教育についてーつれづれなるままに… *5* 人生を楽しんで礼節を知る

前回は「基本的な教育」を考える上ではインプットする能力とアウトプットする能力両方をみることが大事であり、さらにそのためには心理的要素、特にモチベーションに注目することが大切であると述べました。

 他者と友好的な関係を築くために、その前提として他者が喜ぶことを自分のことに喜ぶためにはメンタリティーや他者の気持ちになって考えられる力が必要となります。

 そしてそういう能力をつけるためには、いわゆる机の上の勉強ではなくてより感情的、実際的な学びが必要になるかと思います。

 例えば我々が他者に何かをして喜ばれれば、またしようとします。また逆に我々が他者から何かをされてお礼を言えば他者も喜びますし、我々も幸せな気分になります。

 この様な体験が重なれば他者と関わることにポジティブなイメージを持つ可能性が高まり、他者と肯定的に関わる回数が増えれば、他者と友好的に付き合う力やコミュニケーション能力が高まる可能性が高まります。

 そういうメンタリティーをつける具体的な例としては特に親や周りの大人が子供が何か好意をもってしてくれたことには「ありがとう」と言い、子供に対しても他者が彼、彼女に対して何かしてくれたら、感謝の気持ちを持つことの大切さを教え、ありがとうということを教えることは大切であると思います。ただ単純に礼儀作法だけではなく、その子供の社会(他者)に対する見方と行動に影響を与え、コミュニケーション能力の高さに関しても大きく関わってくる可能性があります。

 後教育においては子供(のみならず大人も)楽しみながら学ぶということも大事かと思います。今私は空手をしておりますが、所属する団体が今小学校で空いている体育館を使って空手教室をしています。その中で空手だけではなく、礼儀作法やその基となる人や物に対する感謝や尊敬の気持ちを体験的に学ばせるにはどうしたらいいか、という話になり、今一つの試みを団体でやっています。

 それは教室が終わった後の掃除の時間のモップがけで、かけっこのような形でよーいドンとモップをかけながら走らせるというものです。子供達はわいわい走りながらモップがけをしていきます。大人も参加しているのですが、大人もわいわい走ります。

 このように楽しさを通じて、公共の場を掃除するという体験を積み重ねていくということは、伝統的な礼儀作法のみならず、日本や国際社会の場においても活躍するために必要な公共の精神を育むことにも有効なのではないかと感じます。モチベーションに注目することも当然ながら教育において重要な要素の一つだと思います。

 ものを教える時は大人も子供に対して礼儀正しく教えるようにする。空手でも指導の時は厳しく教えますが、終わった後はお互いに正座をして向き合って頭を下げ、ありがとうございました、とお礼を言い合う。甘やかすのではなく、お互いに相手に対して尊敬の念を持つということは言葉だけではなく、行動や態度でもって示すことが重要です。

 大人の方の心構えという点で、子供を見ていて思うのは礼儀を教えればきちんとそれを理解し吸収しているということです。大人の方が爪の垢を飲まなくては思うくらいです。もちろんやんちゃなところもありますが、非常にまじめで優しい性質があります。子供たちがその性質を保持し続け、さらに社会に出るためには、大人の方が理性と優しさを持って、身をもってそれを伝えていくということが教育の中でも非常に大事な要素になるでしょうし、少なくとも人として社会を生き抜くためのメンタリティーを育むような指導法も「基本的な教育」の一部として考えていくことは重要になるでしょう。

当たり前ですが大人の世界でもこのことは大切です。さらに言えば子供は大人を見て育つ部分があるのですから、教育面から見てもまず大人は心魂をもって範を示す必要があるようです。

 例えば会社でも地域社会でもどのような場においても相手が何かミスをして叱る時にも感情任せに怒鳴るのではなく、きちんと理由を説明する、もし何か文句があるならば、こそこそと悪口を言うのではなく、誠実に堂々と意見を述べる、大人がこの様にお互いに尊敬の念を持ちながらも、自分の仕事や役割を果たし、自己主張する姿を子供に見せるということは百万語の言葉を使うよりも効果があるでしょう。それと同時に人生を楽しんだり、生き抜きをする姿も見せることも大事でしょう。そうじゃないとパンクしちゃいます。時には弱みを見せることも大事かもしれません。誰も完璧でないのですし、悩んだり苦しんだりします。だって人間damono。鉄腕アトムやあるまいし、常に清く正しく前向きには生きられません。

 後テクニック的な事を言うと良い所を見つけてとにかく褒めるというのが教育において大事なのかと思います。相手の悪い面ではなく積極的に良い面を探すという態度を大人が示すことで、子供も自然とその態度を習うようになれば御の字です。

 子供に対して(の前で)、あんたは○○だから、あの人は××だから、と決めつけるのもどうかと思います。相手がそれを聞いて傷つくかどうかも重要な問題ですが、その他に大人が無自覚に他人をある型にはめ込むことにより、子供も他人に対してそうしていいのかと思って、真似をする可能性もあります。

 あの人は日本人だから、外国人だから、女だから、男だから、巨乳アイドルだから、大学教授だから、虚弱体質だから、筋肉馬鹿だから等々その個人を深く知るのではなく、ある一定の類型、ステレオタイプをもって他人や自分をとらえるということには、特に無自覚でする場合には、ある一定の危険性があります。その危険性を伝えずにそういったもの言いをすることは注意が必要なように感じます。自分が偏見をもっていることを自覚して、それを公言しながら言うなら倫理的には多少ましかと思いますが(よほど明確に人を傷つける意図がなければ)、その場合は「ああ、あの人はあんな人なんだな。」という偏見を持たれる可能性はあります(笑)。言う側も受け取る側も人間の一面性だけを見るのではなく、多面的に見る姿勢の大切さを伝えていくことも教育の大きな柱かもしれません。

 さてここまで書いてくると子供より先に大人を教育しなくてはいけないという話になりそうです(笑)。もちろん私も含めてです。め〜んどくせ〜な〜、と思いがちな話ですが、普段の生活からそういうことを意識することが、自分自身の教育となり、まわりまわって子供にも伝わって、その教育にもつながるんだ(‾∇+‾)…とでも思わなければやってられません。お笑いの偉人が言われたように小さなことからコツコツと、ですかね。

 もちろん誰も完璧な「大人」などにはなれないかもしれません(特に私なんぞは…
ヘ(..、ヘ)☆\(゜ロ゜ )アカンがな)。ただやはり子供は大人を見て、それをモデルとして影響を受けるという要素も大きいので、その自覚をもってしかし誠実に、なるべく本音と建前を分けずに理性的でなおかつ融和的な態度をとっていくことが大事ではないでしょうか。品格と気品が大事ざます(@◇@;)

 皆が知恵を出し合って大きな意味での教育を考え実行に移していくのは重要なことですし、それ以前に教育は学校や家のことだけではなく地域全体のことだという意識を持つことも大切そうです。子供は社会のための財産でもあるので社会全体で育てるという相互扶助的な視点とその子の人生は本人のものなのだから好きなように幸せに生きてほしいという思いを合わせもった教育が必要かと思います。