どん底にいる時の方がよくものが見え、考えられるということもあるかと思います。例え調子が良い時でも、どんなに高い地位にいても、経済的に恵まれていても、常に自分はどん底にいるという感覚を持ち、まず下位からはじめよう。
話を少し教育の方に戻すと、時々、自分には経験や実績がないので意見を言う資格はない、という発言を耳にします。意見を言いたくない人はいると思いますが、意見を言う資格がない人は世の中に一人もいないと思います。もし経験がないと意見が言ってはいけないなら、子供たちや内向的な人間は意見を言いにくくなり、経験豊かな人の話を聞くだけの存在になります。そういう状況は、例えそれで社会がまわろうがまわるまいが、私は望ましいと思えません。
話は変わって、昔中国の燕という国で、燕の昭王が良い人材を集めるにはどうしたら良いか、郭隗先生という人に尋ねました。郭隗さんは、
「この私は屑野郎ですが、こんな屑野郎に高い評価を与え厚遇すれば、『あんな屑野郎が評価されるんだったら、わしやったらもっといけるんちゃうか。』と世界中から人が蟻のように群がってきて、優秀な人材も集まるでっしゃろ。燕を南の斉の脅威から守り、安全な地帯にするためにはまずI Love Youから始めよう…いや、まず隗からはじめてはどうかな。うっしっし。ハウマッチ」
と言ったとか言わないとか。そして隗先生の言う通りにすると、果して燕には各地から人材が集まり、その中には諸葛孔明もリスペクトしてやまない稀代の名将楽穀もいました。ちなみに軍略の面では孔明は楽毅の足元にも及ばないかもしれません。
私には燕の昭王の様な後ろ盾も無く、誰からも高く評価されることもなく、能力も隗先生よりも遥かに下位でしょうが、声をあげていき、隠れ声をひそめている優れた人たちと共により良い社会を創っていければ、最高で~す( ´ ▽ ` )ノ
全て上手くいっている時よりも、どん底にいる時の方がよくものが見え、考えられるということもあるかと思います。例え調子が良い時でも、どんなに高い地位にいても、経済的に恵まれていても、常に自分はどん底にいるという感覚を持ち、まず下位からはじめよう。
2009/12/07のBlog
[ 00:01 ]
[ 活動 ]
11月25日に第25回学びのデザイン研修会「政策形成への市民参加ワークショップが機能するには」に参加しました。
これはこの前にもお世話になったシチズンシップ共育企画主催のワークショップで、今回の検証事例は「WWViews in Japan」でした。
「WWViews in Japan」とはポスト京都議定書の検討事項について38ヶ国の市民の意見をまとめて発信するというデンマーク発のグローバルな市民参加の社会実験の取組みです。日本では、京都を舞台に、北海道から九州まで18~60代の男女105名の参加者が集まり、5、6人の18グループに別れ議論しその結果を政策提言として発表しました。
今回の研究会ではそのイベントの日本での実行委員の大阪大学コミュニケーションデザイン・センターの八木さん、グループのファシリテーターを務めた神戸ワークショップ研究会の西さん、神戸まちづくり研究所の東末さん、Tao舎の大滝さんをゲストとして呼び、そして今回そのイベントでもファシリテーターを務めた共育企画の川中さんが今回研究会のファシリテーターをされました。いつも親しくさせてもらっている市民事務局かわにしの三井さんも途中から来られ、共に研究会に参加しました。研究会ではオリエンテーションの後、イベントの概要、そしてゲストからグループで何が起っていたのかの話があり、フリーディスカッションの後にクロージング(閉会)となりました。
今回の研究会では、環境問題をとりあげるのではなく、このイベントの運営であった問題点等を基に、地球温暖化防止政策に関わらず専門家ではない市民が政策形成に関わる意義と課題について話し合い、その中では105人の参加者の選び方の正当性、政策提言を作成するにあたっての準備不足、会議の進行方法の問題、研究者とファシリテーターと参加者の認識の違い、このイベントの主催者の政治的意図等が議論になり、問題点だけではなく今後日本でも政策提言やまちづくりのためにも活用できる可能性も見えてきました。
より市民が自分で考え、自分たちでよりよい社会を創っていくためには、専門家ではない市民、つまり我々のような普通の人たちが社会問題について考え、声を出し、そして実際の変化につなげていくような行動が重要になっていきますが、今回の「WWViews in Japan」はその一つの例として興味深いものがありました。またこの研究会の詳しい内容については別の機会にご紹介出来ればと思います。
これはこの前にもお世話になったシチズンシップ共育企画主催のワークショップで、今回の検証事例は「WWViews in Japan」でした。
「WWViews in Japan」とはポスト京都議定書の検討事項について38ヶ国の市民の意見をまとめて発信するというデンマーク発のグローバルな市民参加の社会実験の取組みです。日本では、京都を舞台に、北海道から九州まで18~60代の男女105名の参加者が集まり、5、6人の18グループに別れ議論しその結果を政策提言として発表しました。
今回の研究会ではそのイベントの日本での実行委員の大阪大学コミュニケーションデザイン・センターの八木さん、グループのファシリテーターを務めた神戸ワークショップ研究会の西さん、神戸まちづくり研究所の東末さん、Tao舎の大滝さんをゲストとして呼び、そして今回そのイベントでもファシリテーターを務めた共育企画の川中さんが今回研究会のファシリテーターをされました。いつも親しくさせてもらっている市民事務局かわにしの三井さんも途中から来られ、共に研究会に参加しました。研究会ではオリエンテーションの後、イベントの概要、そしてゲストからグループで何が起っていたのかの話があり、フリーディスカッションの後にクロージング(閉会)となりました。
今回の研究会では、環境問題をとりあげるのではなく、このイベントの運営であった問題点等を基に、地球温暖化防止政策に関わらず専門家ではない市民が政策形成に関わる意義と課題について話し合い、その中では105人の参加者の選び方の正当性、政策提言を作成するにあたっての準備不足、会議の進行方法の問題、研究者とファシリテーターと参加者の認識の違い、このイベントの主催者の政治的意図等が議論になり、問題点だけではなく今後日本でも政策提言やまちづくりのためにも活用できる可能性も見えてきました。
より市民が自分で考え、自分たちでよりよい社会を創っていくためには、専門家ではない市民、つまり我々のような普通の人たちが社会問題について考え、声を出し、そして実際の変化につなげていくような行動が重要になっていきますが、今回の「WWViews in Japan」はその一つの例として興味深いものがありました。またこの研究会の詳しい内容については別の機会にご紹介出来ればと思います。
2009/12/06のBlog
[ 00:56 ]
[ 紹介 ]
私自身もそうですが、より幅広い視点を持つためには、様々な個性や経験を持つ多くの人の意見を見て知ることが必要です。
私のブログでは出来るだけ積極的に他の人のサイトやブログとつながりを持ち、さらにここに来られる人にとって、気軽に寄れるホットステーションの様にしていくのも一つの目的であり、活動の理念とも合致します。
今回は11月28日(なりたて)に登録した「にほんブログ村」というブログアグリゲーションサイトの中の(このブログとも関連のありそうな)三つのカテゴリーを紹介したいと思います。これ以外にも様々なカテゴリーがあり、多くの人が書いているブログが興味がある人は一度ご覧下さい。出来れば私のブログからいって頂ければありがたいです\(^▽^)/
ブログ村は閲覧するのも参加するのも無料で、営利を目的とした行為も禁止しているので純粋に他の人の意見を見たり、興味のあるテーマの記事を探したり、コミュニケーションやつながりを持つために、お気軽に利用できると思います。
にほんブログ村トップページ
各分野:教育、メンタルヘルス、政治
さらに詳しく:社会教育、心理カウンセリング、市民運動・社会運動
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2009/12/04のBlog
[ 15:02 ]
[ エッグマンのつれづれ探求 ]
前回は「基本的な教育」を考える上ではインプットする能力とアウトプットする能力両方をみることが大事であり、さらにそのためには心理的要素、特にモチベーションに注目することが大切であると述べました。
他者と友好的な関係を築くために、その前提として他者が喜ぶことを自分のことに喜ぶためにはメンタリティーや他者の気持ちになって考えられる力が必要となります。
そしてそういう能力をつけるためには、いわゆる机の上の勉強ではなくてより感情的、実際的な学びが必要になるかと思います。
例えば我々が他者に何かをして喜ばれれば、またしようとします。また逆に我々が他者から何かをされてお礼を言えば他者も喜びますし、我々も幸せな気分になります。
この様な体験が重なれば他者と関わることにポジティブなイメージを持つ可能性が高まり、他者と肯定的に関わる回数が増えれば、他者と友好的に付き合う力やコミュニケーション能力が高まる可能性が高まります。
そういうメンタリティーをつける具体的な例としては特に親や周りの大人が子供が何か好意をもってしてくれたことには「ありがとう」と言い、子供に対しても他者が彼、彼女に対して何かしてくれたら、感謝の気持ちを持つことの大切さを教え、ありがとうということを教えることは大切であると思います。ただ単純に礼儀作法だけではなく、その子供の社会(他者)に対する見方と行動に影響を与え、コミュニケーション能力の高さに関しても大きく関わってくる可能性があります。
後教育においては子供(のみならず大人も)楽しみながら学ぶということも大事かと思います。今私は空手をしておりますが、所属する団体が今小学校で空いている体育館を使って空手教室をしています。その中で空手だけではなく、礼儀作法やその基となる人や物に対する感謝や尊敬の気持ちを体験的に学ばせるにはどうしたらいいか、という話になり、今一つの試みを団体でやっています。
それは教室が終わった後の掃除の時間のモップがけで、かけっこのような形でよーいドンとモップをかけながら走らせるというものです。子供達はわいわい走りながらモップがけをしていきます。大人も参加しているのですが、大人もわいわい走ります。
このように楽しさを通じて、公共の場を掃除するという体験を積み重ねていくということは、伝統的な礼儀作法のみならず、日本や国際社会の場においても活躍するために必要な公共の精神を育むことにも有効なのではないかと感じます。モチベーションに注目することも当然ながら教育において重要な要素の一つだと思います。
ものを教える時は大人も子供に対して礼儀正しく教えるようにする。空手でも指導の時は厳しく教えますが、終わった後はお互いに正座をして向き合って頭を下げ、ありがとうございました、とお礼を言い合う。甘やかすのではなく、お互いに相手に対して尊敬の念を持つということは言葉だけではなく、行動や態度でもって示すことが重要です。
大人の方の心構えという点で、子供を見ていて思うのは礼儀を教えればきちんとそれを理解し吸収しているということです。大人の方が爪の垢を飲まなくては思うくらいです。もちろんやんちゃなところもありますが、非常にまじめで優しい性質があります。子供たちがその性質を保持し続け、さらに社会に出るためには、大人の方が理性と優しさを持って、身をもってそれを伝えていくということが教育の中でも非常に大事な要素になるでしょうし、少なくとも人として社会を生き抜くためのメンタリティーを育むような指導法も「基本的な教育」の一部として考えていくことは重要になるでしょう。
他者と友好的な関係を築くために、その前提として他者が喜ぶことを自分のことに喜ぶためにはメンタリティーや他者の気持ちになって考えられる力が必要となります。
そしてそういう能力をつけるためには、いわゆる机の上の勉強ではなくてより感情的、実際的な学びが必要になるかと思います。
例えば我々が他者に何かをして喜ばれれば、またしようとします。また逆に我々が他者から何かをされてお礼を言えば他者も喜びますし、我々も幸せな気分になります。
この様な体験が重なれば他者と関わることにポジティブなイメージを持つ可能性が高まり、他者と肯定的に関わる回数が増えれば、他者と友好的に付き合う力やコミュニケーション能力が高まる可能性が高まります。
そういうメンタリティーをつける具体的な例としては特に親や周りの大人が子供が何か好意をもってしてくれたことには「ありがとう」と言い、子供に対しても他者が彼、彼女に対して何かしてくれたら、感謝の気持ちを持つことの大切さを教え、ありがとうということを教えることは大切であると思います。ただ単純に礼儀作法だけではなく、その子供の社会(他者)に対する見方と行動に影響を与え、コミュニケーション能力の高さに関しても大きく関わってくる可能性があります。
後教育においては子供(のみならず大人も)楽しみながら学ぶということも大事かと思います。今私は空手をしておりますが、所属する団体が今小学校で空いている体育館を使って空手教室をしています。その中で空手だけではなく、礼儀作法やその基となる人や物に対する感謝や尊敬の気持ちを体験的に学ばせるにはどうしたらいいか、という話になり、今一つの試みを団体でやっています。
それは教室が終わった後の掃除の時間のモップがけで、かけっこのような形でよーいドンとモップをかけながら走らせるというものです。子供達はわいわい走りながらモップがけをしていきます。大人も参加しているのですが、大人もわいわい走ります。
このように楽しさを通じて、公共の場を掃除するという体験を積み重ねていくということは、伝統的な礼儀作法のみならず、日本や国際社会の場においても活躍するために必要な公共の精神を育むことにも有効なのではないかと感じます。モチベーションに注目することも当然ながら教育において重要な要素の一つだと思います。
ものを教える時は大人も子供に対して礼儀正しく教えるようにする。空手でも指導の時は厳しく教えますが、終わった後はお互いに正座をして向き合って頭を下げ、ありがとうございました、とお礼を言い合う。甘やかすのではなく、お互いに相手に対して尊敬の念を持つということは言葉だけではなく、行動や態度でもって示すことが重要です。
大人の方の心構えという点で、子供を見ていて思うのは礼儀を教えればきちんとそれを理解し吸収しているということです。大人の方が爪の垢を飲まなくては思うくらいです。もちろんやんちゃなところもありますが、非常にまじめで優しい性質があります。子供たちがその性質を保持し続け、さらに社会に出るためには、大人の方が理性と優しさを持って、身をもってそれを伝えていくということが教育の中でも非常に大事な要素になるでしょうし、少なくとも人として社会を生き抜くためのメンタリティーを育むような指導法も「基本的な教育」の一部として考えていくことは重要になるでしょう。
当たり前ですが大人の世界でもこのことは大切です。さらに言えば子供は大人を見て育つ部分があるのですから、教育面から見てもまず大人は心魂をもって範を示す必要があるようです。
例えば会社でも地域社会でもどのような場においても相手が何かミスをして叱る時にも感情任せに怒鳴るのではなく、きちんと理由を説明する、もし何か文句があるならば、こそこそと悪口を言うのではなく、誠実に堂々と意見を述べる、大人がこの様にお互いに尊敬の念を持ちながらも、自分の仕事や役割を果たし、自己主張する姿を子供に見せるということは百万語の言葉を使うよりも効果があるでしょう。それと同時に人生を楽しんだり、生き抜きをする姿も見せることも大事でしょう。そうじゃないとパンクしちゃいます。時には弱みを見せることも大事かもしれません。誰も完璧でないのですし、悩んだり苦しんだりします。だって人間damono。鉄腕アトムやあるまいし、常に清く正しく前向きには生きられません。
後テクニック的な事を言うと良い所を見つけてとにかく褒めるというのが教育において大事なのかと思います。相手の悪い面ではなく積極的に良い面を探すという態度を大人が示すことで、子供も自然とその態度を習うようになれば御の字です。
子供に対して(の前で)、あんたは○○だから、あの人は××だから、と決めつけるのもどうかと思います。相手がそれを聞いて傷つくかどうかも重要な問題ですが、その他に大人が無自覚に他人をある型にはめ込むことにより、子供も他人に対してそうしていいのかと思って、真似をする可能性もあります。
あの人は日本人だから、外国人だから、女だから、男だから、巨乳アイドルだから、大学教授だから、虚弱体質だから、筋肉馬鹿だから等々その個人を深く知るのではなく、ある一定の類型、ステレオタイプをもって他人や自分をとらえるということには、特に無自覚でする場合には、ある一定の危険性があります。その危険性を伝えずにそういったもの言いをすることは注意が必要なように感じます。自分が偏見をもっていることを自覚して、それを公言しながら言うなら倫理的には多少ましかと思いますが(よほど明確に人を傷つける意図がなければ)、その場合は「ああ、あの人はあんな人なんだな。」という偏見を持たれる可能性はあります(笑)。言う側も受け取る側も人間の一面性だけを見るのではなく、多面的に見る姿勢の大切さを伝えていくことも教育の大きな柱かもしれません。
さてここまで書いてくると子供より先に大人を教育しなくてはいけないという話になりそうです(笑)。もちろん私も含めてです。め~んどくせ~な~、と思いがちな話ですが、普段の生活からそういうことを意識することが、自分自身の教育となり、まわりまわって子供にも伝わって、その教育にもつながるんだ( ̄∇+ ̄)…とでも思わなければやってられません。お笑いの偉人が言われたように小さなことからコツコツと、ですかね。
もちろん誰も完璧な「大人」などにはなれないかもしれません(特に私なんぞは…
ヘ(..、ヘ)☆\(゚ロ゚ )アカンがな)。ただやはり子供は大人を見て、それをモデルとして影響を受けるという要素も大きいので、その自覚をもってしかし誠実に、なるべく本音と建前を分けずに理性的でなおかつ融和的な態度をとっていくことが大事ではないでしょうか。品格と気品が大事ざます(@◇@;)
皆が知恵を出し合って大きな意味での教育を考え実行に移していくのは重要なことですし、それ以前に教育は学校や家のことだけではなく地域全体のことだという意識を持つことも大切そうです。子供は社会のための財産でもあるので社会全体で育てるという相互扶助的な視点とその子の人生は本人のものなのだから好きなように幸せに生きてほしいという思いを合わせもった教育が必要かと思います。
例えば会社でも地域社会でもどのような場においても相手が何かミスをして叱る時にも感情任せに怒鳴るのではなく、きちんと理由を説明する、もし何か文句があるならば、こそこそと悪口を言うのではなく、誠実に堂々と意見を述べる、大人がこの様にお互いに尊敬の念を持ちながらも、自分の仕事や役割を果たし、自己主張する姿を子供に見せるということは百万語の言葉を使うよりも効果があるでしょう。それと同時に人生を楽しんだり、生き抜きをする姿も見せることも大事でしょう。そうじゃないとパンクしちゃいます。時には弱みを見せることも大事かもしれません。誰も完璧でないのですし、悩んだり苦しんだりします。だって人間damono。鉄腕アトムやあるまいし、常に清く正しく前向きには生きられません。
後テクニック的な事を言うと良い所を見つけてとにかく褒めるというのが教育において大事なのかと思います。相手の悪い面ではなく積極的に良い面を探すという態度を大人が示すことで、子供も自然とその態度を習うようになれば御の字です。
子供に対して(の前で)、あんたは○○だから、あの人は××だから、と決めつけるのもどうかと思います。相手がそれを聞いて傷つくかどうかも重要な問題ですが、その他に大人が無自覚に他人をある型にはめ込むことにより、子供も他人に対してそうしていいのかと思って、真似をする可能性もあります。
あの人は日本人だから、外国人だから、女だから、男だから、巨乳アイドルだから、大学教授だから、虚弱体質だから、筋肉馬鹿だから等々その個人を深く知るのではなく、ある一定の類型、ステレオタイプをもって他人や自分をとらえるということには、特に無自覚でする場合には、ある一定の危険性があります。その危険性を伝えずにそういったもの言いをすることは注意が必要なように感じます。自分が偏見をもっていることを自覚して、それを公言しながら言うなら倫理的には多少ましかと思いますが(よほど明確に人を傷つける意図がなければ)、その場合は「ああ、あの人はあんな人なんだな。」という偏見を持たれる可能性はあります(笑)。言う側も受け取る側も人間の一面性だけを見るのではなく、多面的に見る姿勢の大切さを伝えていくことも教育の大きな柱かもしれません。
さてここまで書いてくると子供より先に大人を教育しなくてはいけないという話になりそうです(笑)。もちろん私も含めてです。め~んどくせ~な~、と思いがちな話ですが、普段の生活からそういうことを意識することが、自分自身の教育となり、まわりまわって子供にも伝わって、その教育にもつながるんだ( ̄∇+ ̄)…とでも思わなければやってられません。お笑いの偉人が言われたように小さなことからコツコツと、ですかね。
もちろん誰も完璧な「大人」などにはなれないかもしれません(特に私なんぞは…
ヘ(..、ヘ)☆\(゚ロ゚ )アカンがな)。ただやはり子供は大人を見て、それをモデルとして影響を受けるという要素も大きいので、その自覚をもってしかし誠実に、なるべく本音と建前を分けずに理性的でなおかつ融和的な態度をとっていくことが大事ではないでしょうか。品格と気品が大事ざます(@◇@;)
皆が知恵を出し合って大きな意味での教育を考え実行に移していくのは重要なことですし、それ以前に教育は学校や家のことだけではなく地域全体のことだという意識を持つことも大切そうです。子供は社会のための財産でもあるので社会全体で育てるという相互扶助的な視点とその子の人生は本人のものなのだから好きなように幸せに生きてほしいという思いを合わせもった教育が必要かと思います。