2009/12/04のBlog
[ 15:02 ]
[ エッグマンのつれづれ探求 ]
前回は「基本的な教育」を考える上ではインプットする能力とアウトプットする能力両方をみることが大事であり、さらにそのためには心理的要素、特にモチベーションに注目することが大切であると述べました。
他者と友好的な関係を築くために、その前提として他者が喜ぶことを自分のことに喜ぶためにはメンタリティーや他者の気持ちになって考えられる力が必要となります。
そしてそういう能力をつけるためには、いわゆる机の上の勉強ではなくてより感情的、実際的な学びが必要になるかと思います。
例えば我々が他者に何かをして喜ばれれば、またしようとします。また逆に我々が他者から何かをされてお礼を言えば他者も喜びますし、我々も幸せな気分になります。
この様な体験が重なれば他者と関わることにポジティブなイメージを持つ可能性が高まり、他者と肯定的に関わる回数が増えれば、他者と友好的に付き合う力やコミュニケーション能力が高まる可能性が高まります。
そういうメンタリティーをつける具体的な例としては特に親や周りの大人が子供が何か好意をもってしてくれたことには「ありがとう」と言い、子供に対しても他者が彼、彼女に対して何かしてくれたら、感謝の気持ちを持つことの大切さを教え、ありがとうということを教えることは大切であると思います。ただ単純に礼儀作法だけではなく、その子供の社会(他者)に対する見方と行動に影響を与え、コミュニケーション能力の高さに関しても大きく関わってくる可能性があります。
後教育においては子供(のみならず大人も)楽しみながら学ぶということも大事かと思います。今私は空手をしておりますが、所属する団体が今小学校で空いている体育館を使って空手教室をしています。その中で空手だけではなく、礼儀作法やその基となる人や物に対する感謝や尊敬の気持ちを体験的に学ばせるにはどうしたらいいか、という話になり、今一つの試みを団体でやっています。
それは教室が終わった後の掃除の時間のモップがけで、かけっこのような形でよーいドンとモップをかけながら走らせるというものです。子供達はわいわい走りながらモップがけをしていきます。大人も参加しているのですが、大人もわいわい走ります。
このように楽しさを通じて、公共の場を掃除するという体験を積み重ねていくということは、伝統的な礼儀作法のみならず、日本や国際社会の場においても活躍するために必要な公共の精神を育むことにも有効なのではないかと感じます。モチベーションに注目することも当然ながら教育において重要な要素の一つだと思います。
ものを教える時は大人も子供に対して礼儀正しく教えるようにする。空手でも指導の時は厳しく教えますが、終わった後はお互いに正座をして向き合って頭を下げ、ありがとうございました、とお礼を言い合う。甘やかすのではなく、お互いに相手に対して尊敬の念を持つということは言葉だけではなく、行動や態度でもって示すことが重要です。
大人の方の心構えという点で、子供を見ていて思うのは礼儀を教えればきちんとそれを理解し吸収しているということです。大人の方が爪の垢を飲まなくては思うくらいです。もちろんやんちゃなところもありますが、非常にまじめで優しい性質があります。子供たちがその性質を保持し続け、さらに社会に出るためには、大人の方が理性と優しさを持って、身をもってそれを伝えていくということが教育の中でも非常に大事な要素になるでしょうし、少なくとも人として社会を生き抜くためのメンタリティーを育むような指導法も「基本的な教育」の一部として考えていくことは重要になるでしょう。
他者と友好的な関係を築くために、その前提として他者が喜ぶことを自分のことに喜ぶためにはメンタリティーや他者の気持ちになって考えられる力が必要となります。
そしてそういう能力をつけるためには、いわゆる机の上の勉強ではなくてより感情的、実際的な学びが必要になるかと思います。
例えば我々が他者に何かをして喜ばれれば、またしようとします。また逆に我々が他者から何かをされてお礼を言えば他者も喜びますし、我々も幸せな気分になります。
この様な体験が重なれば他者と関わることにポジティブなイメージを持つ可能性が高まり、他者と肯定的に関わる回数が増えれば、他者と友好的に付き合う力やコミュニケーション能力が高まる可能性が高まります。
そういうメンタリティーをつける具体的な例としては特に親や周りの大人が子供が何か好意をもってしてくれたことには「ありがとう」と言い、子供に対しても他者が彼、彼女に対して何かしてくれたら、感謝の気持ちを持つことの大切さを教え、ありがとうということを教えることは大切であると思います。ただ単純に礼儀作法だけではなく、その子供の社会(他者)に対する見方と行動に影響を与え、コミュニケーション能力の高さに関しても大きく関わってくる可能性があります。
後教育においては子供(のみならず大人も)楽しみながら学ぶということも大事かと思います。今私は空手をしておりますが、所属する団体が今小学校で空いている体育館を使って空手教室をしています。その中で空手だけではなく、礼儀作法やその基となる人や物に対する感謝や尊敬の気持ちを体験的に学ばせるにはどうしたらいいか、という話になり、今一つの試みを団体でやっています。
それは教室が終わった後の掃除の時間のモップがけで、かけっこのような形でよーいドンとモップをかけながら走らせるというものです。子供達はわいわい走りながらモップがけをしていきます。大人も参加しているのですが、大人もわいわい走ります。
このように楽しさを通じて、公共の場を掃除するという体験を積み重ねていくということは、伝統的な礼儀作法のみならず、日本や国際社会の場においても活躍するために必要な公共の精神を育むことにも有効なのではないかと感じます。モチベーションに注目することも当然ながら教育において重要な要素の一つだと思います。
ものを教える時は大人も子供に対して礼儀正しく教えるようにする。空手でも指導の時は厳しく教えますが、終わった後はお互いに正座をして向き合って頭を下げ、ありがとうございました、とお礼を言い合う。甘やかすのではなく、お互いに相手に対して尊敬の念を持つということは言葉だけではなく、行動や態度でもって示すことが重要です。
大人の方の心構えという点で、子供を見ていて思うのは礼儀を教えればきちんとそれを理解し吸収しているということです。大人の方が爪の垢を飲まなくては思うくらいです。もちろんやんちゃなところもありますが、非常にまじめで優しい性質があります。子供たちがその性質を保持し続け、さらに社会に出るためには、大人の方が理性と優しさを持って、身をもってそれを伝えていくということが教育の中でも非常に大事な要素になるでしょうし、少なくとも人として社会を生き抜くためのメンタリティーを育むような指導法も「基本的な教育」の一部として考えていくことは重要になるでしょう。
当たり前ですが大人の世界でもこのことは大切です。さらに言えば子供は大人を見て育つ部分があるのですから、教育面から見てもまず大人は心魂をもって範を示す必要があるようです。
例えば会社でも地域社会でもどのような場においても相手が何かミスをして叱る時にも感情任せに怒鳴るのではなく、きちんと理由を説明する、もし何か文句があるならば、こそこそと悪口を言うのではなく、誠実に堂々と意見を述べる、大人がこの様にお互いに尊敬の念を持ちながらも、自分の仕事や役割を果たし、自己主張する姿を子供に見せるということは百万語の言葉を使うよりも効果があるでしょう。それと同時に人生を楽しんだり、生き抜きをする姿も見せることも大事でしょう。そうじゃないとパンクしちゃいます。時には弱みを見せることも大事かもしれません。誰も完璧でないのですし、悩んだり苦しんだりします。だって人間damono。鉄腕アトムやあるまいし、常に清く正しく前向きには生きられません。
後テクニック的な事を言うと良い所を見つけてとにかく褒めるというのが教育において大事なのかと思います。相手の悪い面ではなく積極的に良い面を探すという態度を大人が示すことで、子供も自然とその態度を習うようになれば御の字です。
子供に対して(の前で)、あんたは○○だから、あの人は××だから、と決めつけるのもどうかと思います。相手がそれを聞いて傷つくかどうかも重要な問題ですが、その他に大人が無自覚に他人をある型にはめ込むことにより、子供も他人に対してそうしていいのかと思って、真似をする可能性もあります。
あの人は日本人だから、外国人だから、女だから、男だから、巨乳アイドルだから、大学教授だから、虚弱体質だから、筋肉馬鹿だから等々その個人を深く知るのではなく、ある一定の類型、ステレオタイプをもって他人や自分をとらえるということには、特に無自覚でする場合には、ある一定の危険性があります。その危険性を伝えずにそういったもの言いをすることは注意が必要なように感じます。自分が偏見をもっていることを自覚して、それを公言しながら言うなら倫理的には多少ましかと思いますが(よほど明確に人を傷つける意図がなければ)、その場合は「ああ、あの人はあんな人なんだな。」という偏見を持たれる可能性はあります(笑)。言う側も受け取る側も人間の一面性だけを見るのではなく、多面的に見る姿勢の大切さを伝えていくことも教育の大きな柱かもしれません。
さてここまで書いてくると子供より先に大人を教育しなくてはいけないという話になりそうです(笑)。もちろん私も含めてです。め~んどくせ~な~、と思いがちな話ですが、普段の生活からそういうことを意識することが、自分自身の教育となり、まわりまわって子供にも伝わって、その教育にもつながるんだ( ̄∇+ ̄)…とでも思わなければやってられません。お笑いの偉人が言われたように小さなことからコツコツと、ですかね。
もちろん誰も完璧な「大人」などにはなれないかもしれません(特に私なんぞは…
ヘ(..、ヘ)☆\(゚ロ゚ )アカンがな)。ただやはり子供は大人を見て、それをモデルとして影響を受けるという要素も大きいので、その自覚をもってしかし誠実に、なるべく本音と建前を分けずに理性的でなおかつ融和的な態度をとっていくことが大事ではないでしょうか。品格と気品が大事ざます(@◇@;)
皆が知恵を出し合って大きな意味での教育を考え実行に移していくのは重要なことですし、それ以前に教育は学校や家のことだけではなく地域全体のことだという意識を持つことも大切そうです。子供は社会のための財産でもあるので社会全体で育てるという相互扶助的な視点とその子の人生は本人のものなのだから好きなように幸せに生きてほしいという思いを合わせもった教育が必要かと思います。
例えば会社でも地域社会でもどのような場においても相手が何かミスをして叱る時にも感情任せに怒鳴るのではなく、きちんと理由を説明する、もし何か文句があるならば、こそこそと悪口を言うのではなく、誠実に堂々と意見を述べる、大人がこの様にお互いに尊敬の念を持ちながらも、自分の仕事や役割を果たし、自己主張する姿を子供に見せるということは百万語の言葉を使うよりも効果があるでしょう。それと同時に人生を楽しんだり、生き抜きをする姿も見せることも大事でしょう。そうじゃないとパンクしちゃいます。時には弱みを見せることも大事かもしれません。誰も完璧でないのですし、悩んだり苦しんだりします。だって人間damono。鉄腕アトムやあるまいし、常に清く正しく前向きには生きられません。
後テクニック的な事を言うと良い所を見つけてとにかく褒めるというのが教育において大事なのかと思います。相手の悪い面ではなく積極的に良い面を探すという態度を大人が示すことで、子供も自然とその態度を習うようになれば御の字です。
子供に対して(の前で)、あんたは○○だから、あの人は××だから、と決めつけるのもどうかと思います。相手がそれを聞いて傷つくかどうかも重要な問題ですが、その他に大人が無自覚に他人をある型にはめ込むことにより、子供も他人に対してそうしていいのかと思って、真似をする可能性もあります。
あの人は日本人だから、外国人だから、女だから、男だから、巨乳アイドルだから、大学教授だから、虚弱体質だから、筋肉馬鹿だから等々その個人を深く知るのではなく、ある一定の類型、ステレオタイプをもって他人や自分をとらえるということには、特に無自覚でする場合には、ある一定の危険性があります。その危険性を伝えずにそういったもの言いをすることは注意が必要なように感じます。自分が偏見をもっていることを自覚して、それを公言しながら言うなら倫理的には多少ましかと思いますが(よほど明確に人を傷つける意図がなければ)、その場合は「ああ、あの人はあんな人なんだな。」という偏見を持たれる可能性はあります(笑)。言う側も受け取る側も人間の一面性だけを見るのではなく、多面的に見る姿勢の大切さを伝えていくことも教育の大きな柱かもしれません。
さてここまで書いてくると子供より先に大人を教育しなくてはいけないという話になりそうです(笑)。もちろん私も含めてです。め~んどくせ~な~、と思いがちな話ですが、普段の生活からそういうことを意識することが、自分自身の教育となり、まわりまわって子供にも伝わって、その教育にもつながるんだ( ̄∇+ ̄)…とでも思わなければやってられません。お笑いの偉人が言われたように小さなことからコツコツと、ですかね。
もちろん誰も完璧な「大人」などにはなれないかもしれません(特に私なんぞは…
ヘ(..、ヘ)☆\(゚ロ゚ )アカンがな)。ただやはり子供は大人を見て、それをモデルとして影響を受けるという要素も大きいので、その自覚をもってしかし誠実に、なるべく本音と建前を分けずに理性的でなおかつ融和的な態度をとっていくことが大事ではないでしょうか。品格と気品が大事ざます(@◇@;)
皆が知恵を出し合って大きな意味での教育を考え実行に移していくのは重要なことですし、それ以前に教育は学校や家のことだけではなく地域全体のことだという意識を持つことも大切そうです。子供は社会のための財産でもあるので社会全体で育てるという相互扶助的な視点とその子の人生は本人のものなのだから好きなように幸せに生きてほしいという思いを合わせもった教育が必要かと思います。
2009/12/02のBlog
[ 14:28 ]
現在私が働いている家庭教師センターの同僚たちです(^-^)
私はここで普段家庭教師の先生の研修、顧客管理や事務処理を行い、そして保護者や生徒さん、先生と話をして相談にのったりしています。ついつい話を聴いていると長くなり、30分くらい電話で話してしまうこともありますが、話しあうことで相手に喜んでもらえたり、またこちらも学ばしてもらうことも多いので日々感謝感激大滝秀治です!!
この中で一番ふざけている人が(みんなふざけていますが(笑))一番偉い人です。別に役割の話だけではなく、人間としての器と顔がでかくて、その上男気があって太っ腹で三段腹です。しかしなんといっても人として一番大事な優しさも持っています。まさにハムの人…いや「信」の人だと思います。他のすべてのメンバーも皆気が良い人物たちで明るい雰囲気で仕事が出来ています(もちろん暗い時もあります。もしいつも明るかったらその人はイっちゃってます。)。
仕事の他にもメンバーと他の仕事場の仲間らと誕生日会や飲み会などもよく行き、私も業務以外ではアルコールの抜けない毎日ですが(んなこたーない)、皆の仕事に対する高い意識を見ながら日々研鑽いたしていまふ。
同僚のみなさん、不肖私は社会活動やその他で忙しく励んでおり毎日ははいれませんがこれからもよろしくお願いします
私はここで普段家庭教師の先生の研修、顧客管理や事務処理を行い、そして保護者や生徒さん、先生と話をして相談にのったりしています。ついつい話を聴いていると長くなり、30分くらい電話で話してしまうこともありますが、話しあうことで相手に喜んでもらえたり、またこちらも学ばしてもらうことも多いので日々感謝感激大滝秀治です!!
この中で一番ふざけている人が(みんなふざけていますが(笑))一番偉い人です。別に役割の話だけではなく、人間としての器と顔がでかくて、その上男気があって太っ腹で三段腹です。しかしなんといっても人として一番大事な優しさも持っています。まさにハムの人…いや「信」の人だと思います。他のすべてのメンバーも皆気が良い人物たちで明るい雰囲気で仕事が出来ています(もちろん暗い時もあります。もしいつも明るかったらその人はイっちゃってます。)。
仕事の他にもメンバーと他の仕事場の仲間らと誕生日会や飲み会などもよく行き、私も業務以外ではアルコールの抜けない毎日ですが(んなこたーない)、皆の仕事に対する高い意識を見ながら日々研鑽いたしていまふ。
同僚のみなさん、不肖私は社会活動やその他で忙しく励んでおり毎日ははいれませんがこれからもよろしくお願いします

2009/12/01のBlog
[ 18:37 ]
[ エッグマンのつれづれ探求 ]
前回までは我々がどんな社会を望むのかということが、どんな教育システムを構築するのかを考える上で非常に重要である、と述べてきました。
ただし我々が白紙から社会を新しくて創るわけではなく、実際には現在ある社会をそれまでの歴史や経緯を踏まえながら、皆で変えていく、という作業になります。つまり「現実」を見ながら、そこにあることからより望ましい社会を皆で構築していくことが重要となります。
では話を教育に戻して、教育の目的の一つである社会を生き抜く人材を育てるということに関して、現在どう定義しさらにその実際はどうなのか見ていきたいと思います。
よく言われるのが、今の教育の目的は国際社会を生き抜く人材を育てることだ、ということです。
これはグローバル化の進んだ現状においてちょっと反論しがたい考え方だといえます。
ただこの目標設定は(それのみでは)非常に曖昧な印象があります。
まず“国際社会”といえども、働く場所とその内容によって求められる能力や心構えは変わってきます。
例えば同じ世界をまわるにしても、世界で名だたる大道芸人になってまわるのと、外資系の証券会社に勤めてまわるのでは、必要とされる能力は違います。
或いは医者という職業を選んだとしても、働く場所が日本なのか、アメリカなのか、中国なのか、北朝鮮なのかで求められる条件が若干変わってきます。
実際に世の中で生きる(仕事をしたり、地域社会に貢献したりする等)ためには、その場にあった能力が必要ですし、そのためには教育や訓練も細分化、専門化される傾向があり、それが個人の意思や個性に沿うことが出来れば、社会にとってより効率的であり、個人にとっても満足度の高いものとなるでしょう。
ただどこの場所でもどんな状況でも必要とされる能力もありそうです。それは考える力や学ぶ力等情報をインプットし発展させていく能力、自分の意見を外に向けはっきりと伝える能力やコミュニケーション能力、他者と友好的に付き合う力等自分の中にある情報をアウトプットし、それにより他人との関係を築いていく能力です。
「基礎学力」は最初の考える力や学ぶ力をつける最初の段階の一つのツールであると見ても良さそうです。
自分の意見を伝える能力やコミュニケーション能力をつけるためにも基礎学力も大事そうです。しかしその他にも必要なものがありそうです。
私は能力を高めたり、社会にとって重要とされる行動をとるためには、その前提としてその心理的素地やモチベーションが必要であると考えます。人と友好的に付き合うことや人のためになることをすることを幸せに感じれば、能動的に人と接し話す機会も増え、コミュニケーション能力や自分の意見を言う能力も高まる可能性が上がります(もちろんそれだけではなく考える力等も関連しますが)。
そして思考力や分析力等のインプットする能力とコミュニケーション能力等アウトプットする能力は、机の上の学問と体験的な学びを組み合わせることにより、相互作用的に上がっていくことが予想されます。
従って例として確かに基礎学力をあげることはこの二つの能力を上げるために必要ですが、ただそれだけでは、今の社会を生き抜くためには不十分で、特に自分の意見を表現するなどのアウトプットする能力を高めることを念頭においた教育も「基本的な教育」の一つであると言えそうです。前回の最後にもふれましたが、もし現代の教育が基礎学力や偏差値を基準にした教育のみにますます偏っていくならば、教育の目的とは逆の方向、とまでは言いませんが、非常に不十分な状況になりかねません。
ただし我々が白紙から社会を新しくて創るわけではなく、実際には現在ある社会をそれまでの歴史や経緯を踏まえながら、皆で変えていく、という作業になります。つまり「現実」を見ながら、そこにあることからより望ましい社会を皆で構築していくことが重要となります。
では話を教育に戻して、教育の目的の一つである社会を生き抜く人材を育てるということに関して、現在どう定義しさらにその実際はどうなのか見ていきたいと思います。
よく言われるのが、今の教育の目的は国際社会を生き抜く人材を育てることだ、ということです。
これはグローバル化の進んだ現状においてちょっと反論しがたい考え方だといえます。
ただこの目標設定は(それのみでは)非常に曖昧な印象があります。
まず“国際社会”といえども、働く場所とその内容によって求められる能力や心構えは変わってきます。
例えば同じ世界をまわるにしても、世界で名だたる大道芸人になってまわるのと、外資系の証券会社に勤めてまわるのでは、必要とされる能力は違います。
或いは医者という職業を選んだとしても、働く場所が日本なのか、アメリカなのか、中国なのか、北朝鮮なのかで求められる条件が若干変わってきます。
実際に世の中で生きる(仕事をしたり、地域社会に貢献したりする等)ためには、その場にあった能力が必要ですし、そのためには教育や訓練も細分化、専門化される傾向があり、それが個人の意思や個性に沿うことが出来れば、社会にとってより効率的であり、個人にとっても満足度の高いものとなるでしょう。
ただどこの場所でもどんな状況でも必要とされる能力もありそうです。それは考える力や学ぶ力等情報をインプットし発展させていく能力、自分の意見を外に向けはっきりと伝える能力やコミュニケーション能力、他者と友好的に付き合う力等自分の中にある情報をアウトプットし、それにより他人との関係を築いていく能力です。
「基礎学力」は最初の考える力や学ぶ力をつける最初の段階の一つのツールであると見ても良さそうです。
自分の意見を伝える能力やコミュニケーション能力をつけるためにも基礎学力も大事そうです。しかしその他にも必要なものがありそうです。
私は能力を高めたり、社会にとって重要とされる行動をとるためには、その前提としてその心理的素地やモチベーションが必要であると考えます。人と友好的に付き合うことや人のためになることをすることを幸せに感じれば、能動的に人と接し話す機会も増え、コミュニケーション能力や自分の意見を言う能力も高まる可能性が上がります(もちろんそれだけではなく考える力等も関連しますが)。
そして思考力や分析力等のインプットする能力とコミュニケーション能力等アウトプットする能力は、机の上の学問と体験的な学びを組み合わせることにより、相互作用的に上がっていくことが予想されます。
従って例として確かに基礎学力をあげることはこの二つの能力を上げるために必要ですが、ただそれだけでは、今の社会を生き抜くためには不十分で、特に自分の意見を表現するなどのアウトプットする能力を高めることを念頭においた教育も「基本的な教育」の一つであると言えそうです。前回の最後にもふれましたが、もし現代の教育が基礎学力や偏差値を基準にした教育のみにますます偏っていくならば、教育の目的とは逆の方向、とまでは言いませんが、非常に不十分な状況になりかねません。
ただ注意しないといけない点は、確かに人と接することは様々な能力を高めるために有効な手段に見えます。しかし実際に人と接するためには、人と接したい、というモチベーションがあるかどうかがその前提となります。例えば人と接するのが大事だからといって、疲れていたりその気がない人に“無理矢理”他者と会わせようとすることは、倫理的な問題の他に、教育的な観点から見ても逆効果になる可能性もあります。
例えば人と接することによって、傷ついて(傷つけられて)いた経験をたくさん持っていると、人に会うという行為自体が心理的に大変な負担になります。周りとしては(あるいは本人も)いかに本人が自分自身や外界(世の中)に対して少しずつプラスのイメージを持つようになれるのかを考慮にいれることが必要になると思います。人と接することやコミュニケーションをとること、カウンセリング等は一つの手段かもしれませんが、手段は手段です。
手段をとれば良くなるのではなく、良くなるために手段をとるのが本筋です。
能力を上げるのも同じで手段にとらわれるのではなく、個人や状況に合わせ柔軟に対処する能力が必要となります(ちなみにこれも社会を生き抜くための力の一つのようです)。
私自身も元々内向的な面もありますが、今は毎日外に出て多くの人と接しています。それは生れた時からそうなのではなく、今までの体験から何とか人と接することは自分にとって大切なものであると少しずつ思えるようになってきた過程があるからだと言えます。むしろ今でもバランスを微妙なところで取っている感じです。
教育は「強制」なのかという議論があります。子供の個性が多用である以上全ての子供にとって楽しい教育やしつけというものは有り得ないので、もし大人が善意を以て教育してもその時子供がそれに対して興味を持たなかった場合は、それは子供にとって「強制」となります。
このこともまた掘り下げてみたいテーマですが、私は教育において「強制」が良いか悪いかの議論よりもむしろ、教育は現実的には上記の理由により「強制」の面があるときちんと認識することが大事かと思います。倫理的にも教える側は責任感を持ち、手法をきちんと考え、自分が誤っていると思えば誠実にそれを伝えることの方が大事だと思います。
もちろん強制ではなく自発的に学ぶこてゃ大切なことです。しかしやる気のない他者に直接「自発性をもて!」と言うことはギャグやネタとしては成立しますが、理論的には無茶苦茶です。自分の中から発するから自発性なのであり、人から言われて発するものではありません。ただもちろん個人が自発性をもつためにも周りの働きかけは重要であり(恣意的であってもなくても)、ゆえにモチベーションに注目することは非常に大切になります。
少し余談ですが、先ほど述べたように個人は周りの環境から、望む望まぬにかかわらず影響を受けます。引きこもりの場合、人が引きこもる原因は多種多様でしょうが、結果として出来るだけ他者からの影響を受けないようになるという効果はある程度一般的であると言えます。悲しくて苦しいから引きこもるという場合もありますが、例えば作家のように自分の世界を突き詰めるため、他者の影響を受けないよう引きこもるというケースもあります。従って引きこもりという場合も全てが受け身でそうなったのではなく、自らそうするという要素も高いこともあるという視点も見逃せません。
話を戻すと、私は人は完璧ではないので間違えるものだとも認識しています。だからこそしっかりと考え、しかし失敗を恐れず積極的に意見を述べ行動し、他人の意見や立場も理解しようとする個人が集まった社会が望ましいとの意見を持っています。
では次回は今回の話を踏まえてモチベーションを重視しながら「基本的な教育」(と考えられる一つ)をどうやって行うのか考えていきたいと思います。
例えば人と接することによって、傷ついて(傷つけられて)いた経験をたくさん持っていると、人に会うという行為自体が心理的に大変な負担になります。周りとしては(あるいは本人も)いかに本人が自分自身や外界(世の中)に対して少しずつプラスのイメージを持つようになれるのかを考慮にいれることが必要になると思います。人と接することやコミュニケーションをとること、カウンセリング等は一つの手段かもしれませんが、手段は手段です。
手段をとれば良くなるのではなく、良くなるために手段をとるのが本筋です。
能力を上げるのも同じで手段にとらわれるのではなく、個人や状況に合わせ柔軟に対処する能力が必要となります(ちなみにこれも社会を生き抜くための力の一つのようです)。
私自身も元々内向的な面もありますが、今は毎日外に出て多くの人と接しています。それは生れた時からそうなのではなく、今までの体験から何とか人と接することは自分にとって大切なものであると少しずつ思えるようになってきた過程があるからだと言えます。むしろ今でもバランスを微妙なところで取っている感じです。
教育は「強制」なのかという議論があります。子供の個性が多用である以上全ての子供にとって楽しい教育やしつけというものは有り得ないので、もし大人が善意を以て教育してもその時子供がそれに対して興味を持たなかった場合は、それは子供にとって「強制」となります。
このこともまた掘り下げてみたいテーマですが、私は教育において「強制」が良いか悪いかの議論よりもむしろ、教育は現実的には上記の理由により「強制」の面があるときちんと認識することが大事かと思います。倫理的にも教える側は責任感を持ち、手法をきちんと考え、自分が誤っていると思えば誠実にそれを伝えることの方が大事だと思います。
もちろん強制ではなく自発的に学ぶこてゃ大切なことです。しかしやる気のない他者に直接「自発性をもて!」と言うことはギャグやネタとしては成立しますが、理論的には無茶苦茶です。自分の中から発するから自発性なのであり、人から言われて発するものではありません。ただもちろん個人が自発性をもつためにも周りの働きかけは重要であり(恣意的であってもなくても)、ゆえにモチベーションに注目することは非常に大切になります。
少し余談ですが、先ほど述べたように個人は周りの環境から、望む望まぬにかかわらず影響を受けます。引きこもりの場合、人が引きこもる原因は多種多様でしょうが、結果として出来るだけ他者からの影響を受けないようになるという効果はある程度一般的であると言えます。悲しくて苦しいから引きこもるという場合もありますが、例えば作家のように自分の世界を突き詰めるため、他者の影響を受けないよう引きこもるというケースもあります。従って引きこもりという場合も全てが受け身でそうなったのではなく、自らそうするという要素も高いこともあるという視点も見逃せません。
話を戻すと、私は人は完璧ではないので間違えるものだとも認識しています。だからこそしっかりと考え、しかし失敗を恐れず積極的に意見を述べ行動し、他人の意見や立場も理解しようとする個人が集まった社会が望ましいとの意見を持っています。
では次回は今回の話を踏まえてモチベーションを重視しながら「基本的な教育」(と考えられる一つ)をどうやって行うのか考えていきたいと思います。
2009/11/28のBlog
[ 23:38 ]
[ エッグマンのつれづれ探求 ]
どんな社会を望むのか、ということはディテールを言っていけば人によって千差万別です。
ですので今回は大きくどんなタイプの社会がオプションとしてあるか、自助、共助、公助という三つのトピックを使って考えてみたいと思います。
個人が何か問題につきあたった時、自分で努力して問題を解決をすることを自助、他人と助け合いながら解決をすることを共助、国家や地方自治体等行政によって解決をすることを公助と定義し話を進めていきます。
自助に重きをおく社会では自分自身で問題を解決する能力を求められ、教育においても個人が一人で生きていける力をつけることに重点をおきます。例としては市場中心主義、新自由主義国家があげられます。
ちなみにアメリカの新自由主義(ネオリベ)は、経済はより公正、自由な市場主義(名目上は)で、精神面は教会を中心とするキリスト教(ブロテスタント系)のコミュニティーとNPOでカバーするという(アメリカの)伝統的保守主義に支えられている面があります。
逆に言えば教会や宗教によってコミュニティーを作ったり、精神面をサポートしたりする歴史や習慣がない国で絶対的市場主義を取り入れた場合何か違うもので補填しなければ、人々は誰にも相談できず一人で不安を持ちながら問題に対処せねばならず、社会が上手く回らない可能性があります。
共助に重きをおく社会は、地域のコミュニティーがしっかりとしていて、皆で助け合いながら問題に対処していきます。教育においては個人の能力を高めることの他に、人と良い関係を作ったり、協力しながら問題を解決する能力をつける内容を求められます(もちろん学校内だけではなくて)。
よく昔の日本は良かったと言う時には、こういう社会をイメージしており、正に古き良きニッポンといった感じです。ただコミュニティーがしっかりしているということは、やり方(或いはメンタリティー)によっては、よそ者は入りにくい等の排他性やその集団内で異質なものは無視したりはじき出そうとする村八分や既得権益者が固定する等の現象が起る可能性があります。
市場主義の様に自由に出入り出来るようにするか、条件をつけるにしても公平で透明性の高いものにし、徹底した情報公開を進める必要がありそうです。また自分と違う“他者”を受け入れるメンタリティーを育む教育も大事になるでしょう。
公助に重点におく社会においては、個人に何か問題が起った場合に国が個人に積極的に介入、援助し問題を解決する特徴があります。
個人の問題は社会全体の問題だ、或いはその影響によるものだ、という理屈はある一面正しい(というか私も散々前回不登校の連載の際に繰り返し言いましたが…σ(^◇^;))かもしれませんが、実際に援助するとなると、一部教育(市民自治やメディアリテラシー等に関して)がしっかりしていないと依存心が強くなり、自分は何もせず文句ばかり言う風潮になるという問題と、その援助が的確で適性なのかどう判断していくのかという問題が起る可能性があります。
余談です。この場合の公助の「公」は国の機関や行政の意味が強いですが、本来「公」とは民衆という意味があります。私もよく「公」(おおやけ)という言葉を使いますが、主に人々(日本や世界)の集合体という意味で使います。
話を戻して、通常これらの三つの特徴は、一つの社会において混ざりあっており、どれか一つだけ百%該当するということは考えられません。
この三つの項目はどのような社会が社会システムが望ましいか考える際に一つの指標になるでしょう。またこれらを使いながらどういう社会が望ましいのか考察していきますが、その前に今の教育の目的とされているものがどこまで今の社会に適合しており、また今の教育を続けているとどういう社会になっていく可能性があるのか考えてみたいと思います。
ですので今回は大きくどんなタイプの社会がオプションとしてあるか、自助、共助、公助という三つのトピックを使って考えてみたいと思います。
個人が何か問題につきあたった時、自分で努力して問題を解決をすることを自助、他人と助け合いながら解決をすることを共助、国家や地方自治体等行政によって解決をすることを公助と定義し話を進めていきます。
自助に重きをおく社会では自分自身で問題を解決する能力を求められ、教育においても個人が一人で生きていける力をつけることに重点をおきます。例としては市場中心主義、新自由主義国家があげられます。
ちなみにアメリカの新自由主義(ネオリベ)は、経済はより公正、自由な市場主義(名目上は)で、精神面は教会を中心とするキリスト教(ブロテスタント系)のコミュニティーとNPOでカバーするという(アメリカの)伝統的保守主義に支えられている面があります。
逆に言えば教会や宗教によってコミュニティーを作ったり、精神面をサポートしたりする歴史や習慣がない国で絶対的市場主義を取り入れた場合何か違うもので補填しなければ、人々は誰にも相談できず一人で不安を持ちながら問題に対処せねばならず、社会が上手く回らない可能性があります。
共助に重きをおく社会は、地域のコミュニティーがしっかりとしていて、皆で助け合いながら問題に対処していきます。教育においては個人の能力を高めることの他に、人と良い関係を作ったり、協力しながら問題を解決する能力をつける内容を求められます(もちろん学校内だけではなくて)。
よく昔の日本は良かったと言う時には、こういう社会をイメージしており、正に古き良きニッポンといった感じです。ただコミュニティーがしっかりしているということは、やり方(或いはメンタリティー)によっては、よそ者は入りにくい等の排他性やその集団内で異質なものは無視したりはじき出そうとする村八分や既得権益者が固定する等の現象が起る可能性があります。
市場主義の様に自由に出入り出来るようにするか、条件をつけるにしても公平で透明性の高いものにし、徹底した情報公開を進める必要がありそうです。また自分と違う“他者”を受け入れるメンタリティーを育む教育も大事になるでしょう。
公助に重点におく社会においては、個人に何か問題が起った場合に国が個人に積極的に介入、援助し問題を解決する特徴があります。
個人の問題は社会全体の問題だ、或いはその影響によるものだ、という理屈はある一面正しい(というか私も散々前回不登校の連載の際に繰り返し言いましたが…σ(^◇^;))かもしれませんが、実際に援助するとなると、一部教育(市民自治やメディアリテラシー等に関して)がしっかりしていないと依存心が強くなり、自分は何もせず文句ばかり言う風潮になるという問題と、その援助が的確で適性なのかどう判断していくのかという問題が起る可能性があります。
余談です。この場合の公助の「公」は国の機関や行政の意味が強いですが、本来「公」とは民衆という意味があります。私もよく「公」(おおやけ)という言葉を使いますが、主に人々(日本や世界)の集合体という意味で使います。
話を戻して、通常これらの三つの特徴は、一つの社会において混ざりあっており、どれか一つだけ百%該当するということは考えられません。
この三つの項目はどのような社会が社会システムが望ましいか考える際に一つの指標になるでしょう。またこれらを使いながらどういう社会が望ましいのか考察していきますが、その前に今の教育の目的とされているものがどこまで今の社会に適合しており、また今の教育を続けているとどういう社会になっていく可能性があるのか考えてみたいと思います。
2009/11/23のBlog
[ 17:07 ]
[ エッグマンのつれづれ探求 ]
さて今回は「基本的な教育」について考えていきたいと思います。
「基本的な教育」というと最初に思い付くのが「基礎学力」です。基本的な日本語の読み書き、計算能力、論理的思考等は、生きていく上で必要である、という考え方はそれなりに妥当なものであり、私個人もその意見には賛成です。
ただ前回述べた通り、教育は我々がどういう社会になることを望んでいるのか、ということが重要になります。そしてそういう社会にするためには、どういう人材が必要なのか、を明確にし、それを皆に伝えながら、教育システムを考え、構築していくことが必要であると考えます。
さて基礎学力に関しては、私は大事だと思いますし、その伝達のための手法として、競争意識や好奇心等、心理面を考慮することは大切だと思います。
一時期(或いは今でも)、教育において競争をなくした方が良いという考え方もあったそうですが、これには私は懐疑的です。
確かに人との競争よりも、克己心や自発性を身に付けることは大事ですが、ただ単に形式的に競争を無くしても、それらが身に付くと思うのはあまりに楽観的です。克己心や自発性を身に付けるためにはそのための訓練や経験を積むことが必要であり、競争があるかないかとの関連性さえどの位あるのかさえ定かではありません。
また、勝ち負けをつけるとそれを理由にいじめがおこる、という考え方も本末転倒だと感じます。他人が自分と立場や能力、個性が違っても戸惑わず、受け入れるマインドを育てることの方がどう考えても先決なように思われます。
たとえ自分がある場面で優位であっても謙遜する美徳、そしてより高みに向い努力出来る力を養い、そして自分がまた違う場面では人より劣ることを経験することにより、弱者の気持ちを知り、皆が他人に対し能力に関係なく尊敬の念を持てる様になれば競争の結果としていじめは起きません。
もちろん競争者は勝つ喜びや負けた時の悔しさ等を味わうでしょうが、周りの者がそして社会全体が勝者にも敗者にも尊敬の念を持ち、その努力を讃える、という感覚やイメージを共有出来るかが、競争自体がいじめの原因になるのか、それとも成長の糧となるのか、重要な影響を与えます。
皆そろってゴールさせるということは、他人との差異を認めないというメッセージを伝えることになり、違う個性を持った他人、或いは自分の中でも多様性を受け入れるということと相反します。
他人と違うといじめられるから順位をつけないという考え方もいろんな意味で的外れで、私からするとギャグにしか聞こえませんが、ただし本当に現実にそういう現象が起こる場合があるのであれば、それは順位をつけるせいではなくて、環境や教育による影響が大きい考えられるので、そこの点をまず改善することが先決でしょう。例えば私は小学校の時足が遅くて、かけっこではいつも後ろの方でした。ただ相撲は得意で大体勝っていました。別に足が遅いから、相撲が強いから、いじめられたりいじめたりしたことはありません。運よく私の周りでは他人と違うからいじめるというマインドを持った人がいなかったからかもしれませんが、そういうことを良しとしない「場の雰囲気」もありました。ただ個々人の運に任せるのではなく親や周りの大人は積極的にそういう雰囲気を創るために努力をすることの方が、形式的に順位をつけないということよりも余程大切で効果的なことだと思います。
余談ですが、他人と違うことを嫌うのは日本人の習性だ、という考え方は私は全くの見当違いであると考えます。日本人の習性と言うからには、他の国の人と比べてという意味なのでしょうが、歴史的に日本ほど他の国の文化を取り入れ、それを豊かに発展させ、今も融和的に共存させている国はあまりないと思います(あくまで相対的に見てであって、全くその傾向がないとは言いませんが)。ではなぜそういった“迷信”のごとき考えが出てきたのか気になるところですが、これはまた別の機会に取り上げ、話を戻します。
さて日本には勝負は時の運という諺があります。競争が問題なのではなく、勝った時、負けた時の認識の仕方が大切であり、さらには周りの反応や環境が重要なファクターとなってきます。例え自分の得意分野がその時見当たらなくてほとんどの競争に(運悪く)負けたり、後ろの方であったりしても周りの反応が受容的で、「勝負は時の運」的な姿勢をもって、そういう態度を示せば無意味に傷付く人もいないでしょう。
ではそういう状況を創るためには教育においてどういう風にすればいいのか考え、一つの例をあげると、まず負けた者を周りが蔑むということはカッコ悪い、醜いという考え方をしっかりと伝えることが大切であると思います。それをまず大人が範をもって示すことが肝要です。
どういう環境を作っていきたいのかということはどんな社会を我々が望むのかということにつながっています。そして今回の話を例にとると、どちらが良いか悪いかは措いておいて、例えばただ勝てばいいと思う大人が沢山いる社会を創るのか、仁義を愛する士が多く住む社会を創るのかに関して、教育は大きな影響を与えます。その前にどちらの方が望ましいかの判断は、社会の総意と決断によります。
さて今回は「基礎学力」と「競争」に目を向けてきました。「基礎学力」は「読み、書き、計算」というのが一般的な定義のようで、私もこれらは非常に重要であると考えますが、一つ気になる点は教育を考える上でこの「基礎学力」自体が「目的」となり、それをつけるためにはどうしたらいいかという「手段」が語られるということが多くなっているということです。
私はもともと「基礎学力」をつけることは人として社会を生き抜くための「手段」の一つであるとの考えを持っています(一方で、もちろん学問を深めるということは個人にとっての好奇心や探究心を満足させるためでもあり、基礎学力をつけることはそれを可能にするために必要な条件でもあるという考えも持っていますが)。従って必然的にその「基礎学力」をつけたり上げたりする方法(勉強法等)はその「手段」のための「手段」になります。もしその「基礎学力をつけること」という「手段」を「目的」にしてしまった場合結果として考えられるのは、もしそれが成功したケースでも学力は付いたけれども「何のため」なんだ?、という疑問が生まれるということです。
例えば本来生活をするための「手段」として金を稼ぐ、ということであったのが、金を稼ぐのが「目的」になってしまっては、そのために生活の他の部分に目がいかなくなる可能性が出てきます。これも「手段の目的化」の一つの例と言えるでしょう。さらに言えばこの「学力をつける」や「金を稼ぐ」が本来大きな「目的」のための「手段」であったことを忘れ(あるいは無視し)、それのみを最初から「目的」として子供に教えたならば、本来の「目的」よりももとは「手段」であったものを「目的」と思い、そういった教育を受けた人たちの中の社会に対するイメージや価値観、思考様式にも影響を与える可能性があります。
話を戻しますと本来の教育の大きな「目的」の一つは「社会を生き抜くこと」であり、社会をどう生き抜くかはそれが「どのような社会であるのか」によって変わってきます。ゆえに本文で述べている通り、教育において、将来どのような社会を目指し、そのためにはどのような人材が必要となるか、という視点が、その内容を決める上でかなりの重要性をもってきます。
では次回も引き続き「基本的な教育」についてつれづれなるままに考えてみたいと思います。
「基本的な教育」というと最初に思い付くのが「基礎学力」です。基本的な日本語の読み書き、計算能力、論理的思考等は、生きていく上で必要である、という考え方はそれなりに妥当なものであり、私個人もその意見には賛成です。
ただ前回述べた通り、教育は我々がどういう社会になることを望んでいるのか、ということが重要になります。そしてそういう社会にするためには、どういう人材が必要なのか、を明確にし、それを皆に伝えながら、教育システムを考え、構築していくことが必要であると考えます。
さて基礎学力に関しては、私は大事だと思いますし、その伝達のための手法として、競争意識や好奇心等、心理面を考慮することは大切だと思います。
一時期(或いは今でも)、教育において競争をなくした方が良いという考え方もあったそうですが、これには私は懐疑的です。
確かに人との競争よりも、克己心や自発性を身に付けることは大事ですが、ただ単に形式的に競争を無くしても、それらが身に付くと思うのはあまりに楽観的です。克己心や自発性を身に付けるためにはそのための訓練や経験を積むことが必要であり、競争があるかないかとの関連性さえどの位あるのかさえ定かではありません。
また、勝ち負けをつけるとそれを理由にいじめがおこる、という考え方も本末転倒だと感じます。他人が自分と立場や能力、個性が違っても戸惑わず、受け入れるマインドを育てることの方がどう考えても先決なように思われます。
たとえ自分がある場面で優位であっても謙遜する美徳、そしてより高みに向い努力出来る力を養い、そして自分がまた違う場面では人より劣ることを経験することにより、弱者の気持ちを知り、皆が他人に対し能力に関係なく尊敬の念を持てる様になれば競争の結果としていじめは起きません。
もちろん競争者は勝つ喜びや負けた時の悔しさ等を味わうでしょうが、周りの者がそして社会全体が勝者にも敗者にも尊敬の念を持ち、その努力を讃える、という感覚やイメージを共有出来るかが、競争自体がいじめの原因になるのか、それとも成長の糧となるのか、重要な影響を与えます。
皆そろってゴールさせるということは、他人との差異を認めないというメッセージを伝えることになり、違う個性を持った他人、或いは自分の中でも多様性を受け入れるということと相反します。
他人と違うといじめられるから順位をつけないという考え方もいろんな意味で的外れで、私からするとギャグにしか聞こえませんが、ただし本当に現実にそういう現象が起こる場合があるのであれば、それは順位をつけるせいではなくて、環境や教育による影響が大きい考えられるので、そこの点をまず改善することが先決でしょう。例えば私は小学校の時足が遅くて、かけっこではいつも後ろの方でした。ただ相撲は得意で大体勝っていました。別に足が遅いから、相撲が強いから、いじめられたりいじめたりしたことはありません。運よく私の周りでは他人と違うからいじめるというマインドを持った人がいなかったからかもしれませんが、そういうことを良しとしない「場の雰囲気」もありました。ただ個々人の運に任せるのではなく親や周りの大人は積極的にそういう雰囲気を創るために努力をすることの方が、形式的に順位をつけないということよりも余程大切で効果的なことだと思います。
余談ですが、他人と違うことを嫌うのは日本人の習性だ、という考え方は私は全くの見当違いであると考えます。日本人の習性と言うからには、他の国の人と比べてという意味なのでしょうが、歴史的に日本ほど他の国の文化を取り入れ、それを豊かに発展させ、今も融和的に共存させている国はあまりないと思います(あくまで相対的に見てであって、全くその傾向がないとは言いませんが)。ではなぜそういった“迷信”のごとき考えが出てきたのか気になるところですが、これはまた別の機会に取り上げ、話を戻します。
さて日本には勝負は時の運という諺があります。競争が問題なのではなく、勝った時、負けた時の認識の仕方が大切であり、さらには周りの反応や環境が重要なファクターとなってきます。例え自分の得意分野がその時見当たらなくてほとんどの競争に(運悪く)負けたり、後ろの方であったりしても周りの反応が受容的で、「勝負は時の運」的な姿勢をもって、そういう態度を示せば無意味に傷付く人もいないでしょう。
ではそういう状況を創るためには教育においてどういう風にすればいいのか考え、一つの例をあげると、まず負けた者を周りが蔑むということはカッコ悪い、醜いという考え方をしっかりと伝えることが大切であると思います。それをまず大人が範をもって示すことが肝要です。
どういう環境を作っていきたいのかということはどんな社会を我々が望むのかということにつながっています。そして今回の話を例にとると、どちらが良いか悪いかは措いておいて、例えばただ勝てばいいと思う大人が沢山いる社会を創るのか、仁義を愛する士が多く住む社会を創るのかに関して、教育は大きな影響を与えます。その前にどちらの方が望ましいかの判断は、社会の総意と決断によります。
さて今回は「基礎学力」と「競争」に目を向けてきました。「基礎学力」は「読み、書き、計算」というのが一般的な定義のようで、私もこれらは非常に重要であると考えますが、一つ気になる点は教育を考える上でこの「基礎学力」自体が「目的」となり、それをつけるためにはどうしたらいいかという「手段」が語られるということが多くなっているということです。
私はもともと「基礎学力」をつけることは人として社会を生き抜くための「手段」の一つであるとの考えを持っています(一方で、もちろん学問を深めるということは個人にとっての好奇心や探究心を満足させるためでもあり、基礎学力をつけることはそれを可能にするために必要な条件でもあるという考えも持っていますが)。従って必然的にその「基礎学力」をつけたり上げたりする方法(勉強法等)はその「手段」のための「手段」になります。もしその「基礎学力をつけること」という「手段」を「目的」にしてしまった場合結果として考えられるのは、もしそれが成功したケースでも学力は付いたけれども「何のため」なんだ?、という疑問が生まれるということです。
例えば本来生活をするための「手段」として金を稼ぐ、ということであったのが、金を稼ぐのが「目的」になってしまっては、そのために生活の他の部分に目がいかなくなる可能性が出てきます。これも「手段の目的化」の一つの例と言えるでしょう。さらに言えばこの「学力をつける」や「金を稼ぐ」が本来大きな「目的」のための「手段」であったことを忘れ(あるいは無視し)、それのみを最初から「目的」として子供に教えたならば、本来の「目的」よりももとは「手段」であったものを「目的」と思い、そういった教育を受けた人たちの中の社会に対するイメージや価値観、思考様式にも影響を与える可能性があります。
話を戻しますと本来の教育の大きな「目的」の一つは「社会を生き抜くこと」であり、社会をどう生き抜くかはそれが「どのような社会であるのか」によって変わってきます。ゆえに本文で述べている通り、教育において、将来どのような社会を目指し、そのためにはどのような人材が必要となるか、という視点が、その内容を決める上でかなりの重要性をもってきます。
では次回も引き続き「基本的な教育」についてつれづれなるままに考えてみたいと思います。
2009/11/19のBlog
[ 17:08 ]
[ エッグマンのつれづれ探求 ]
前に「大阪ペンギン」さんより大変示唆に富んだコメントを頂きました。このブログも私がただダベっているだけでは華がなく、様々な方の意見を取り上げていければと思いますので、ぜひ意見や批判、問題提起等を気楽にコメントしていただければこれ幸いです。基本的にコメントを引用するときは本人の了解を得た上で掲載していきたいと思います(もし音信不通の場合はその度に判断します)。参加型のような形でわいわい楽しく、時に真面目で真剣に、激しくやっていくのも面白いんでないかな(!?( ̄□ ̄;) どこの方言…)。
お待ちしております。
大阪ペンギンさんのコメントの一部:『…現在進行中のいわゆるエリート教育の復活、学校間格差の拡大に非常に懸念を抱いています。個々人にあった教育という「美名」の下に、スタート時から教育内容に差がつけられているのではないでしょうか?例え不登校が解消したとしても、戻ってくる中学なり高校のレベルがバラバラであれば、社会の普遍的なルールを教える(例えば標準語=共通語という日本語を理解する等)ことさえ不可能になってくるのではないでしょうか?僕の言った例は余りにも極端すぎるかもしれませんが、皆がある程度の共通した教養を持つことは、それが強制であったとしても非常に大切なことだと思う次第です。』
このペンギンさんのコメントが投げかけているのは、大きく分けて①基本的な教育とは何かという問題、と②格差の問題、についてだと思います。
この問題の問題に密接に関わっている個所がコメントの中にあります。それは、「…例え不登校が解消したとしても、戻ってくる中学なり高校のレベルがバラバラであれば、社会の普遍的なルールを教える(例えば標準語=共通語という日本語を理解する等)ことさえ不可能になってくるのではないでしょうか?」という部分です。これは、学校を含めた子供の居場所と学ぶ場所のオプションの多様性の問題、とそれを選択する際に影響する経済格差等の問題、が示唆されているものと思えます。
まず私なりにこの文を意訳させていただくと、「例え気持ちが落ち着き、行動をするくらいのエネルギーが回復したとしても、(オプションの一つとして)選べる学校という教育機関が(親の経済基盤やその時の子供の“学力“、その他の事情によって)バラバラであれば、“基本的な教育”を受ける機会が不平等になる、若しくは受けられたとしてもその“レベル”に偏りが出来るのではないか」という問題提起をされているのではないかと思います。
私個人としては、全ての不登校のケースが学校に行くことで問題が解決するという見方はとっていません。もちろんペンギンさんはそれを踏まえて、ただもし学校(同じ所にしろ違う所にしろ)に戻りたいという意思のある子供を受け入れる学校の程度にバラツキが出るのではないかと危惧されているのだと思います。
マクロの視点で見れば、どのような状況の子供でもペンギンさんの言う「社会の普遍的なルール」をしっかりと教える教育機関に入れるような仕組みを作ることが大事だということになります。ただその前にやっておかないといけないことが一つあります。それは「社会の普遍的なルール」の定義付けとその合意形成です。
これは個々人や社会全体が社会に対しどういうイメージを持っているのか、どのようにして経済が成りたっているのか、何を大事にしているのか等、どういう社会のアイデンティティーを持っているのかに関わってきますが、特に若年者に対しての教育においてはどういう社会にしていきたいのかという、社会全体の意思に影響されます。
ただ皆それぞれ違う個性や考え方を持っている(という共通前提を持っている)ので、普遍的なルールについて全員の合意を得るのは難しい。そこでこれくらいは持っていないといけないだろうと位置付けられている(ものの一つ)のが、「基礎学力」です。ただこれについても個々人の間に認識のばらつきがありそうです。
では次回はさらに教育についてさらに深く突っ込んでいき、①の基本的な教育とは、についても考えていきたいと思います。
お待ちしております。
大阪ペンギンさんのコメントの一部:『…現在進行中のいわゆるエリート教育の復活、学校間格差の拡大に非常に懸念を抱いています。個々人にあった教育という「美名」の下に、スタート時から教育内容に差がつけられているのではないでしょうか?例え不登校が解消したとしても、戻ってくる中学なり高校のレベルがバラバラであれば、社会の普遍的なルールを教える(例えば標準語=共通語という日本語を理解する等)ことさえ不可能になってくるのではないでしょうか?僕の言った例は余りにも極端すぎるかもしれませんが、皆がある程度の共通した教養を持つことは、それが強制であったとしても非常に大切なことだと思う次第です。』
このペンギンさんのコメントが投げかけているのは、大きく分けて①基本的な教育とは何かという問題、と②格差の問題、についてだと思います。
この問題の問題に密接に関わっている個所がコメントの中にあります。それは、「…例え不登校が解消したとしても、戻ってくる中学なり高校のレベルがバラバラであれば、社会の普遍的なルールを教える(例えば標準語=共通語という日本語を理解する等)ことさえ不可能になってくるのではないでしょうか?」という部分です。これは、学校を含めた子供の居場所と学ぶ場所のオプションの多様性の問題、とそれを選択する際に影響する経済格差等の問題、が示唆されているものと思えます。
まず私なりにこの文を意訳させていただくと、「例え気持ちが落ち着き、行動をするくらいのエネルギーが回復したとしても、(オプションの一つとして)選べる学校という教育機関が(親の経済基盤やその時の子供の“学力“、その他の事情によって)バラバラであれば、“基本的な教育”を受ける機会が不平等になる、若しくは受けられたとしてもその“レベル”に偏りが出来るのではないか」という問題提起をされているのではないかと思います。
私個人としては、全ての不登校のケースが学校に行くことで問題が解決するという見方はとっていません。もちろんペンギンさんはそれを踏まえて、ただもし学校(同じ所にしろ違う所にしろ)に戻りたいという意思のある子供を受け入れる学校の程度にバラツキが出るのではないかと危惧されているのだと思います。
マクロの視点で見れば、どのような状況の子供でもペンギンさんの言う「社会の普遍的なルール」をしっかりと教える教育機関に入れるような仕組みを作ることが大事だということになります。ただその前にやっておかないといけないことが一つあります。それは「社会の普遍的なルール」の定義付けとその合意形成です。
これは個々人や社会全体が社会に対しどういうイメージを持っているのか、どのようにして経済が成りたっているのか、何を大事にしているのか等、どういう社会のアイデンティティーを持っているのかに関わってきますが、特に若年者に対しての教育においてはどういう社会にしていきたいのかという、社会全体の意思に影響されます。
ただ皆それぞれ違う個性や考え方を持っている(という共通前提を持っている)ので、普遍的なルールについて全員の合意を得るのは難しい。そこでこれくらいは持っていないといけないだろうと位置付けられている(ものの一つ)のが、「基礎学力」です。ただこれについても個々人の間に認識のばらつきがありそうです。
では次回はさらに教育についてさらに深く突っ込んでいき、①の基本的な教育とは、についても考えていきたいと思います。
2009/11/17のBlog
[ 23:33 ]
[ エッグマンのつれづれ探求 ]
この前の「不登校について」の連載では、主に学校に行く意義について社会状況の変化と照らし合わせて、不登校について見ていきましたが、今回はまた違った視点で考えていきたいと思います。
社会状況の変化によって学校に行く意義が薄れてきたことと学校はとりあえず行くものだという共通概念、不登校に強い関連性のある長欠率が増えてきたのではないか、というのが前回の論点でしたが、これはある部分一面しかとらえていないと思われます。
実際に子供の視点に立ってみると、現状において(昔でも)学校というものは良くも悪くも非常に重要な場所です。その理由は勉強をしたり、将来のためにという以前に、まず第一に多くの子供が一日に大半の時間を過ごす場所であるということです。
この感覚は親や周りに大人たちにとって意外に共有されにくいようです。
一つの例として自分の経験をあげると、私も高校の途中までは、学校に行く意義や将来のためというよりは、学校に行くのは当たり前という感覚で学校に行っていました。そして将来について考えだしたときに父親に学校に行く意味を聞いて見ると「学校とは自分のために利用する道具だ。」との答えが返ってきました。父としては、学校は将来のために勉強なり、職業訓練をするために学校というものは存在する、と端的に学校の「機能」について答えたのでしょう。その答えはある一つの考え方、見方としては間違っておらず、筋の通ってないことはないのですが、感覚的にはズレを感じました。私は実際に学校で長い時間すごしており、そこでの体験や人間関係等の重要性は高く、感覚的にはとても「学校は機能である」と切って捨てられるものではなかったからです。
大人にとって学校は経てきたものであっても、今は学校には行っておらず感覚的にはその大切さはわかりませんが、子供にとっては(例えそのきっかけが強制的なものであっても)学校が実際に世界そのものである(あった)可能性が強いわけです。大人も学校に通っていた時はその感覚は持っていた可能性はあります。
現実問題として学校は子供にとって大半の時間を過ごすのだから、そこは一瞬一瞬を過ごしている大切な場所だから、機能論のような大人の論理だけでは語ることは出来ないのではないかというのが今回の論点です。
不登校の場合、その理由は何であれ学校に長期間行かない、というのは、自分の世界の大きな部分を変えるという意味もあり、それのみでも大変なエネルギーを消耗すると考えられます。さらに皆が行っているのに自分だけが行っていない、ことから罪悪感を感じまたエネルギーを消耗します。
ただし、たとえ現在学校に行ってなくても相手の状態を推測して、共感する位の力や度量は“大人”であれば持っておいて欲しい、と思いがちですが、大人の方は“今、そこ”で子供がエネルギーを使い果たした(見た目ではそう見えなくても)ことよりも、子供の“将来”のことを考えがちです。
その理由としては、先程述べた通り、学校に行かなくなることは、子供にとってある種の開放ではあるが、自分の今まで長い時間過ごしてきた“世界”からの決別であり、それを決断し、実行することは大変な労力がいるということを、今は学校に行っていない大人にとっては実感しにくいということが大きいと考えられます。
さらに、そのエネルギーを消耗している過程が周囲から見えにくい、ということも理由の一つかもしれません。子供がやせ我慢をして限界まで耐える場合もありますし、メッセージを発してしても周りが気付かない場合もあります。意識的に気付かないふりをする場合もあるかもしれません。
相手に身になって考える、とか、相手の気持ちを考える、と言うことは簡単ですが、実際に行うことは難しいことです。個々人の姿勢や生き方にも深くかかわっており、それはその人の成育歴や経歴等に大きく影響されます。もっと大きく見れば社会全体の教育や社会のあり方にも関わってきます。この事についてはまた次回お話出来ればと思います。
冗談ではなく本気で思うのは、不登校という大変な労力を要することをした子供にはまず「ようやった」、「ご苦労さん」と心から、その努力をねぎらってやる姿勢が大事なのではないかということです。
じゃあ次は将来のことについて…と先走るのは大人の悪い癖で、その後はじっくり話を聴くということが大切だと思います。
今回は前の不登校についてのシリーズとは違った視線で、子供と学校の関係性と不登校について話してきました。次回はつれづれと教育について書いていきます。
社会状況の変化によって学校に行く意義が薄れてきたことと学校はとりあえず行くものだという共通概念、不登校に強い関連性のある長欠率が増えてきたのではないか、というのが前回の論点でしたが、これはある部分一面しかとらえていないと思われます。
実際に子供の視点に立ってみると、現状において(昔でも)学校というものは良くも悪くも非常に重要な場所です。その理由は勉強をしたり、将来のためにという以前に、まず第一に多くの子供が一日に大半の時間を過ごす場所であるということです。
この感覚は親や周りに大人たちにとって意外に共有されにくいようです。
一つの例として自分の経験をあげると、私も高校の途中までは、学校に行く意義や将来のためというよりは、学校に行くのは当たり前という感覚で学校に行っていました。そして将来について考えだしたときに父親に学校に行く意味を聞いて見ると「学校とは自分のために利用する道具だ。」との答えが返ってきました。父としては、学校は将来のために勉強なり、職業訓練をするために学校というものは存在する、と端的に学校の「機能」について答えたのでしょう。その答えはある一つの考え方、見方としては間違っておらず、筋の通ってないことはないのですが、感覚的にはズレを感じました。私は実際に学校で長い時間すごしており、そこでの体験や人間関係等の重要性は高く、感覚的にはとても「学校は機能である」と切って捨てられるものではなかったからです。
大人にとって学校は経てきたものであっても、今は学校には行っておらず感覚的にはその大切さはわかりませんが、子供にとっては(例えそのきっかけが強制的なものであっても)学校が実際に世界そのものである(あった)可能性が強いわけです。大人も学校に通っていた時はその感覚は持っていた可能性はあります。
現実問題として学校は子供にとって大半の時間を過ごすのだから、そこは一瞬一瞬を過ごしている大切な場所だから、機能論のような大人の論理だけでは語ることは出来ないのではないかというのが今回の論点です。
不登校の場合、その理由は何であれ学校に長期間行かない、というのは、自分の世界の大きな部分を変えるという意味もあり、それのみでも大変なエネルギーを消耗すると考えられます。さらに皆が行っているのに自分だけが行っていない、ことから罪悪感を感じまたエネルギーを消耗します。
ただし、たとえ現在学校に行ってなくても相手の状態を推測して、共感する位の力や度量は“大人”であれば持っておいて欲しい、と思いがちですが、大人の方は“今、そこ”で子供がエネルギーを使い果たした(見た目ではそう見えなくても)ことよりも、子供の“将来”のことを考えがちです。
その理由としては、先程述べた通り、学校に行かなくなることは、子供にとってある種の開放ではあるが、自分の今まで長い時間過ごしてきた“世界”からの決別であり、それを決断し、実行することは大変な労力がいるということを、今は学校に行っていない大人にとっては実感しにくいということが大きいと考えられます。
さらに、そのエネルギーを消耗している過程が周囲から見えにくい、ということも理由の一つかもしれません。子供がやせ我慢をして限界まで耐える場合もありますし、メッセージを発してしても周りが気付かない場合もあります。意識的に気付かないふりをする場合もあるかもしれません。
相手に身になって考える、とか、相手の気持ちを考える、と言うことは簡単ですが、実際に行うことは難しいことです。個々人の姿勢や生き方にも深くかかわっており、それはその人の成育歴や経歴等に大きく影響されます。もっと大きく見れば社会全体の教育や社会のあり方にも関わってきます。この事についてはまた次回お話出来ればと思います。
冗談ではなく本気で思うのは、不登校という大変な労力を要することをした子供にはまず「ようやった」、「ご苦労さん」と心から、その努力をねぎらってやる姿勢が大事なのではないかということです。
じゃあ次は将来のことについて…と先走るのは大人の悪い癖で、その後はじっくり話を聴くということが大切だと思います。
今回は前の不登校についてのシリーズとは違った視線で、子供と学校の関係性と不登校について話してきました。次回はつれづれと教育について書いていきます。
2009/11/05のBlog
[ 20:39 ]
[ 活動 ]
10月28日に佐野章二さんの講演に行ってきました。
今回、佐野さんは大阪ボランティア協会主催の関西NPO支援センターネットワーク(knn)第十三回研究会のゲストとして来られました。
佐野章二さんはビッグイシューの代表で、現在はホームレスの支援を精力的に行っておられますが、講演では主にこれまで関わってこられた多くの活動について話されました。
佐野さんはホームレスを支援するためにビッグイシューを立ち上げたわけですが、皆がやっていない支援を考えたそうです。現在ホームレスの人々に自助、自立を促すために、路上で雑誌を販売してもらい、その売り上げの五十パーセント以上を彼らの収入にするという活動を行っています。
ビッグイシューには六つのコンセプトがあり、一つ目はホームレスに仕事を与え、明日につなげる。二つ目はものや金でなくチャンスを与える。三つ目は問題の当事者が解決の担い手になる。四つ目はビジネスの手法でもって社会にチャレンジする。これはビッグイシューがNPO法人ではなく、有限会社であるということと深く関わりがあります。五つ目はホームレスをビジネスのパートナーとする。六つ目は会社と平行してNPOを作る。
佐野さんがこのビッグイシューの構想を練り、他の人に話したところ、百パーセント失敗する、無謀だからやめておけと忠告されたそうです。
その理由としては①若者の活字離れが進んでいるので、主に若者を対象にした雑誌を販売するのは難しい、②イギリス等とは違い日本には路上で売り買いする文化が根付いていない、③インターネット等の普及により、情報はタダの時代という認識が広まっている、④売り手が可愛い姉ちゃんならまだしもホームレスでは誰も買わないだろう、といったものでした。
この緒問題に対し、佐野さんは一つ一つ答えていきます。
①に対して、近頃の若者は携帯等でよくメールを送って活字を使っている。②に対しては、もし大型書店で売れば埋もれてしまう。路上の人がよく通る場所の方が条件が良い。③に対しては、ビッグイシューは普段記者が書きたくても書けないことが載っており価値がある。そして④に対してはホームレスは足腰が強いので、路上で物を売るのに適している。
記者会見では内容もさることながら、やる気が伝わるととりあげるそうです。またテレビの方もホームレスをとりあげたいが、カメラで顔を写すのは難しい。だからビッグイシューを通してホームレスを報道出来る状況もマスコミがこの活動を大々的にとりあけた要因の一つだろう、と語られていました。
非常に精力的に活動されている佐野さんですが、最後の質疑応答でその活動の原動力はと尋ねられ、やりたいことをやることと自分の考えや思いにこだわることだ、と言われたのが大変印象に残りました。自分も同じ様な考えをもっており、自分にそれを言い聞かせ今まで奮い立たせてきたので、とてもその言葉には共感できました。己のやるべきこと、やりたいことを実践し、身を以て世の中にその重要性を伝えていければと思います。
また活動の中でお会いできることを楽しみにしています。
この佐野さんの講演についていつもお世話になっている市民事務局かわにしのブログでも紹介しています。ぜひまたご覧ください。エッグマンの簡単な自己紹介(〃∇〃) もあります。
ボランタリーライフ.jp版: 佐野さんについての記事。自己紹介。
今回、佐野さんは大阪ボランティア協会主催の関西NPO支援センターネットワーク(knn)第十三回研究会のゲストとして来られました。
佐野章二さんはビッグイシューの代表で、現在はホームレスの支援を精力的に行っておられますが、講演では主にこれまで関わってこられた多くの活動について話されました。
佐野さんはホームレスを支援するためにビッグイシューを立ち上げたわけですが、皆がやっていない支援を考えたそうです。現在ホームレスの人々に自助、自立を促すために、路上で雑誌を販売してもらい、その売り上げの五十パーセント以上を彼らの収入にするという活動を行っています。
ビッグイシューには六つのコンセプトがあり、一つ目はホームレスに仕事を与え、明日につなげる。二つ目はものや金でなくチャンスを与える。三つ目は問題の当事者が解決の担い手になる。四つ目はビジネスの手法でもって社会にチャレンジする。これはビッグイシューがNPO法人ではなく、有限会社であるということと深く関わりがあります。五つ目はホームレスをビジネスのパートナーとする。六つ目は会社と平行してNPOを作る。
佐野さんがこのビッグイシューの構想を練り、他の人に話したところ、百パーセント失敗する、無謀だからやめておけと忠告されたそうです。
その理由としては①若者の活字離れが進んでいるので、主に若者を対象にした雑誌を販売するのは難しい、②イギリス等とは違い日本には路上で売り買いする文化が根付いていない、③インターネット等の普及により、情報はタダの時代という認識が広まっている、④売り手が可愛い姉ちゃんならまだしもホームレスでは誰も買わないだろう、といったものでした。
この緒問題に対し、佐野さんは一つ一つ答えていきます。
①に対して、近頃の若者は携帯等でよくメールを送って活字を使っている。②に対しては、もし大型書店で売れば埋もれてしまう。路上の人がよく通る場所の方が条件が良い。③に対しては、ビッグイシューは普段記者が書きたくても書けないことが載っており価値がある。そして④に対してはホームレスは足腰が強いので、路上で物を売るのに適している。
記者会見では内容もさることながら、やる気が伝わるととりあげるそうです。またテレビの方もホームレスをとりあげたいが、カメラで顔を写すのは難しい。だからビッグイシューを通してホームレスを報道出来る状況もマスコミがこの活動を大々的にとりあけた要因の一つだろう、と語られていました。
非常に精力的に活動されている佐野さんですが、最後の質疑応答でその活動の原動力はと尋ねられ、やりたいことをやることと自分の考えや思いにこだわることだ、と言われたのが大変印象に残りました。自分も同じ様な考えをもっており、自分にそれを言い聞かせ今まで奮い立たせてきたので、とてもその言葉には共感できました。己のやるべきこと、やりたいことを実践し、身を以て世の中にその重要性を伝えていければと思います。
また活動の中でお会いできることを楽しみにしています。
この佐野さんの講演についていつもお世話になっている市民事務局かわにしのブログでも紹介しています。ぜひまたご覧ください。エッグマンの簡単な自己紹介(〃∇〃) もあります。
ボランタリーライフ.jp版: 佐野さんについての記事。自己紹介。
2009/10/25のBlog
[ 23:19 ]
[ 不登校、引きこもり ]
10月14日に『不登校再考ー「学校と家庭の関係」を見直すー』という講義を聞きにいってきました。この講義はYMCA高等学校が主催し、講師は滝川一廣氏でした。
この講義の趣旨は一人一人の事例を見て不登校を考えていく、というものではなく、主に社会状況や学校の周辺の環境の変化が不登校“問題”にどう影響を与えてきたのか、ということでした。
今回は講義を元にそれを発展させ、自分なりの切り口で語っていきます。
この講義を通じて導かれた結論から言いますと、現代における不登校の主な原因の一つは、学校に行く意義を子供たちが問い始めた、ということです。
私も学生時代将来のことに思い悩んだ時期があり、学校に行く意味を深く考えた時期があります。その悩みの根底には自分がどうありたいのか、どう生きるべきであるのか、という問いがありました。そしてその時の苦しさや悩んだ経験が、カウンセリングを学び、不登校サポートのNPO活動に参加したきっかけになりました。
自分自身がそういう思いがあったので、不登校に対しても、ただ単純に学校に行くか行かないかに焦点を置くのではなく、まず一人一人の気持ちを受け止め、真摯に傾聴して意見をきくことが大切だ、という考えを持っています。これはカウンセラー云々ではなく、一人の人間としてそうありたいと思いますし、私自身も昔は何を望んでいたのか分からなかった時期もありますが、どんな意見でもしっかり聞いてくれる場があれば、という思いはありました。
ただ私はその他に社会状況やその流れの変化、歴史的背景等を見て分析し、マクロな視点で原因を探り、対策を練り行動していくこともそれに劣らず重要であると考えます。その意味で今回の講義は非常に興味深いものでした。
この講義の趣旨は一人一人の事例を見て不登校を考えていく、というものではなく、主に社会状況や学校の周辺の環境の変化が不登校“問題”にどう影響を与えてきたのか、ということでした。
今回は講義を元にそれを発展させ、自分なりの切り口で語っていきます。
この講義を通じて導かれた結論から言いますと、現代における不登校の主な原因の一つは、学校に行く意義を子供たちが問い始めた、ということです。
私も学生時代将来のことに思い悩んだ時期があり、学校に行く意味を深く考えた時期があります。その悩みの根底には自分がどうありたいのか、どう生きるべきであるのか、という問いがありました。そしてその時の苦しさや悩んだ経験が、カウンセリングを学び、不登校サポートのNPO活動に参加したきっかけになりました。
自分自身がそういう思いがあったので、不登校に対しても、ただ単純に学校に行くか行かないかに焦点を置くのではなく、まず一人一人の気持ちを受け止め、真摯に傾聴して意見をきくことが大切だ、という考えを持っています。これはカウンセラー云々ではなく、一人の人間としてそうありたいと思いますし、私自身も昔は何を望んでいたのか分からなかった時期もありますが、どんな意見でもしっかり聞いてくれる場があれば、という思いはありました。
ただ私はその他に社会状況やその流れの変化、歴史的背景等を見て分析し、マクロな視点で原因を探り、対策を練り行動していくこともそれに劣らず重要であると考えます。その意味で今回の講義は非常に興味深いものでした。
[ 23:00 ]
[ 不登校、引きこもり ]
学校に行く意義と言いますと何か哲学的な話になりそうですが、それは後のお楽しみにしておいて、まずは経済学的に、意義というよりも実際「なぜ学校に行くことが合理的であるのか」、或いは「なぜ合理的であると感じられる状況が生まれるのか」について考察します。
まず昭和22年に新しい教育基本法が施行された当初の子供の学校への長期欠席理由のトップ3は病気、経済的理由、親の不理解でした。この親の不理解とは学校側からの物言いであり、親からすれば食うにも困っているのに大事な働き手を長い間学校に預けることは「合理的」な判断とは思えなかったでしょう。
ではいつから学校に行くことが親たちにとって、或いは世間的に「合理的」なものになったのでしょうか。
六十年代、勉強すれば進学でき、それにより幸せをつかむことが出来るという世間の共通認識ができ、進学率が急速に上がり、それと比例するように長期欠席率が下がりました。このことから恐らくこの頃には学校に行くことは合理的であるという認識が世間一般に広がっていった、と考えられます。
ただ新しい概念(この場合、学校に行くことが良いことだ、得である)が古い概念(この場合、学校に行く必要なんかない、働き手を失って損である)にとって変わるには、それなりの理由が必要です。様々な理由が重なり関連しあったと考えられますが、大きな理由の一つとして考えられるのは経済復興でしょう。
経済復興が進み家計に余裕が出てきて、子供を学校にやれるようになったのが、まず一点。そして後にも個別に分析しますが、経済が発展し、工業化が進むにつれ農業や林業等の第一次産業からものづくりの第二次産業やサービス業の第三次産業に経済がシフトし、学校卒業者の就職口が急激に増えていったことが第二点。さらに豊かになるにつれ、医療状況や食料状況も改善され、三大長期欠席理由の一つ、病気(主に身体的な)による不登校が少なくなったことが第三点。
これらの理由が重なり学校に行く子供が増え、それが当たり前となり恒常化し、先程述べた「学校に行けば幸せになれる」という“神話”が生まれます。正にパラダイムの変化です。
経済や社会の変化は人々の認識や思考パターン、時には信念にさえも影響を与え、それをマスコミ等のメディアがさらに喧伝し、変容を強化していくという図式は今にも通じるものがありそうです。
しかしその後この“学校神話”にはその絶頂を迎えた瞬間に崩壊の兆しが現われます。
まず昭和22年に新しい教育基本法が施行された当初の子供の学校への長期欠席理由のトップ3は病気、経済的理由、親の不理解でした。この親の不理解とは学校側からの物言いであり、親からすれば食うにも困っているのに大事な働き手を長い間学校に預けることは「合理的」な判断とは思えなかったでしょう。
ではいつから学校に行くことが親たちにとって、或いは世間的に「合理的」なものになったのでしょうか。
六十年代、勉強すれば進学でき、それにより幸せをつかむことが出来るという世間の共通認識ができ、進学率が急速に上がり、それと比例するように長期欠席率が下がりました。このことから恐らくこの頃には学校に行くことは合理的であるという認識が世間一般に広がっていった、と考えられます。
ただ新しい概念(この場合、学校に行くことが良いことだ、得である)が古い概念(この場合、学校に行く必要なんかない、働き手を失って損である)にとって変わるには、それなりの理由が必要です。様々な理由が重なり関連しあったと考えられますが、大きな理由の一つとして考えられるのは経済復興でしょう。
経済復興が進み家計に余裕が出てきて、子供を学校にやれるようになったのが、まず一点。そして後にも個別に分析しますが、経済が発展し、工業化が進むにつれ農業や林業等の第一次産業からものづくりの第二次産業やサービス業の第三次産業に経済がシフトし、学校卒業者の就職口が急激に増えていったことが第二点。さらに豊かになるにつれ、医療状況や食料状況も改善され、三大長期欠席理由の一つ、病気(主に身体的な)による不登校が少なくなったことが第三点。
これらの理由が重なり学校に行く子供が増え、それが当たり前となり恒常化し、先程述べた「学校に行けば幸せになれる」という“神話”が生まれます。正にパラダイムの変化です。
経済や社会の変化は人々の認識や思考パターン、時には信念にさえも影響を与え、それをマスコミ等のメディアがさらに喧伝し、変容を強化していくという図式は今にも通じるものがありそうです。
しかしその後この“学校神話”にはその絶頂を迎えた瞬間に崩壊の兆しが現われます。
[ 22:59 ]
[ 不登校、引きこもり ]
1970年代に入り、進学率(高校)は90%を越え、不登校と強い関連性がある長期欠席率(以下長欠率)は過去最低となります。
こうして神聖“学校神話”帝国はその興隆を極めることとなるのです。
一部教育者や精神科医の定説で受験勉強や学歴主義に疲れて長欠率が増えたのではないか、という考え方があるそうですが、少なくともこの頃までは、進学率が増えるにつれ、長欠率が下がっているので、逆の結果がでています。
講師によると、精神科医等は実際に競争に疲れてへとへとになった子供を多く患者として見ているので、体感からそういう結論がでたのではないかとのことです。
ただし“受験勉強競争”が全く不登校と関係ないかといえば、そうとも言い切れません。多くの場合学歴主義に最初に影響を受けるのは親、又は保護者だと考えられます。
例えば一つの図式として考えられるのは、もし部分的に客観的、或いは非客観的であっても、受験の競争の勝者にならないと幸せになれないという考えが一般的であると仮定して、親や保護者は自分の意思というよりは、自身の育ってきた環境や外からの情報により、心の平安をかき乱され、追い立てられるように子供を勉強にせき立て、そしていうことを聞かないので、イライラしてまた不安をかきたてられ、子供を急かし……、という行動をとるとします。
そうすると子供の方は、勉強をする意義に疑問を感じているので、親に急きたてられると、反発し、不条理さに怒りを覚えますが、親に嫌われて喜ぶ子供は通常いないので、親の“いうことをきけない”自分を責めますが、なぜ勉強しなくてはいけないか納得出来ないので、いうことを聞いて勉強しても、エネルギーの使用効率が悪いので結果がでにくく、今度は“駄目な自分”を責め、疲れ果ててエネルギーとやる気が枯渇していき、またせかされ……。
この様に負のスパイラルが出来てしまうと、当事者は無自覚の内にこのサイクルを繰り返し、本人たちの意思と関係なくそのサイクルが自己生産され増強されて不登校につながっていくかもしれません。
さて話は戻りまして、70年代までは蜜月関係を続けてきた進学率と長欠率は75年を過ぎた辺りから、その関係を変化させていきます。
こうして神聖“学校神話”帝国はその興隆を極めることとなるのです。
一部教育者や精神科医の定説で受験勉強や学歴主義に疲れて長欠率が増えたのではないか、という考え方があるそうですが、少なくともこの頃までは、進学率が増えるにつれ、長欠率が下がっているので、逆の結果がでています。
講師によると、精神科医等は実際に競争に疲れてへとへとになった子供を多く患者として見ているので、体感からそういう結論がでたのではないかとのことです。
ただし“受験勉強競争”が全く不登校と関係ないかといえば、そうとも言い切れません。多くの場合学歴主義に最初に影響を受けるのは親、又は保護者だと考えられます。
例えば一つの図式として考えられるのは、もし部分的に客観的、或いは非客観的であっても、受験の競争の勝者にならないと幸せになれないという考えが一般的であると仮定して、親や保護者は自分の意思というよりは、自身の育ってきた環境や外からの情報により、心の平安をかき乱され、追い立てられるように子供を勉強にせき立て、そしていうことを聞かないので、イライラしてまた不安をかきたてられ、子供を急かし……、という行動をとるとします。
そうすると子供の方は、勉強をする意義に疑問を感じているので、親に急きたてられると、反発し、不条理さに怒りを覚えますが、親に嫌われて喜ぶ子供は通常いないので、親の“いうことをきけない”自分を責めますが、なぜ勉強しなくてはいけないか納得出来ないので、いうことを聞いて勉強しても、エネルギーの使用効率が悪いので結果がでにくく、今度は“駄目な自分”を責め、疲れ果ててエネルギーとやる気が枯渇していき、またせかされ……。
この様に負のスパイラルが出来てしまうと、当事者は無自覚の内にこのサイクルを繰り返し、本人たちの意思と関係なくそのサイクルが自己生産され増強されて不登校につながっていくかもしれません。
さて話は戻りまして、70年代までは蜜月関係を続けてきた進学率と長欠率は75年を過ぎた辺りから、その関係を変化させていきます。
[ 22:58 ]
[ 不登校、引きこもり ]
進学率は74年に90%を超えその伸びは緩やかになり、90%台で現在まで安定しています。一方長欠率の方はその辺りから増加していきます。それまでは進学率が高くなればなるほど、長欠率が減っていったのに、なぜ進学率がその限界に近いところまで到達してからは、逆に長欠率は増えていったのでしょうか。
この現象を見て、私の脳裏に浮かんだのは、アドラー心理学と需要と供給のバランスです。心理学と経済学という一見何のつながりもなさそうなものが、まるでデニッシュのように混ざりあいながら、作用しているように感じました。
まず需要と供給の視点から見ていきますと、進学率が90%以上となりますと、求職者のほとんどが高卒かそれ以上ということになります。つまり仕事を得るために学歴は“当たり前”で、そこからまた熾烈な競争が始まります。従って「とりあえず学校に行っていたら幸せになれる」という学校神話の一端は崩れ、段階的には「中学、高校に行くだけでは不十分で大学まではいかねばならない」に変容し、さらに「大学に行ってもまだ確実ではない」やら「大学院に行っても厳しい」とやらに変化していきます。
ただ複雑なのは、現代でも学校神話は部分的には有効で(というか少数ではない何人かの頭の中では事実)、その他にも“実力主義”だの、“生きる力”だの様々な概念と混ざりあい、鋼の錬金術師も真っ青のキメラ状態、昔風に言うとヌエのような状態に教育がなっている感があります。
学校と“生きる力”等の概念も面白いので後で述べるとして、今注目したいのは殆ど全員が高卒という社会状況が個々の心理状態にどういう影響を与えるのかということです。
この現象を見て、私の脳裏に浮かんだのは、アドラー心理学と需要と供給のバランスです。心理学と経済学という一見何のつながりもなさそうなものが、まるでデニッシュのように混ざりあいながら、作用しているように感じました。
まず需要と供給の視点から見ていきますと、進学率が90%以上となりますと、求職者のほとんどが高卒かそれ以上ということになります。つまり仕事を得るために学歴は“当たり前”で、そこからまた熾烈な競争が始まります。従って「とりあえず学校に行っていたら幸せになれる」という学校神話の一端は崩れ、段階的には「中学、高校に行くだけでは不十分で大学まではいかねばならない」に変容し、さらに「大学に行ってもまだ確実ではない」やら「大学院に行っても厳しい」とやらに変化していきます。
ただ複雑なのは、現代でも学校神話は部分的には有効で(というか少数ではない何人かの頭の中では事実)、その他にも“実力主義”だの、“生きる力”だの様々な概念と混ざりあい、鋼の錬金術師も真っ青のキメラ状態、昔風に言うとヌエのような状態に教育がなっている感があります。
学校と“生きる力”等の概念も面白いので後で述べるとして、今注目したいのは殆ど全員が高卒という社会状況が個々の心理状態にどういう影響を与えるのかということです。
[ 22:57 ]
[ 不登校、引きこもり ]
六十年代位までは進学率も少ない事もあり、その分高卒に“希少価値”があったと言えるでしょう。
そういった状況の時には、高卒には努力の結果の直接の“報酬”としての価値があります。つまりこの場合近い未来に高卒という“希望”があり、その過程の努力は「やり甲斐のある努力」となります。
では逆にもし高卒が大半の社会の場合はどうでしょうか。高卒に希少価値がなくなり、高校に行くのが当たり前、逆に行かなければ“おちこぼれ”になる、という理屈になります。理論上は希少性の面から言うと、少数派になった小卒、中卒の方が価値があるのですが、もし学校に長く行っている方が能力が高い、又は皆がそう信じる社会環境があると仮定すると、その中では「高卒でないとおちこぼれ」という観念が一般的になる可能性が高くなります。
ただそういう社会においては高卒は学校に行くことの直接の“報酬”としての機能は弱く、“希望”とまではいきません。そのかわりに、もし学校に行かなければ“おちこぼれ”になるという“不安”が生じ、その過程で払われる努力は「不安につき動かされた努力」となります。
一般的に「やり甲斐のある努力」は未来に希望があるので、辛くても耐えられる傾向があり、「不安におびやかされた努力」はおどされてしょうがなくやるので、長続きしない傾向があります。
つまりまとめると進学率の増加で高校に行くことが当たり前となり、学校に通うという労力の代償としての高卒の効果が相対的に減ったことで、学校に行くということが“希望”につながるという動機づけが、学校に行かないことに対する“不安”が動機づけにとってかわられた。そのことにより勉強などの学校での努力が「やりがいのある努力」から「不安におびやかされる努力」に変化し、努力が長続きせず疲弊していき、それが長欠率の増加の一因となり、現在にもその影響があるのではないか、というのが今回の論点です。
では次回は個々の心理、特にセルフイメージの観点から見て、この社会状況の変化がどのような意味を持っているのか考えていきたいと思います
そういった状況の時には、高卒には努力の結果の直接の“報酬”としての価値があります。つまりこの場合近い未来に高卒という“希望”があり、その過程の努力は「やり甲斐のある努力」となります。
では逆にもし高卒が大半の社会の場合はどうでしょうか。高卒に希少価値がなくなり、高校に行くのが当たり前、逆に行かなければ“おちこぼれ”になる、という理屈になります。理論上は希少性の面から言うと、少数派になった小卒、中卒の方が価値があるのですが、もし学校に長く行っている方が能力が高い、又は皆がそう信じる社会環境があると仮定すると、その中では「高卒でないとおちこぼれ」という観念が一般的になる可能性が高くなります。
ただそういう社会においては高卒は学校に行くことの直接の“報酬”としての機能は弱く、“希望”とまではいきません。そのかわりに、もし学校に行かなければ“おちこぼれ”になるという“不安”が生じ、その過程で払われる努力は「不安につき動かされた努力」となります。
一般的に「やり甲斐のある努力」は未来に希望があるので、辛くても耐えられる傾向があり、「不安におびやかされた努力」はおどされてしょうがなくやるので、長続きしない傾向があります。
つまりまとめると進学率の増加で高校に行くことが当たり前となり、学校に通うという労力の代償としての高卒の効果が相対的に減ったことで、学校に行くということが“希望”につながるという動機づけが、学校に行かないことに対する“不安”が動機づけにとってかわられた。そのことにより勉強などの学校での努力が「やりがいのある努力」から「不安におびやかされる努力」に変化し、努力が長続きせず疲弊していき、それが長欠率の増加の一因となり、現在にもその影響があるのではないか、というのが今回の論点です。
では次回は個々の心理、特にセルフイメージの観点から見て、この社会状況の変化がどのような意味を持っているのか考えていきたいと思います