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2009/12/18のBlog
[ 16:24 ] [ エッグマンのつれづれ探求 ]
このブログで不登校再考の記事の時などにさんざん言ってきてミニに宅八郎、いや耳にタコが出来るくらいかもしれませんが、子ども、若者支援を行う際にも、私たちを取り巻く環境や社会状況を見て、それに対しても働きかけることが重要となります。どうしてもほにゃらら支援というとその支援の対象者に対するサポートのみに目がいってしまいがちですが、例えすばらしい理念をもって個別にいくら良い、理想的なサポートが出来たとしても、個人を取り巻く社会や一般の人が全く違うルールで動いているならば、結果的に支援の目標を達成することは困難になります。

 例えば就労者、勤労者支援の場合、やりたいことが決まって訓練をしたとしても、受け入れる機関、企業や団体などの勤労者に対する待遇がひどかったり、そこの目的がその個人の目的と合っていない、あるいはそもそもその個人が望む様な所がない等々、というようなことになれば、いくら個人のモチベーションを引き出したり、いい訓練をする支援を行ったとしても元も子もなくなります。つまり子ども、若者支援の場合も個人が社会にあわせるための支援(職業訓練や学業支援等)と同時により多くの個人の意志を尊重し、それにより個人の能力を最大限に発揮させ、より活気ある社会にしていく活動も支援と同時並行で行うことがより効率的な方法であると思います。

 TOP PAGEにある三つめの事業の、子どもや若者の意見もしっかりととりいれ、その他にも老若男女、国籍、人種等を問わず、多種多様な人の思いや意見を発表する、という社会に対する啓発活動等も子ども、若者支援の中の一つとして、他のサポートと同時に行っていくのも一つの案です。

 人が仕事をするのは当然ながらそれにより生活をするための対価を得るためですが、ただ単にお金を稼ぐだけではなく、自分自身や自分のした仕事を他者から認めてもらえるかどうかというのも一つの大事な要素だと思います。

 企業やその他の法人等と協力、連帯しより良い職場環境、受け入れ先を創っていくことも若者支援の中の大切な柱の一つですが、そのためには理念だけをもって改善を図るのでは不十分で、企業や法人の大きな意味での利益と公益が結びつくような仕組みを作るということが大事になってくるかと思います。

 企業が発展するために一番大事なものは“人”で、どこも良い人材を手に入れることに一番苦労していると思います。より良い人材と言うのは能力やポテンシャルもさることながら、その企業や法人の仕事に対してどれだけモチベーションをもって働けるかということが非常に大切になってきます。

 先ほど述べたように勤労者(言い方が古い(?_?))は、自分自身や自分の仕事に対して他から認めてもらえるかという部分も働く上で重要になってくるので、企業や法人としてはまずその団体のミッションを明示し、さらに自分のところの仕事がこれだけ社会貢献している、或いは本業と別の分野でもこれだけ社会の役に立つことをしているとアピールすることが、求職者の関心を高め、様々な個性をもった人材が集まりやすくなり、ひいては企業や法人の発展にもつながる可能性が高まります。そして若者支援を行う側も雇う側とつながりを持ち、積極的にそういう所を若者や子供に紹介し、就業意欲を高めたり、個人の興味や目標、志等ととそれらの団体のミッションや仕事とのマッチングを行っていけば、子ども、若者の社会進出のためのモチベーションを上げ、自己研鑽に努めるための動機づけを高めることと企業や法人の発展を同時にねらうことができます。そしてそれが合理的な判断であればより良い職場環境を整えたり、社会貢献をしようとする企業等が増え、結果的により良い社会になっていくための正のスパイラルが出来る可能性があります。

 もちろん職場を通じての社会貢献だけではなく、職場以外の社会活動(コミュニティーの中や同じ問題意識をもった集団の中等での)も非常に大事で、就労支援と同時に社会教育やまちづくりも並行して行う必要があると思います。ただ生活をするためには働くことは重要であり、せっかく働くのならモチベーション高く働いた方がよりやりがいがありますし、企業などからみてもそういう個人が集まった方がコストパフォーマンスが高まり、より大きく成長する可能性が高まります。その意味でこれから働く側と雇う側両方のニーズに答え、さらに社会全体で創造していく形の総合的な子ども、若者支援を行うことが至急必要なのではないかと思います。

前回の記事、子ども、若者支援の可能性と有効性を考察する
2009/12/14のBlog
[ 16:10 ] [ エッグマンのつれづれ探求 ]
前回紹介した子ども、若者支援フォーラムの中で特に重要に思われたテーマの一つは「働くこと」についてです。宮元さんもおっしゃってられていましたが、今までは国の方では就職支援、勤労支援としてサポートしており、それだけではとてもカバーしきれないと思います。

 この子供、若者支援において、ただ単に就職すれば良い、仕事が見つかれば良い、という感覚、姿勢では効率的に支援することは難しいように見えます。

 まずは段階に分けてサポートすることが重要だと感じました。

 仕事を探すにしても、或いは勉強するためにもそれなりのエネルギーやモチベーションが必要となりますし、まずその部分をサポートの根底において支援することが最初の段階になります。

 ただひたすら休むことやカウンセリング等も方法としてはあるでしょうし、状況によっては集団活動や社会活動等をすることも有効な手段になりうるかもしれません。ただ本人が自発的に動ける位のエネルギーが溜まっているかどうかと、何か新しいことに挑戦するモチベーションがあるかが、サポートする側が一番留意せねばいけない点になるでしょう。

 次にエネルギーがある程度溜まって少し将来について考えたり、動いたり出来る状態になってから大事なのは、本人が何をしたいのか考えることです。サポートする方としては一緒に話し、その中で思いや意見をしっかりと聴き、何に興味があって何をしていきたいのかを共に探っていくという役割が大事になってくるでしょう。どう生きたいのか、どんな人になりたいのか、というのがその根幹にあるテーマです。

 そして第三の段階として、そのやりたいことや目標を達成するために情報や場を提供したり、或いはそういうものを提供出来る機関や団体、個人等を紹介したりつなげたりするサポートが必要となります。

 就労支援においては主にこの第三の段階のサポートを中心にしているようですが、この第三のサポートを受けるために想定された対象者というのは、基本的に最初から第一と第二の段階を終えている、つまり動くだけのエネルギーがあり、自分が何をしたいかはっきりしている人となります。

 逆にその最初の二つがしっかりしていなければ、最初に述べた通りサポート自体はどれだけ最善を尽くしたとしても非効率、非有効的になる可能性があります。最初から支援の対象と想定される人の数は限定的となり、支援自体の効果も薄くなります。仕事の紹介やマッチング自体は非常に大事な支援ですが、仕事をしていなかったり、定職についていない人にはそれさえすれば問題は解決する、という考え方は短絡的というかなんというか、若干認識が甘いというかやっつけ仕事的な考え方のように見えます。若者(だけではないが)の就労対策を考える人は誰でも視野を広げるために、若かろうが年配だろうが、偉かろうが偉くなかろうが、一度ニートになった気分で考えてみることが重要ではないでしょうか。

 話を戻すと、つまりより多くの人に対する勤労支援を有効的にするには、まず個人がエネルギーを回復するための支援と方向性を見つけるための支援をその前提として行う必要があるということになります。

 先に原則としては段階的に行うべきだと言いましたが、時には状況に合わせサポートを混ぜていくことも有効でしょう。例えば本当に疲れたり、傷ついたりしている人に対してはエネルギーを回復するサポートが大事でしょうが、そういう状態でも本人が何かやりたい事や志をもっている、或いはそれをもちたいと思っている場合はそれを実現するための方法を共に考え、少しずつ行動に移していくということを第一の支援を行いながらも同時並行でさせていくという方法が考えられます。例としては、第一の支援70%、第二の支援25%、第三の支援5%という感じで始めて、状況が変わってくればその割合を変化させていく、という風に流動的で柔軟なサポートが出来ればベターかと思います。

 理想をいえば全ての子どもや若者のサポート機関でこの様に総合的に行えれば良いのでしょうが、現実的には様々な資源の問題や意見の相違等があり、分業化されがちです。

 従って実際には一つの機関では先述の三つのサポートを行うことが困難な状況であれば、それぞれのサポートを行う機関が連帯しあい一つの機関が総合的に支援を行う様な働きが出来れば効率的な支援が可能になります。

 そのためには連携をとるための中間支援が必要となり、その一つの例としては私のブログのTOP PAGEでもあげた、二つめの事業の『インタラクティブな“場”の集合体の創造』もそれにあたるかと思います。ちなみにTOP PAGEの中の一つめの事業の相談事業が主に今回話した第一、第二、第三段階のサポートに該当し、二つめの事業の居場所や場づくりの事業は、第一の段階でも使えるもしれませんが、特に第二と第三の段階の時に関わってくることになります。これも先ほどから述べているように事業同士を状況に合わせて連動して行っていけばより効果的になると思います。

 今回は子どもや若者に対してどのような支援を行えばより効率的であるのかを考察してきました。では次回は当事者や個人個人ではなく社会や環境の方に目を転じて、どのような働きかけを行うことが考えられるのか見ていきたいと思います。
11月26日に尼崎で行われた宝塚NPOセンター主催の関西子ども、若者支援フォーラムに行ってきました。

 このフォーラムは2ヶ月程前に宝塚NPOセンターの方から紹介され楽しみにしていたのですが、事情により体の一部を悪くして満身創痍で(一部言うたやないかっ!(・_*)\)参加することになりました。

 前半のフォーラムでは、放送大学教授で青年社会学者の宮本みち子さん、兵庫県立川西高等学校教諭の山本誠さん、(特)こうべユースネットの責任者の佐伯隆義さん、八尾保健所の相談員で精神保険福祉士の杉原和子さんをパネリストにしての講演となりました。

 皆さんそれぞれ経験を元にされたお話やこれから若者支援の取組み等様々なことをお話されました。

 後半はこれらの支援に関わっている団体がそれぞれブースを出し、来場者に自分の所の活動を紹介する合同説明会でした。

 では次回は近々この子ども、若者支援フォーラムの中で感じ考えたことを述べていきたいと思います。
2009/12/10のBlog
さて前回までは主に世の中を生きぬく能力と教育の関係に焦点を当てつれづれなるままに考察をしてきました。従ってどうしても社会や地域とその変化に対する個人という図式を無視しては話が進められなかったのですが、個人的には社会がどうあろうと人として大切なものもあるだろうという思いがあります。

 その一つが考える姿勢です。

 それは例えば「なんでこうなるのだろう?」、「この人は何を言っているのだろう?」、「私はなぜこう考えるのだろう?」等の問いをもち自分の頭で考えてみる姿勢です。

 基礎学力にしても、ただ世の中を生き抜くための一つの道具としてとらえるよりも考えるための素地と見る方が私の心情により近いと言えます。

 社会を生き抜くために必要な能力として「考える力」をもつ必要がある、という考え方に対しては違和感があります。本来は「考える力」を目的にして、手法として勉強法があり、その副産物として知識がつき、結果として世の中を生きるための一助となればいい位のスタンスで伝えていく方が良いかと思います。

 例えば確かにいわゆる“お勉強”においても「考える力」は有効ですが、♪そんなーもーのの♪ためだけにあるのではなく、人として生きるために「考える力」はあるのだと思います。※全くの個人的見解です。

 正直に言うと「考える」ということは社会を“うまく”生きる上では邪魔になる時もあるかもしれません。

 ただ一方「考えること」は他人と関係を築いたり社会生活を送る上で必要不可欠な面もあります。考えるために外からの情報が必要でそのためには人の話をしっかりと聴くことが大切になり、そのことはその人と良い関係を築くことの基本だと思います。もちろん話の内容と同時にその人の気持ちもしっかりと聴ければより良いと言えますが、まずはその人が何を言いたいのかしっかりと聴く姿勢が大事ではないかと思います。

 このことについて、心理学者の中では反論があり、例えばコミュニケーションにおいては表情やジェスチェーなどの非言語的な内容の方が話の内容よりも影響を与えると言っている人もいます。話し方や聴く態度等の非言語的な内容も大事ではあるが、それも話の内容があってのことで、ゆえに内容の方が第一義である、というのが私の意見です。ただし話を聴く場合は向こうが話さないと内容もわからないので、話しやすい雰囲気を作り、そしてしっかりと話をしっかりと聴いて考え、その内容に基づいて自分の意見や見解を述べていけば、最初に話した方もそれを聴いて考えまた話していくという風にして会話が成り立っていくと思います。

 もちろん実際のコミュニケーションの中には非言語的な要素の方が比重が高いケース(喧嘩など)もありますが、それを通して相手と良い関係を気づくために大事なのは(話をする場合も)、相手に寄り添う姿勢であったり、その基となる相手に対する思いやりの気持ち、ということになります。

 つまり社会がどうあれ人として大事になってくるのは考える力と思いやりの気持ちだろうということになってきますが、もちろん社会から影響を受けることは避けがたく、また社会に影響を与えるためにも必要な要素でもある点からみて、考える力と思いやりの心は社会とも相互作用の関係性もあるかと思います。ただ考えるという行為は社会がどうこうとか、他者がこう言うからというよりも、個々人の興味や好奇心によって自然に起こる面もあるように見えます。

考えるということは誰にでも出来ます。例としては私の様に才なく徳なく、ろくでもないななでもない者でも考えて発言することは可能です。このブログを書いていると、私の様な力のない塵芥の様な人間が意見を述べることによって、世に棲む隠れた凄い素質を持っているが引っ込み思案な人たちが「あんな奴よりも俺、私の方がもっと出来る。」と思って、積極的に意見を述べる様になれば良いのにという思いが湧いてきます。

 話を少し教育の方に戻すと、時々、自分には経験や実績がないので意見を言う資格はない、という発言を耳にします。意見を言いたくない人はいると思いますが、意見を言う資格がない人は世の中に一人もいないと思います。もし経験がないと意見が言ってはいけないなら、子供たちや内向的な人間は意見を言いにくくなり、経験豊かな人の話を聞くだけの存在になります。そういう状況は、例えそれで社会がまわろうがまわるまいが、私は望ましいと思えません。

 話は変わって、昔中国の燕という国で、燕の昭王が良い人材を集めるにはどうしたら良いか、郭隗先生という人に尋ねました。郭隗さんは、

「この私は屑野郎ですが、こんな屑野郎に高い評価を与え厚遇すれば、『あんな屑野郎が評価されるんだったら、わしやったらもっといけるんちゃうか。』と世界中から人が蟻のように群がってきて、優秀な人材も集まるでっしゃろ。燕を南の斉の脅威から守り、安全な地帯にするためにはまずI Love Youから始めよう…いや、まず隗からはじめてはどうかな。うっしっし。ハウマッチ」

 と言ったとか言わないとか。そして隗先生の言う通りにすると、果して燕には各地から人材が集まり、その中には諸葛孔明もリスペクトしてやまない稀代の名将楽穀もいました。ちなみに軍略の面では孔明は楽毅の足元にも及ばないかもしれません。

 私には燕の昭王の様な後ろ盾も無く、誰からも高く評価されることもなく、能力も隗先生よりも遥かに下位でしょうが、声をあげていき、隠れ声をひそめている優れた人たちと共により良い社会を創っていければ、最高で~す( ´ ▽ ` )ノ 

 全て上手くいっている時よりも、どん底にいる時の方がよくものが見え、考えられるということもあるかと思います。例え調子が良い時でも、どんなに高い地位にいても、経済的に恵まれていても、常に自分はどん底にいるという感覚を持ち、まず下位からはじめよう。
2009/12/07のBlog
11月25日に第25回学びのデザイン研修会「政策形成への市民参加ワークショップが機能するには」に参加しました。

 これはこの前にもお世話になったシチズンシップ共育企画主催のワークショップで、今回の検証事例は「WWViews in Japan」でした。

 「WWViews in Japan」とはポスト京都議定書の検討事項について38ヶ国の市民の意見をまとめて発信するというデンマーク発のグローバルな市民参加の社会実験の取組みです。日本では、京都を舞台に、北海道から九州まで18~60代の男女105名の参加者が集まり、5、6人の18グループに別れ議論しその結果を政策提言として発表しました。

 今回の研究会ではそのイベントの日本での実行委員の大阪大学コミュニケーションデザイン・センターの八木さん、グループのファシリテーターを務めた神戸ワークショップ研究会の西さん、神戸まちづくり研究所の東末さん、Tao舎の大滝さんをゲストとして呼び、そして今回そのイベントでもファシリテーターを務めた共育企画の川中さんが今回研究会のファシリテーターをされました。いつも親しくさせてもらっている市民事務局かわにしの三井さんも途中から来られ、共に研究会に参加しました。研究会ではオリエンテーションの後、イベントの概要、そしてゲストからグループで何が起っていたのかの話があり、フリーディスカッションの後にクロージング(閉会)となりました。

 今回の研究会では、環境問題をとりあげるのではなく、このイベントの運営であった問題点等を基に、地球温暖化防止政策に関わらず専門家ではない市民が政策形成に関わる意義と課題について話し合い、その中では105人の参加者の選び方の正当性、政策提言を作成するにあたっての準備不足、会議の進行方法の問題、研究者とファシリテーターと参加者の認識の違い、このイベントの主催者の政治的意図等が議論になり、問題点だけではなく今後日本でも政策提言やまちづくりのためにも活用できる可能性も見えてきました。

 より市民が自分で考え、自分たちでよりよい社会を創っていくためには、専門家ではない市民、つまり我々のような普通の人たちが社会問題について考え、声を出し、そして実際の変化につなげていくような行動が重要になっていきますが、今回の「WWViews in Japan」はその一つの例として興味深いものがありました。またこの研究会の詳しい内容については別の機会にご紹介出来ればと思います。
2009/12/06のBlog
私自身もそうですが、より幅広い視点を持つためには、様々な個性や経験を持つ多くの人の意見を見て知ることが必要です。

 私のブログでは出来るだけ積極的に他の人のサイトやブログとつながりを持ち、さらにここに来られる人にとって、気軽に寄れるホットステーションの様にしていくのも一つの目的であり、活動の理念とも合致します。

 今回は11月28日(なりたて)に登録した「にほんブログ村」というブログアグリゲーションサイトの中の(このブログとも関連のありそうな)三つのカテゴリーを紹介したいと思います。これ以外にも様々なカテゴリーがあり、多くの人が書いているブログが興味がある人は一度ご覧下さい。出来れば私のブログからいって頂ければありがたいです\(^▽^)/

 ブログ村は閲覧するのも参加するのも無料で、営利を目的とした行為も禁止しているので純粋に他の人の意見を見たり、興味のあるテーマの記事を探したり、コミュニケーションやつながりを持つために、お気軽に利用できると思います。

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各分野:教育メンタルヘルス政治
さらに詳しく:社会教育心理カウンセリング市民運動・社会運動

2009/12/04のBlog
前回は「基本的な教育」を考える上ではインプットする能力とアウトプットする能力両方をみることが大事であり、さらにそのためには心理的要素、特にモチベーションに注目することが大切であると述べました。

 他者と友好的な関係を築くために、その前提として他者が喜ぶことを自分のことに喜ぶためにはメンタリティーや他者の気持ちになって考えられる力が必要となります。

 そしてそういう能力をつけるためには、いわゆる机の上の勉強ではなくてより感情的、実際的な学びが必要になるかと思います。

 例えば我々が他者に何かをして喜ばれれば、またしようとします。また逆に我々が他者から何かをされてお礼を言えば他者も喜びますし、我々も幸せな気分になります。

 この様な体験が重なれば他者と関わることにポジティブなイメージを持つ可能性が高まり、他者と肯定的に関わる回数が増えれば、他者と友好的に付き合う力やコミュニケーション能力が高まる可能性が高まります。

 そういうメンタリティーをつける具体的な例としては特に親や周りの大人が子供が何か好意をもってしてくれたことには「ありがとう」と言い、子供に対しても他者が彼、彼女に対して何かしてくれたら、感謝の気持ちを持つことの大切さを教え、ありがとうということを教えることは大切であると思います。ただ単純に礼儀作法だけではなく、その子供の社会(他者)に対する見方と行動に影響を与え、コミュニケーション能力の高さに関しても大きく関わってくる可能性があります。

 後教育においては子供(のみならず大人も)楽しみながら学ぶということも大事かと思います。今私は空手をしておりますが、所属する団体が今小学校で空いている体育館を使って空手教室をしています。その中で空手だけではなく、礼儀作法やその基となる人や物に対する感謝や尊敬の気持ちを体験的に学ばせるにはどうしたらいいか、という話になり、今一つの試みを団体でやっています。

 それは教室が終わった後の掃除の時間のモップがけで、かけっこのような形でよーいドンとモップをかけながら走らせるというものです。子供達はわいわい走りながらモップがけをしていきます。大人も参加しているのですが、大人もわいわい走ります。

 このように楽しさを通じて、公共の場を掃除するという体験を積み重ねていくということは、伝統的な礼儀作法のみならず、日本や国際社会の場においても活躍するために必要な公共の精神を育むことにも有効なのではないかと感じます。モチベーションに注目することも当然ながら教育において重要な要素の一つだと思います。

 ものを教える時は大人も子供に対して礼儀正しく教えるようにする。空手でも指導の時は厳しく教えますが、終わった後はお互いに正座をして向き合って頭を下げ、ありがとうございました、とお礼を言い合う。甘やかすのではなく、お互いに相手に対して尊敬の念を持つということは言葉だけではなく、行動や態度でもって示すことが重要です。

 大人の方の心構えという点で、子供を見ていて思うのは礼儀を教えればきちんとそれを理解し吸収しているということです。大人の方が爪の垢を飲まなくては思うくらいです。もちろんやんちゃなところもありますが、非常にまじめで優しい性質があります。子供たちがその性質を保持し続け、さらに社会に出るためには、大人の方が理性と優しさを持って、身をもってそれを伝えていくということが教育の中でも非常に大事な要素になるでしょうし、少なくとも人として社会を生き抜くためのメンタリティーを育むような指導法も「基本的な教育」の一部として考えていくことは重要になるでしょう。
当たり前ですが大人の世界でもこのことは大切です。さらに言えば子供は大人を見て育つ部分があるのですから、教育面から見てもまず大人は心魂をもって範を示す必要があるようです。

 例えば会社でも地域社会でもどのような場においても相手が何かミスをして叱る時にも感情任せに怒鳴るのではなく、きちんと理由を説明する、もし何か文句があるならば、こそこそと悪口を言うのではなく、誠実に堂々と意見を述べる、大人がこの様にお互いに尊敬の念を持ちながらも、自分の仕事や役割を果たし、自己主張する姿を子供に見せるということは百万語の言葉を使うよりも効果があるでしょう。それと同時に人生を楽しんだり、生き抜きをする姿も見せることも大事でしょう。そうじゃないとパンクしちゃいます。時には弱みを見せることも大事かもしれません。誰も完璧でないのですし、悩んだり苦しんだりします。だって人間damono。鉄腕アトムやあるまいし、常に清く正しく前向きには生きられません。

 後テクニック的な事を言うと良い所を見つけてとにかく褒めるというのが教育において大事なのかと思います。相手の悪い面ではなく積極的に良い面を探すという態度を大人が示すことで、子供も自然とその態度を習うようになれば御の字です。

 子供に対して(の前で)、あんたは○○だから、あの人は××だから、と決めつけるのもどうかと思います。相手がそれを聞いて傷つくかどうかも重要な問題ですが、その他に大人が無自覚に他人をある型にはめ込むことにより、子供も他人に対してそうしていいのかと思って、真似をする可能性もあります。

 あの人は日本人だから、外国人だから、女だから、男だから、巨乳アイドルだから、大学教授だから、虚弱体質だから、筋肉馬鹿だから等々その個人を深く知るのではなく、ある一定の類型、ステレオタイプをもって他人や自分をとらえるということには、特に無自覚でする場合には、ある一定の危険性があります。その危険性を伝えずにそういったもの言いをすることは注意が必要なように感じます。自分が偏見をもっていることを自覚して、それを公言しながら言うなら倫理的には多少ましかと思いますが(よほど明確に人を傷つける意図がなければ)、その場合は「ああ、あの人はあんな人なんだな。」という偏見を持たれる可能性はあります(笑)。言う側も受け取る側も人間の一面性だけを見るのではなく、多面的に見る姿勢の大切さを伝えていくことも教育の大きな柱かもしれません。

 さてここまで書いてくると子供より先に大人を教育しなくてはいけないという話になりそうです(笑)。もちろん私も含めてです。め~んどくせ~な~、と思いがちな話ですが、普段の生活からそういうことを意識することが、自分自身の教育となり、まわりまわって子供にも伝わって、その教育にもつながるんだ( ̄∇+ ̄)…とでも思わなければやってられません。お笑いの偉人が言われたように小さなことからコツコツと、ですかね。

 もちろん誰も完璧な「大人」などにはなれないかもしれません(特に私なんぞは…
ヘ(..、ヘ)☆\(゚ロ゚ )アカンがな)。ただやはり子供は大人を見て、それをモデルとして影響を受けるという要素も大きいので、その自覚をもってしかし誠実に、なるべく本音と建前を分けずに理性的でなおかつ融和的な態度をとっていくことが大事ではないでしょうか。品格と気品が大事ざます(@◇@;)

 皆が知恵を出し合って大きな意味での教育を考え実行に移していくのは重要なことですし、それ以前に教育は学校や家のことだけではなく地域全体のことだという意識を持つことも大切そうです。子供は社会のための財産でもあるので社会全体で育てるという相互扶助的な視点とその子の人生は本人のものなのだから好きなように幸せに生きてほしいという思いを合わせもった教育が必要かと思います。
2009/12/02のBlog
現在私が働いている家庭教師センターの同僚たちです(^-^)

 私はここで普段家庭教師の先生の研修、顧客管理や事務処理を行い、そして保護者や生徒さん、先生と話をして相談にのったりしています。ついつい話を聴いていると長くなり、30分くらい電話で話してしまうこともありますが、話しあうことで相手に喜んでもらえたり、またこちらも学ばしてもらうことも多いので日々感謝感激大滝秀治です!!

 この中で一番ふざけている人が(みんなふざけていますが(笑))一番偉い人です。別に役割の話だけではなく、人間としての器と顔がでかくて、その上男気があって太っ腹で三段腹です。しかしなんといっても人として一番大事な優しさも持っています。まさにハムの人…いや「信」の人だと思います。他のすべてのメンバーも皆気が良い人物たちで明るい雰囲気で仕事が出来ています(もちろん暗い時もあります。もしいつも明るかったらその人はイっちゃってます。)。

 仕事の他にもメンバーと他の仕事場の仲間らと誕生日会や飲み会などもよく行き、私も業務以外ではアルコールの抜けない毎日ですが(んなこたーない)、皆の仕事に対する高い意識を見ながら日々研鑽いたしていまふ。

 同僚のみなさん、不肖私は社会活動やその他で忙しく励んでおり毎日ははいれませんがこれからもよろしくお願いします
2009/12/01のBlog
前回までは我々がどんな社会を望むのかということが、どんな教育システムを構築するのかを考える上で非常に重要である、と述べてきました。

 ただし我々が白紙から社会を新しくて創るわけではなく、実際には現在ある社会をそれまでの歴史や経緯を踏まえながら、皆で変えていく、という作業になります。つまり「現実」を見ながら、そこにあることからより望ましい社会を皆で構築していくことが重要となります。

 では話を教育に戻して、教育の目的の一つである社会を生き抜く人材を育てるということに関して、現在どう定義しさらにその実際はどうなのか見ていきたいと思います。

 よく言われるのが、今の教育の目的は国際社会を生き抜く人材を育てることだ、ということです。

 これはグローバル化の進んだ現状においてちょっと反論しがたい考え方だといえます。

 ただこの目標設定は(それのみでは)非常に曖昧な印象があります。

 まず“国際社会”といえども、働く場所とその内容によって求められる能力や心構えは変わってきます。

 例えば同じ世界をまわるにしても、世界で名だたる大道芸人になってまわるのと、外資系の証券会社に勤めてまわるのでは、必要とされる能力は違います。

 或いは医者という職業を選んだとしても、働く場所が日本なのか、アメリカなのか、中国なのか、北朝鮮なのかで求められる条件が若干変わってきます。

 実際に世の中で生きる(仕事をしたり、地域社会に貢献したりする等)ためには、その場にあった能力が必要ですし、そのためには教育や訓練も細分化、専門化される傾向があり、それが個人の意思や個性に沿うことが出来れば、社会にとってより効率的であり、個人にとっても満足度の高いものとなるでしょう。

 ただどこの場所でもどんな状況でも必要とされる能力もありそうです。それは考える力や学ぶ力等情報をインプットし発展させていく能力、自分の意見を外に向けはっきりと伝える能力やコミュニケーション能力、他者と友好的に付き合う力等自分の中にある情報をアウトプットし、それにより他人との関係を築いていく能力です。

 「基礎学力」は最初の考える力や学ぶ力をつける最初の段階の一つのツールであると見ても良さそうです。

 自分の意見を伝える能力やコミュニケーション能力をつけるためにも基礎学力も大事そうです。しかしその他にも必要なものがありそうです。

 私は能力を高めたり、社会にとって重要とされる行動をとるためには、その前提としてその心理的素地やモチベーションが必要であると考えます。人と友好的に付き合うことや人のためになることをすることを幸せに感じれば、能動的に人と接し話す機会も増え、コミュニケーション能力や自分の意見を言う能力も高まる可能性が上がります(もちろんそれだけではなく考える力等も関連しますが)。

 そして思考力や分析力等のインプットする能力とコミュニケーション能力等アウトプットする能力は、机の上の学問と体験的な学びを組み合わせることにより、相互作用的に上がっていくことが予想されます。

 従って例として確かに基礎学力をあげることはこの二つの能力を上げるために必要ですが、ただそれだけでは、今の社会を生き抜くためには不十分で、特に自分の意見を表現するなどのアウトプットする能力を高めることを念頭においた教育も「基本的な教育」の一つであると言えそうです。前回の最後にもふれましたが、もし現代の教育が基礎学力や偏差値を基準にした教育のみにますます偏っていくならば、教育の目的とは逆の方向、とまでは言いませんが、非常に不十分な状況になりかねません。
ただ注意しないといけない点は、確かに人と接することは様々な能力を高めるために有効な手段に見えます。しかし実際に人と接するためには、人と接したい、というモチベーションがあるかどうかがその前提となります。例えば人と接するのが大事だからといって、疲れていたりその気がない人に“無理矢理”他者と会わせようとすることは、倫理的な問題の他に、教育的な観点から見ても逆効果になる可能性もあります。

 例えば人と接することによって、傷ついて(傷つけられて)いた経験をたくさん持っていると、人に会うという行為自体が心理的に大変な負担になります。周りとしては(あるいは本人も)いかに本人が自分自身や外界(世の中)に対して少しずつプラスのイメージを持つようになれるのかを考慮にいれることが必要になると思います。人と接することやコミュニケーションをとること、カウンセリング等は一つの手段かもしれませんが、手段は手段です。

 手段をとれば良くなるのではなく、良くなるために手段をとるのが本筋です。

 能力を上げるのも同じで手段にとらわれるのではなく、個人や状況に合わせ柔軟に対処する能力が必要となります(ちなみにこれも社会を生き抜くための力の一つのようです)。

 私自身も元々内向的な面もありますが、今は毎日外に出て多くの人と接しています。それは生れた時からそうなのではなく、今までの体験から何とか人と接することは自分にとって大切なものであると少しずつ思えるようになってきた過程があるからだと言えます。むしろ今でもバランスを微妙なところで取っている感じです。

 教育は「強制」なのかという議論があります。子供の個性が多用である以上全ての子供にとって楽しい教育やしつけというものは有り得ないので、もし大人が善意を以て教育してもその時子供がそれに対して興味を持たなかった場合は、それは子供にとって「強制」となります。

 このこともまた掘り下げてみたいテーマですが、私は教育において「強制」が良いか悪いかの議論よりもむしろ、教育は現実的には上記の理由により「強制」の面があるときちんと認識することが大事かと思います。倫理的にも教える側は責任感を持ち、手法をきちんと考え、自分が誤っていると思えば誠実にそれを伝えることの方が大事だと思います。

 もちろん強制ではなく自発的に学ぶこてゃ大切なことです。しかしやる気のない他者に直接「自発性をもて!」と言うことはギャグやネタとしては成立しますが、理論的には無茶苦茶です。自分の中から発するから自発性なのであり、人から言われて発するものではありません。ただもちろん個人が自発性をもつためにも周りの働きかけは重要であり(恣意的であってもなくても)、ゆえにモチベーションに注目することは非常に大切になります。

 少し余談ですが、先ほど述べたように個人は周りの環境から、望む望まぬにかかわらず影響を受けます。引きこもりの場合、人が引きこもる原因は多種多様でしょうが、結果として出来るだけ他者からの影響を受けないようになるという効果はある程度一般的であると言えます。悲しくて苦しいから引きこもるという場合もありますが、例えば作家のように自分の世界を突き詰めるため、他者の影響を受けないよう引きこもるというケースもあります。従って引きこもりという場合も全てが受け身でそうなったのではなく、自らそうするという要素も高いこともあるという視点も見逃せません。

 話を戻すと、私は人は完璧ではないので間違えるものだとも認識しています。だからこそしっかりと考え、しかし失敗を恐れず積極的に意見を述べ行動し、他人の意見や立場も理解しようとする個人が集まった社会が望ましいとの意見を持っています。

 では次回は今回の話を踏まえてモチベーションを重視しながら「基本的な教育」(と考えられる一つ)をどうやって行うのか考えていきたいと思います。
2009/11/28のBlog
どんな社会を望むのか、ということはディテールを言っていけば人によって千差万別です。

 ですので今回は大きくどんなタイプの社会がオプションとしてあるか、自助、共助、公助という三つのトピックを使って考えてみたいと思います。

 個人が何か問題につきあたった時、自分で努力して問題を解決をすることを自助、他人と助け合いながら解決をすることを共助、国家や地方自治体等行政によって解決をすることを公助と定義し話を進めていきます。

 自助に重きをおく社会では自分自身で問題を解決する能力を求められ、教育においても個人が一人で生きていける力をつけることに重点をおきます。例としては市場中心主義、新自由主義国家があげられます。

 ちなみにアメリカの新自由主義(ネオリベ)は、経済はより公正、自由な市場主義(名目上は)で、精神面は教会を中心とするキリスト教(ブロテスタント系)のコミュニティーとNPOでカバーするという(アメリカの)伝統的保守主義に支えられている面があります。

 逆に言えば教会や宗教によってコミュニティーを作ったり、精神面をサポートしたりする歴史や習慣がない国で絶対的市場主義を取り入れた場合何か違うもので補填しなければ、人々は誰にも相談できず一人で不安を持ちながら問題に対処せねばならず、社会が上手く回らない可能性があります。

 共助に重きをおく社会は、地域のコミュニティーがしっかりとしていて、皆で助け合いながら問題に対処していきます。教育においては個人の能力を高めることの他に、人と良い関係を作ったり、協力しながら問題を解決する能力をつける内容を求められます(もちろん学校内だけではなくて)。

 よく昔の日本は良かったと言う時には、こういう社会をイメージしており、正に古き良きニッポンといった感じです。ただコミュニティーがしっかりしているということは、やり方(或いはメンタリティー)によっては、よそ者は入りにくい等の排他性やその集団内で異質なものは無視したりはじき出そうとする村八分や既得権益者が固定する等の現象が起る可能性があります。

 市場主義の様に自由に出入り出来るようにするか、条件をつけるにしても公平で透明性の高いものにし、徹底した情報公開を進める必要がありそうです。また自分と違う“他者”を受け入れるメンタリティーを育む教育も大事になるでしょう。

 公助に重点におく社会においては、個人に何か問題が起った場合に国が個人に積極的に介入、援助し問題を解決する特徴があります。

 個人の問題は社会全体の問題だ、或いはその影響によるものだ、という理屈はある一面正しい(というか私も散々前回不登校の連載の際に繰り返し言いましたが…σ(^◇^;))かもしれませんが、実際に援助するとなると、一部教育(市民自治やメディアリテラシー等に関して)がしっかりしていないと依存心が強くなり、自分は何もせず文句ばかり言う風潮になるという問題と、その援助が的確で適性なのかどう判断していくのかという問題が起る可能性があります。

 余談です。この場合の公助の「公」は国の機関や行政の意味が強いですが、本来「公」とは民衆という意味があります。私もよく「公」(おおやけ)という言葉を使いますが、主に人々(日本や世界)の集合体という意味で使います。

 話を戻して、通常これらの三つの特徴は、一つの社会において混ざりあっており、どれか一つだけ百%該当するということは考えられません。

 この三つの項目はどのような社会が社会システムが望ましいか考える際に一つの指標になるでしょう。またこれらを使いながらどういう社会が望ましいのか考察していきますが、その前に今の教育の目的とされているものがどこまで今の社会に適合しており、また今の教育を続けているとどういう社会になっていく可能性があるのか考えてみたいと思います。
2009/11/23のBlog
さて今回は「基本的な教育」について考えていきたいと思います。

 「基本的な教育」というと最初に思い付くのが「基礎学力」です。基本的な日本語の読み書き、計算能力、論理的思考等は、生きていく上で必要である、という考え方はそれなりに妥当なものであり、私個人もその意見には賛成です。

 ただ前回述べた通り、教育は我々がどういう社会になることを望んでいるのか、ということが重要になります。そしてそういう社会にするためには、どういう人材が必要なのか、を明確にし、それを皆に伝えながら、教育システムを考え、構築していくことが必要であると考えます。

 さて基礎学力に関しては、私は大事だと思いますし、その伝達のための手法として、競争意識や好奇心等、心理面を考慮することは大切だと思います。

 一時期(或いは今でも)、教育において競争をなくした方が良いという考え方もあったそうですが、これには私は懐疑的です。

 確かに人との競争よりも、克己心や自発性を身に付けることは大事ですが、ただ単に形式的に競争を無くしても、それらが身に付くと思うのはあまりに楽観的です。克己心や自発性を身に付けるためにはそのための訓練や経験を積むことが必要であり、競争があるかないかとの関連性さえどの位あるのかさえ定かではありません。

 また、勝ち負けをつけるとそれを理由にいじめがおこる、という考え方も本末転倒だと感じます。他人が自分と立場や能力、個性が違っても戸惑わず、受け入れるマインドを育てることの方がどう考えても先決なように思われます。

 たとえ自分がある場面で優位であっても謙遜する美徳、そしてより高みに向い努力出来る力を養い、そして自分がまた違う場面では人より劣ることを経験することにより、弱者の気持ちを知り、皆が他人に対し能力に関係なく尊敬の念を持てる様になれば競争の結果としていじめは起きません。

 もちろん競争者は勝つ喜びや負けた時の悔しさ等を味わうでしょうが、周りの者がそして社会全体が勝者にも敗者にも尊敬の念を持ち、その努力を讃える、という感覚やイメージを共有出来るかが、競争自体がいじめの原因になるのか、それとも成長の糧となるのか、重要な影響を与えます。

 皆そろってゴールさせるということは、他人との差異を認めないというメッセージを伝えることになり、違う個性を持った他人、或いは自分の中でも多様性を受け入れるということと相反します。

 他人と違うといじめられるから順位をつけないという考え方もいろんな意味で的外れで、私からするとギャグにしか聞こえませんが、ただし本当に現実にそういう現象が起こる場合があるのであれば、それは順位をつけるせいではなくて、環境や教育による影響が大きい考えられるので、そこの点をまず改善することが先決でしょう。例えば私は小学校の時足が遅くて、かけっこではいつも後ろの方でした。ただ相撲は得意で大体勝っていました。別に足が遅いから、相撲が強いから、いじめられたりいじめたりしたことはありません。運よく私の周りでは他人と違うからいじめるというマインドを持った人がいなかったからかもしれませんが、そういうことを良しとしない「場の雰囲気」もありました。ただ個々人の運に任せるのではなく親や周りの大人は積極的にそういう雰囲気を創るために努力をすることの方が、形式的に順位をつけないということよりも余程大切で効果的なことだと思います。

 余談ですが、他人と違うことを嫌うのは日本人の習性だ、という考え方は私は全くの見当違いであると考えます。日本人の習性と言うからには、他の国の人と比べてという意味なのでしょうが、歴史的に日本ほど他の国の文化を取り入れ、それを豊かに発展させ、今も融和的に共存させている国はあまりないと思います(あくまで相対的に見てであって、全くその傾向がないとは言いませんが)。ではなぜそういった“迷信”のごとき考えが出てきたのか気になるところですが、これはまた別の機会に取り上げ、話を戻します。

 さて日本には勝負は時の運という諺があります。競争が問題なのではなく、勝った時、負けた時の認識の仕方が大切であり、さらには周りの反応や環境が重要なファクターとなってきます。例え自分の得意分野がその時見当たらなくてほとんどの競争に(運悪く)負けたり、後ろの方であったりしても周りの反応が受容的で、「勝負は時の運」的な姿勢をもって、そういう態度を示せば無意味に傷付く人もいないでしょう。

 ではそういう状況を創るためには教育においてどういう風にすればいいのか考え、一つの例をあげると、まず負けた者を周りが蔑むということはカッコ悪い、醜いという考え方をしっかりと伝えることが大切であると思います。それをまず大人が範をもって示すことが肝要です。

 どういう環境を作っていきたいのかということはどんな社会を我々が望むのかということにつながっています。そして今回の話を例にとると、どちらが良いか悪いかは措いておいて、例えばただ勝てばいいと思う大人が沢山いる社会を創るのか、仁義を愛する士が多く住む社会を創るのかに関して、教育は大きな影響を与えます。その前にどちらの方が望ましいかの判断は、社会の総意と決断によります。

 さて今回は「基礎学力」と「競争」に目を向けてきました。「基礎学力」は「読み、書き、計算」というのが一般的な定義のようで、私もこれらは非常に重要であると考えますが、一つ気になる点は教育を考える上でこの「基礎学力」自体が「目的」となり、それをつけるためにはどうしたらいいかという「手段」が語られるということが多くなっているということです。

 私はもともと「基礎学力」をつけることは人として社会を生き抜くための「手段」の一つであるとの考えを持っています(一方で、もちろん学問を深めるということは個人にとっての好奇心や探究心を満足させるためでもあり、基礎学力をつけることはそれを可能にするために必要な条件でもあるという考えも持っていますが)。従って必然的にその「基礎学力」をつけたり上げたりする方法(勉強法等)はその「手段」のための「手段」になります。もしその「基礎学力をつけること」という「手段」を「目的」にしてしまった場合結果として考えられるのは、もしそれが成功したケースでも学力は付いたけれども「何のため」なんだ?、という疑問が生まれるということです。

 例えば本来生活をするための「手段」として金を稼ぐ、ということであったのが、金を稼ぐのが「目的」になってしまっては、そのために生活の他の部分に目がいかなくなる可能性が出てきます。これも「手段の目的化」の一つの例と言えるでしょう。さらに言えばこの「学力をつける」や「金を稼ぐ」が本来大きな「目的」のための「手段」であったことを忘れ(あるいは無視し)、それのみを最初から「目的」として子供に教えたならば、本来の「目的」よりももとは「手段」であったものを「目的」と思い、そういった教育を受けた人たちの中の社会に対するイメージや価値観、思考様式にも影響を与える可能性があります。

 話を戻しますと本来の教育の大きな「目的」の一つは「社会を生き抜くこと」であり、社会をどう生き抜くかはそれが「どのような社会であるのか」によって変わってきます。ゆえに本文で述べている通り、教育において、将来どのような社会を目指し、そのためにはどのような人材が必要となるか、という視点が、その内容を決める上でかなりの重要性をもってきます。

 では次回も引き続き「基本的な教育」についてつれづれなるままに考えてみたいと思います。
2009/11/19のBlog
[ 17:08 ] [ エッグマンのつれづれ探求 ]
前に「大阪ペンギン」さんより大変示唆に富んだコメントを頂きました。このブログも私がただダベっているだけでは華がなく、様々な方の意見を取り上げていければと思いますので、ぜひ意見や批判、問題提起等を気楽にコメントしていただければこれ幸いです。基本的にコメントを引用するときは本人の了解を得た上で掲載していきたいと思います(もし音信不通の場合はその度に判断します)。参加型のような形でわいわい楽しく、時に真面目で真剣に、激しくやっていくのも面白いんでないかな(!?( ̄□ ̄;) どこの方言…)。
お待ちしております。

 大阪ペンギンさんのコメントの一部:『…現在進行中のいわゆるエリート教育の復活、学校間格差の拡大に非常に懸念を抱いています。個々人にあった教育という「美名」の下に、スタート時から教育内容に差がつけられているのではないでしょうか?例え不登校が解消したとしても、戻ってくる中学なり高校のレベルがバラバラであれば、社会の普遍的なルールを教える(例えば標準語=共通語という日本語を理解する等)ことさえ不可能になってくるのではないでしょうか?僕の言った例は余りにも極端すぎるかもしれませんが、皆がある程度の共通した教養を持つことは、それが強制であったとしても非常に大切なことだと思う次第です。』

 このペンギンさんのコメントが投げかけているのは、大きく分けて①基本的な教育とは何かという問題、と②格差の問題、についてだと思います。

 この問題の問題に密接に関わっている個所がコメントの中にあります。それは、「…例え不登校が解消したとしても、戻ってくる中学なり高校のレベルがバラバラであれば、社会の普遍的なルールを教える(例えば標準語=共通語という日本語を理解する等)ことさえ不可能になってくるのではないでしょうか?」という部分です。これは、学校を含めた子供の居場所と学ぶ場所のオプションの多様性の問題、とそれを選択する際に影響する経済格差等の問題、が示唆されているものと思えます。

 まず私なりにこの文を意訳させていただくと、「例え気持ちが落ち着き、行動をするくらいのエネルギーが回復したとしても、(オプションの一つとして)選べる学校という教育機関が(親の経済基盤やその時の子供の“学力“、その他の事情によって)バラバラであれば、“基本的な教育”を受ける機会が不平等になる、若しくは受けられたとしてもその“レベル”に偏りが出来るのではないか」という問題提起をされているのではないかと思います。

 私個人としては、全ての不登校のケースが学校に行くことで問題が解決するという見方はとっていません。もちろんペンギンさんはそれを踏まえて、ただもし学校(同じ所にしろ違う所にしろ)に戻りたいという意思のある子供を受け入れる学校の程度にバラツキが出るのではないかと危惧されているのだと思います。

 マクロの視点で見れば、どのような状況の子供でもペンギンさんの言う「社会の普遍的なルール」をしっかりと教える教育機関に入れるような仕組みを作ることが大事だということになります。ただその前にやっておかないといけないことが一つあります。それは「社会の普遍的なルール」の定義付けとその合意形成です。

 これは個々人や社会全体が社会に対しどういうイメージを持っているのか、どのようにして経済が成りたっているのか、何を大事にしているのか等、どういう社会のアイデンティティーを持っているのかに関わってきますが、特に若年者に対しての教育においてはどういう社会にしていきたいのかという、社会全体の意思に影響されます。

 ただ皆それぞれ違う個性や考え方を持っている(という共通前提を持っている)ので、普遍的なルールについて全員の合意を得るのは難しい。そこでこれくらいは持っていないといけないだろうと位置付けられている(ものの一つ)のが、「基礎学力」です。ただこれについても個々人の間に認識のばらつきがありそうです。

 では次回はさらに教育についてさらに深く突っ込んでいき、①の基本的な教育とは、についても考えていきたいと思います。
2009/11/17のBlog
[ 23:33 ] [ エッグマンのつれづれ探求 ]
この前の「不登校について」の連載では、主に学校に行く意義について社会状況の変化と照らし合わせて、不登校について見ていきましたが、今回はまた違った視点で考えていきたいと思います。

 社会状況の変化によって学校に行く意義が薄れてきたことと学校はとりあえず行くものだという共通概念、不登校に強い関連性のある長欠率が増えてきたのではないか、というのが前回の論点でしたが、これはある部分一面しかとらえていないと思われます。

 実際に子供の視点に立ってみると、現状において(昔でも)学校というものは良くも悪くも非常に重要な場所です。その理由は勉強をしたり、将来のためにという以前に、まず第一に多くの子供が一日に大半の時間を過ごす場所であるということです。

 この感覚は親や周りに大人たちにとって意外に共有されにくいようです。

 一つの例として自分の経験をあげると、私も高校の途中までは、学校に行く意義や将来のためというよりは、学校に行くのは当たり前という感覚で学校に行っていました。そして将来について考えだしたときに父親に学校に行く意味を聞いて見ると「学校とは自分のために利用する道具だ。」との答えが返ってきました。父としては、学校は将来のために勉強なり、職業訓練をするために学校というものは存在する、と端的に学校の「機能」について答えたのでしょう。その答えはある一つの考え方、見方としては間違っておらず、筋の通ってないことはないのですが、感覚的にはズレを感じました。私は実際に学校で長い時間すごしており、そこでの体験や人間関係等の重要性は高く、感覚的にはとても「学校は機能である」と切って捨てられるものではなかったからです。

 大人にとって学校は経てきたものであっても、今は学校には行っておらず感覚的にはその大切さはわかりませんが、子供にとっては(例えそのきっかけが強制的なものであっても)学校が実際に世界そのものである(あった)可能性が強いわけです。大人も学校に通っていた時はその感覚は持っていた可能性はあります。

 現実問題として学校は子供にとって大半の時間を過ごすのだから、そこは一瞬一瞬を過ごしている大切な場所だから、機能論のような大人の論理だけでは語ることは出来ないのではないかというのが今回の論点です。

 不登校の場合、その理由は何であれ学校に長期間行かない、というのは、自分の世界の大きな部分を変えるという意味もあり、それのみでも大変なエネルギーを消耗すると考えられます。さらに皆が行っているのに自分だけが行っていない、ことから罪悪感を感じまたエネルギーを消耗します。

 ただし、たとえ現在学校に行ってなくても相手の状態を推測して、共感する位の力や度量は“大人”であれば持っておいて欲しい、と思いがちですが、大人の方は“今、そこ”で子供がエネルギーを使い果たした(見た目ではそう見えなくても)ことよりも、子供の“将来”のことを考えがちです。

 その理由としては、先程述べた通り、学校に行かなくなることは、子供にとってある種の開放ではあるが、自分の今まで長い時間過ごしてきた“世界”からの決別であり、それを決断し、実行することは大変な労力がいるということを、今は学校に行っていない大人にとっては実感しにくいということが大きいと考えられます。

 さらに、そのエネルギーを消耗している過程が周囲から見えにくい、ということも理由の一つかもしれません。子供がやせ我慢をして限界まで耐える場合もありますし、メッセージを発してしても周りが気付かない場合もあります。意識的に気付かないふりをする場合もあるかもしれません。

 相手に身になって考える、とか、相手の気持ちを考える、と言うことは簡単ですが、実際に行うことは難しいことです。個々人の姿勢や生き方にも深くかかわっており、それはその人の成育歴や経歴等に大きく影響されます。もっと大きく見れば社会全体の教育や社会のあり方にも関わってきます。この事についてはまた次回お話出来ればと思います。

 冗談ではなく本気で思うのは、不登校という大変な労力を要することをした子供にはまず「ようやった」、「ご苦労さん」と心から、その努力をねぎらってやる姿勢が大事なのではないかということです。

 じゃあ次は将来のことについて…と先走るのは大人の悪い癖で、その後はじっくり話を聴くということが大切だと思います。

 今回は前の不登校についてのシリーズとは違った視線で、子供と学校の関係性と不登校について話してきました。次回はつれづれと教育について書いていきます。