不登校について—「不登校再考」の講義より *9*

戦後から現在までの産業構造の変化を見ると、大きく言って第一次産業(農業、林業等)から第二次(工業、建設業等)、そして第三次(サービス産業等)に移り変わっています。

 それぞれの特徴は、第一次産業は自然に働きかけ、第二次はモノに働きかけ、第三次は人に働きかけるという点です。

 長欠率が上がり始めた頃第三次産業(消費産業)の労働人口が50%をこえました。このことが人間関係や欲望に対する考え方も大きく変えていき、教育や学校に大きく影響を与えたのではないか、というのが今回の論点です。

 前回話したように学校には“勉強”以外にも、“社会性”を学ぶ場というイメージがあります。

 日本の従来の学校教育は集団教育の側面があり、一緒になって何かをやり、何かを得る、という雰囲気があります。例えば皆一緒に机を並べて一緒のことを学ぶとかです。

 その集団教育的性質は第一次、第二次産業には相性がよく、例えば田植えは皆で力を合わせなければ出来ないですし、工場でも協力しあいながらモノを作ります。つまり第一次、第二次産業が社会の主要産業であれば、学校の集団教育で得た“社会性”をそのまま活かすことができます。つまり学校教育は個人に「生きる力」を提供したことになります。

 会社は学校の延長上だという話をきいたことがありますが、これは逆に言えば学校で習った通りに振る舞えば、会社でも大きな間違いがないということになり、学校の“社会性”の教育が成功している状況とも言えます。

 ただ第三次産業が主要な産業であればどうでしょうか。

 第三次産業は一人一人の欲求により動いており、欲求が何かを読む能力のみならず、欲望や欲求を作っていき、それに働きかける能力が求められます。

 何か新しい欲求を作り出すためには人と同じ事をしていては駄目で、逆に人とは違う発想を持った人材が求められます。

 このことは学校が提供した集団教育による“社会性”の実社会での有効性を減らすのみならず、個々の子供の思考様式まで変える可能性があります。

産業構造の変化

社会環境や生活の変化

皆に合わせるのが偉い、という感覚や、一体感に対する喜びや意味を感じられない子供が増える。

学校に対しても、何でこんなことに参加しなければならないのか、と感じる。

 子供にとって主観的に(部分的に客観的にも)“無駄”であるならば、もはや学校に行く理由は行くことが「楽しいから」しかありません。

 皆さんお疲れ様でした。いよいよ次回が(おそらく)最終回です。

最後のテーマは「いじめについて」です。