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2009/10/25のBlog
社会状況の変化を“勉強”に当てはめてまとめると、

七十年代を過ぎて、学校が理屈抜きで大事なものだという共通前提が崩れる

わからない事を聞いても意味があるのか、という問いが生まれ、最初に苦手だったり、つまずいたりするとすぐやめてしまう環境になる。

学力低下

という風になります。
 
 この時たとえ勉強がわからなくて苦痛でも、わからなくてもただ座っているだけでいい、という共通前提やすりこみがあればとりあえず学校には行くかもしれませんが、学校に行くことが当たり前になった頃からは子供も親も、そして社会もそれを認めません。

 講師曰く、教師の質の低下や親のしつけ以前に学校に意味を見出だせない環境が大きな要因。昔もいじめや勉強が苦手な子は多かったが、学校に行くこと自体意味があるという神話があったので、すぐ学校に行かなくなるという行動に結びつかなかった…

 さて少し見方を変えて、学校に行くことは「勉強」するだけではなく、団体生活をすることによって「社会性」が身につく、それは学校に行く「価値」や「意義」にはならないのか?という質問をされる方もいるかもしれません。

 特に現代では「生きる力」が大事だから、学校でもそれを教えることが大事だ、という話を聞いたことがあります。

 この論の一番の問題点は、「生きる力」とは何か?ということです。さらに誰がそれを定義するのか、ということも重要です。

 「社会性」というのも個人や時代によって相対的ですし、「生きる力」に至っては「愛の力」とか「長州力」のように具体的には何の力か不明で、それだけでは何が言いたいのか分かりません。

 何を以て「生きる力」とするかは、億万個の意見があるでしょうが、とりあえず生きるためには仕事をしてお金を稼ぎ、ご飯を食べることが大事だ、ということは一定の理解を得られると思うので、仕事をする力を「生きる力」と定義してみます。

 「仕事をする力」はその時、その場の主要産業の内容によって、大きく影響をうけると考えられます。

 というわけで次回は産業構造の変化について見ていきます。

さあいよいよこの連載もフィナーレが近そうです(/_;)
戦後から現在までの産業構造の変化を見ると、大きく言って第一次産業(農業、林業等)から第二次(工業、建設業等)、そして第三次(サービス産業等)に移り変わっています。

 それぞれの特徴は、第一次産業は自然に働きかけ、第二次はモノに働きかけ、第三次は人に働きかけるという点です。

 長欠率が上がり始めた頃第三次産業(消費産業)の労働人口が50%をこえました。このことが人間関係や欲望に対する考え方も大きく変えていき、教育や学校に大きく影響を与えたのではないか、というのが今回の論点です。

 前回話したように学校には“勉強”以外にも、“社会性”を学ぶ場というイメージがあります。

 日本の従来の学校教育は集団教育の側面があり、一緒になって何かをやり、何かを得る、という雰囲気があります。例えば皆一緒に机を並べて一緒のことを学ぶとかです。

 その集団教育的性質は第一次、第二次産業には相性がよく、例えば田植えは皆で力を合わせなければ出来ないですし、工場でも協力しあいながらモノを作ります。つまり第一次、第二次産業が社会の主要産業であれば、学校の集団教育で得た“社会性”をそのまま活かすことができます。つまり学校教育は個人に「生きる力」を提供したことになります。

 会社は学校の延長上だという話をきいたことがありますが、これは逆に言えば学校で習った通りに振る舞えば、会社でも大きな間違いがないということになり、学校の“社会性”の教育が成功している状況とも言えます。

 ただ第三次産業が主要な産業であればどうでしょうか。

 第三次産業は一人一人の欲求により動いており、欲求が何かを読む能力のみならず、欲望や欲求を作っていき、それに働きかける能力が求められます。

 何か新しい欲求を作り出すためには人と同じ事をしていては駄目で、逆に人とは違う発想を持った人材が求められます。

 このことは学校が提供した集団教育による“社会性”の実社会での有効性を減らすのみならず、個々の子供の思考様式まで変える可能性があります。

産業構造の変化

社会環境や生活の変化

皆に合わせるのが偉い、という感覚や、一体感に対する喜びや意味を感じられない子供が増える。

学校に対しても、何でこんなことに参加しなければならないのか、と感じる。

 子供にとって主観的に(部分的に客観的にも)“無駄”であるならば、もはや学校に行く理由は行くことが「楽しいから」しかありません。

 皆さんお疲れ様でした。いよいよ次回が(おそらく)最終回です。

最後のテーマは「いじめについて」です。
これまで社会状況の変化により、学校に行くことや学校の中での活動(主に勉強)に意義や意味を見つけられなくなった、ということを述べてきました。その結果学校に行くための理由として、何か楽しいこと面白いことを見つけ作ろうとする、その一つがいじめなのではないか、という考え方を見ていきたいと思います。

 遊びやゲームといじめの境界線が薄くなると、対象はだれでもよくなり、従ってその場の雰囲気で誰でも“被害者”になる可能性が出てくる。そのことによって常に子どもたちは激しい緊張と隣り合わせで学校生活を送らねばならないのではないか、ということです。

 こういった状況で前の方で取り上げた「不安におびやかされた努力」を強いられる勉強をしに学校に行くのかと思うと、想像するだけで身を引きちぎられるような気持ちになります。もちろん程度の差もあるでしょう一概には言えないでしょうが、余程運が良いいか、他にすごく幸せなことがなければやってられません。あまり講義から脱線してはいけませんが、私見では今まで挙げたような状況で学校に行くためには、意識的、無意識的に思考停止状態にしなければ難しいのではないかと感じます。*7*で取り上げた「学校に行くのが大切だ」教も現在では無理やりに学校に行く(行かせる)ための自己暗示のために使われているのではないかと推測してしまいます。

 話を戻して、講師によると昔はいじめも対立関係にあって勝者が敗者をいじめているという図式だったそうですが、今は遊びやゲーム感覚なので、あまり対立はないかわりに自尊心が傷つけられる、ということです。

 例えるなら体を少しずつ切り刻まれていく感覚というのでしょうか。

 講義の最後は教師の話でした。昔、学校が大切なものだという感覚があった時には、教師には「理屈抜きの権威」があった。今はそれがないので教師は子供と距離を詰めていこうとするので、「友達のようになる」傾向が強いそうです。これを突き詰めていくと、「友達」ならば教師もいつもいじめの被害者になるかもしれぬ不安を感じるかもしれず、時には(可能性の話ですが)いじめに加わることもありうるかもしれません。

 昔の先生は権威という下駄をはかせてもらっていたが、今の先生にはそれがないので、より困難な状況に置かれている可能性は高そうです。ただ今も昔もいじめに対処したり、いわゆるお“勉強”ではない学問や個人の信念を伝えるためには、先生(のみならず周りの全ての大人)の姿勢と惻隠の情の重要性は変わりません。といえども今の社会状況からみても今の先生の御苦労は察して余りあるものです。

 今回は最終回ということもあり、多少感傷的になってしまったのか、センチメンタルな部分も多くなってしまいましたm(__)m。この他にも情報量の変化や価値観の多様化、コミュニケーションについて等々、取りあげて結びつける話題はたくさんあるかと思いますが、一応流れは今回の講義に沿うということで、今はとりあえずここで終わりにして、また別の時に細かく論じて、それを今回の話とつなげていくという形をとっていきます。

 では次回はあとがきです。
今回は10月14日にあった『不登校再考ー「学校と家庭の関係」を見直すー』という講義を聞き、それをきっかけにこの連載を書き始めました。そこで感じたことやメモをとったことを使い、それに自分の分析や意見などを加えて書いた故に、当然ながら元の講義の内容と私の文の内容は誤差があると思いますので、その点はご了承いただきたいと思います。

 ではなぜそういう形式で書いたかというと、この「不登校」というテーマについて語ろうとすると、このテーマは様々な要因が複雑に関連しており、またそれをどの立場でどのように語るかで全く内容も変わるので、いきなり「不登校とはこういうものである」という風にまず全体を抑える書き方をせずに、一つずつ穴を埋めていくようにこのテーマを扱っていくためです。今回はこういう視点で書きましたが、また違う視点や論点で書いてゆき、そして書いたものをまたその後に深く突っ込んでいくという作業を続けていきます。

 基本的には物事を断定したり、決めつけたりするのではなく、なるべく幅広い視点で見ていくことを心がけるようにしています。もちろん様々な推論を立て一定の結論は出ることもありますが、それもまた論議の対象となります。自分の考えや意見というものはありますが、排他的な態度を取らずに、全く異なる考えや意見にも類似点や相違点を見ていき、より発展的な議論をしていきたいと思っています。

 不登校に関しては生まれつきのものが主原因ではなく、周りの環境や社会的な要因が関連しあって、生まれつきの(生得的)もの(性別、体格、性格など)もそれらと互いに影響しあっておこる現象だ、との考えを持っています。他の社会現象(例えば差別や格差等)もそうやって発生するものだとの認識です。従って「不登校」というのは特殊な現象でなく、社会的に見てそれなりの必然性を持った出来事であるという見方を持っています。

 ただ一方、原因が何にしろ傷ついている人に対しては、まず理屈よりもしっかりと寄り添って、その思いをしっかりと聴くということが何よりも重要であると思っています。皆それぞれ違った個性や経験を持っているのだから、社会がどうあれ一人一人のアイデンティティを尊重することは大切です。

 皆がお互いに尊敬の念を持ち、思いやりの気持ちを持った社会であればいいのにという思いはかなり前から持っており、今もそう思っています。しかしそのためには社会の個々の現象がなぜ起こったのかという分析も、同時に行う必要があると感じています。

 何事においても道は険しくてどんなに苦しくても、どこかに必ず希望はあるものだとも信じています。別に大した根拠はありませんし、常に絶望と隣り合わせでありますが。常に謙虚な気持ちを持って、己を奮い立たせて前に進んでいく他はありません。

 最初の記事にも書きましたが今回は、子供が学校に行く意義を感じられなくなった、ではそれはなぜなのか?という問いを、社会状況の変化と歴史的背景をもとに探ってきました。基本的には子供(学生)の側に立って、社会の変化にどういった影響を与えてきたか書いてきており、親やその他の大人たちの意識や心理の変化の考察は今回不十分だったので、それもまた他の機会に考察してみたいと思います。また一人一人の思いや私自身の考え、対策や対処法といったものも今回主軸にはおかなかったので、これもまたおいおいやっていきます。とにかくまだ始めたところなので、書いていてもツッコミどころはたくさんあり、いろいろと検証し、さらに深く考察して付け加えなければいけないと思うところは多々ありましたが、一つ一つ積み上げていきたいと思います。

 今回の連載では、他の不登校関係の文に多く見られるようないわゆるメッセージ性はあまりありませんでしたが、あえて挙げるとすれば…
 
 私や他の多くの人もそうかもしれないが、どうしても絶望したり元気を失っていたりすると、問題の原因を自分自身や周りの近くの人や物に置きがちになる。それもまた一つの見方で、真実の中の一つかもしれないが、今自分の周りで起こっていることは決して自分だけのせいではなくて、社会的なものも大きく関わっていて、同じような考えを持って同じような気持ちで日々過ごしている人も多くいるかもしれないよ。
 
 …みたいなものかもしれません。これは不登校関係者だけではなく、老若男女全ての人に向けたものです。私自身も皆と同じように日々闇の中でもがきながら、何かを探している一人の弱い不器用な人間なのだと思います。

fin
2009/10/22のBlog
[ 20:59 ] [ 市民自治 ]
10月4日に自治の学校が始まりました。

 これは大阪ボランティア協会が主催する講座で、四回に分かれており、今回はその一回目の「民主主義と市民自治」に行ってまいりました。

 今回の講座は前半と後半に分かれている構成で、前半は講師の岡本仁宏さんの講義中心で、後半はテーマごとに小グループに分かれてセッションを行い、それを発表するというものでした。なおこの前半は講義で公判は参加者による話し合いという形式は四回を通じて行われるそうです。

[ 20:16 ] [ 市民自治 ]
前半の講義ではまずそもそも民主主義とは何か、というところから話が始まり、講師が参加者に自分が民主主義者だと思う人に挙手させるという場面もありました。
 
 私は民主主義信奉者ではなく、民主主義にも様々な問題があり、それを批判しながら幅広い視点を持って先を見据えた制度を構築していく必要がある、という考え方をとっていますが、この時は挙手しました。
 なぜなら他の主義や政治システムもその利点と問題を併せ持っており、歴史的にも今は民主主義に変わる有効なもの、代替案がないという点と、皆が自分の頭で考えて、それを表現し、話し合って、制度を変えていくやり方が大きな目で見て、民度や人材の底上げになり、社会の発展につながるという考えを持っているので、まあどちらかといえば民主主義者だろうな、と思い手をあげた次第です。

 そこから「市民」とは何か、という話にうつり、トクブィルTocquevilleの「臣民」と「市民」の話等が出ました。簡単に要約すると、自分のことは自分で決めて、自分と公を切り離さずに、社会の利益を自分の利益のように考えているのが「市民」で、社会に対し帰属意識はなく、改善しようとしないが、何か自分に危機がおきれば国が助けてくれることを期待し、普段は小役人にペコペコし服従しているが、支配されている力が弱まると、法律さえ破るようになるのが「臣民」です。トクビィルはフランス人ですが、当時のフランス人は臣民である、と批判しています。今の日本人は市民でしょうか、臣民でしょうか、それとも第三の民でしょうか。
 
 その後に市民社会の定義の変化に話が移りました。古代においては市民社会は国家と同義語でした。近代において市民社会は社会マイナス国家で経済+αでした。現代においてはさらに社会から国家と経済を引いたものになって、時代と共にスリムになっています。
 
 最後に講義の意義とまとめとしては、やはり「市民」にしろ「民主主義」にしろその言葉をしっかりと使われ方や意味の変化を歴史を学び、知ることが大事だということと、市民や市民社会という言葉を現代において、どういう意味付け発展させていくのかという話になり、後半の市民社会をテーマに各論について話し合うセッションに移ります。

講座の後半へ行く前に民主主義についてつれづれ探求をぜひ見て下さい
[ 19:32 ] [ エッグマンのつれづれ探求 ]
私はいかなる主義やシステムにもその良い点悪い点、強み弱みがあるので、例えば民主主義に関しても、是々非々で考えることが大切である、と「民主主義と市民自治」前半の部分で述べました。今回の講義(或いはこの講座全体)においての大きなテーマの一つは、市民自治をいかに深めるか、ということであり、民主主義を単純に肯定するだけでは不十分であると考え、それに対する批判を過去の賢人たちの言葉を借りながら、つれづれなるままに行ってみます。重要な単語や日本語では少し使われている概念や意味が違う言葉は外来語で表記することもあるかと思いますが、私は長い間日常スペイン語を使っていたこともあって一番慣れ親しんでおり、むしろ哲学や社会学等の学問はほとんどスペイン語で学んできていますので、ほとんどスペイン語で、ときどき英語か原語で表記させてもらうかと思います。この機会にスペイン語に触れていただいて、興味を持っていただければこれ幸いと存じ上げます。

 まず民主主義の批判者の代表格といえばギリシャの哲学者アリストテレスAristótelesです。スペイン語で貴族政治、寡頭政治主義者のことをaristócrataという位なので、一般的にアリストテレスは少数者の優秀な人々に政治を任せるべきだというエリート主義者に分類されているといっても良いでしょう。

 さらに彼の師匠格にあたるプラトンPlatónも政治はもっとも優秀な人々、彼によると、哲学者たちに任せるべきだと言っています。プラトンは人々の階級を三段階にわけ、一番上が哲学者、二番目が戦士、そして一番下がその他の庶民で、なぜ哲学者が一番上なのかというとそれはidea(絶対善)に一番近いからだということです。このideaに近付くためには善い心と体が必要で戦士は体は鍛えているので、後は善い心と知恵があれば哲学者になるチャンスがあります。プラトンは身体はideaに近付こうとする魂(alma)の牢屋であると考え、その魂の妨害者である身体の欲望や感情に支配されているのが一番下の庶民、田吾作、般ピーなのであるとおっしゃっています。

 プラトンは三に分けるのが好きなようで、身体も三つに分け、一番目が頭、二番目が胸、そして三番目が腹です。お解りのようにそれぞれ哲学者、戦士、庶民に該当し、世界のナベアツさんのネタと同じく三が一番アホです。
[ 19:03 ] [ エッグマンのつれづれ探求 ]
プラトンとアリストテレスは基本的に仲は良くないのですが、いわゆる民主主義は最悪のオプションであるという点で意見は一致しています。

 アリストテレスは審議と採決に関する公職に参与する資格のある者が「市民」であると述べ、その集合体が国家であるとしていますが、奴隷等は入っていません。当時のギリシャの感覚から言って原則奴隷、外国人、そして女性も「市民」ではありません。つまり政治に関与するのは資格のある本当の「市民」のみにしろ、という理屈になります。

 プラトンはさらに「自由」に対して危険を感じており、「自由」が高まれば高まる程「隷属」が高まる、と警鐘を鳴らしています。つまり自由が過ぎるとほんのちょっとした抑圧にも耐えられなくなり、法律さえも守らなくなる。なぜ「自由」が「隷属」につながるのか一見すると分かりにくいかもしれませんが、理性(西razón)無き民衆による政治は衆愚政治で、正に感情や欲望に支配されている身体に、善である魂が閉じ込められている人間と同じになる。理性という翼を無くし、魂は身体という牢屋に閉じ込められている、という状態をイメージすれば、ブラトンと共感しやすいかもしれません。

 面白いことにこの愚衆の概念とトクビィルの臣民の概念が瓜二つです。いかにプラトン、アリストテレスが長い間西洋の哲学に与えたか、そして彼らの洞察力と分析力がハンパねーかをあらわしています。

 私個人はプラトンを非常に優れた、そして鋭い人だと思っていますし、考え方は全否定せずに、むしろ賢人である彼の説を適用しながら話を進めたほうがより逆にこれからあるべき民主主義の形が見えてくると思います。

 はっきり言って現代は権力者も含め我々の様な愚衆が大半を占めており、これはいくらプラトンが嘆いても現実なのでどうしようもありません。ではどうすれば衆愚政治を防げるかというと、我々が努力して“哲人”に近付いていくしかないという結論になります。大多数や権威に惑わされず、おのおのが幅広くものを見、しっかりと考え、行動すれば理性を失う可能性は減るでしょう。後プラトンはideaに近付くためには理性の他に愛(西amor)が不可欠であるといっています。日本風に言うと知性や理性の他に思いやりの気持ちも大事やで、という感じでしょう。孔子も仁義礼智という風に思いやりを一番上においていますし、その感覚は日本人は理解しやすいでしょう。思いやりのある社会というやつです。意味は若干違うでしょうが友愛社会って言っている人もいます。

 こうやって考えてみると、理論上はもし皆がちゃんとした理性ある「市民」になればプラトンやアリストテレスの心配したような衆愚政治にはならない、ように見えます。ではそのようになるには、我々はどうしたら良いのか、それはまたつれづれなるままに探求して、述べていきたいと思います。

「民主主義と市民自治」後半へ

自治の学校について最初から読みたい人は
さて後半はいくつかのテーマに分けて、小グループごとにテーブルに別れ話し合いました。

 テーマの中では「民主主義と愛国心」というのにも非常に興味をもち、激しく論じてみたいと思いましたが、やはり初回は自分にとってベタな「教育と市民自治」から始めてみようと思い、テーブルにつきました。

 他のメンバーの方は教育関係やその他の市民活動や仕事をされていて、それらの体験等から様々なお話を聞かして頂きました。私も体験等を交えて、皆と市民教育はどうあるべきか論じました。

 そしてそのセッションの時間の後に各グループから代表を選び、プレゼンテーションをしました。最初私たちのグループからは誰も名乗りあげなかったので、何故か一番年の若い人が出るということとなり、私が(他にもっと若い人が潜んでいたかもしれませんが)手を挙げることになりました。

 私は実は笑いの勉強をしていたことがあり、舞台に出た経験もあるので、そのこともあって真面目にメッセージを伝えるのは当然だが、前にでて発表する限りは笑いをとらねばならない、と自分に変なプレッシャーをかけ、緊張の面持ちのまま発表に臨みました。
発表の仕方として、まず市民教育に関してはいくら話しても、結論がでない、後に残るのは絶望ばかりだ、と言い、観衆のこうくるだろうとの予想を裏切り少し驚かしました。笑いの見地から言うと、裏切りの笑いというやつで、少し深刻に滑稽に言ったのでほんの少しうけました。
 
 そして近頃の若者は無気力で何もやる気がない、と誇張を交えて話しました。若干笑いがおこりましたが、これは若者が若者批判をすることに対する面白さからでしょうか。はたまた年配の方が多かったので意見に対する共感の笑いと若者に対する多少の蔑みと優越感の笑いでしょうか。(どうしても芸人癖からか笑いの分析をしてしまいますがお許しくださいm(__)m)
 
 まあ小笑いですが、作戦通りツカミは少し成功したので(失礼!)、次は他の参加者の話を引用し、果たして若者だけがそうなのか、という点に着目しました。

 具体例から、例えば介護のサービスをNPOから受けているご老人たちは、サービスを受けるのが当たり前になり、文句は言うが出来る限り積極的に市民活動や社会活動に参加して、自分たちの環境を改善しようとはしない。主婦たちはボランティアに参加する際に育児サービスが無料でついていないと文句を言い、これは権利だからといって、NPO団体の事情も考えずに育児サービス料の六百円を払おうとしない。まだ地域によっては地域のドンと呼ばれる人たちが、いい大人なのに既得権益と自分たちの意地のために、変化を望まず、地域の市民自治の流れを阻害している。
 
 こうやって見るとひょっとすると日本全体が自分のことばかりを考え、他者を思いやらず、「市民」という感覚が欠けているのではないか、という論調になり、ではそういう状況においてどういった市民教育が必要でまた効果的なのかという話になってきます。

 その前に、笑いの山場を作っておこうと試み、日本人皆がそうだ、というのを表現するのに、かの有名なドリフの大爆笑のテーマをオマージュし、♪じぃさん、ばぁさん、パパにママ♪みんな人任せだ、といったのですが、ちょうど痰が詰まってしまいあまり声が出なかったのと、少し観衆の予想を裏切り過ぎたこともあって、笑いがおきなかったことが心残りです。
 
 ただその後に、皆自分の権利を主張するクレクレタコラだ、と発言したところ、意外な笑いがあったので、クレクレタコラが一般的に認知されている(多分)ことを発見しました。しかし笑いの世界は深いです。(後で調べてみますと、ご存知の方もおられるかもしれませんがクレクレタコラは昔のテレビ番組でした。私はある社会学者が言っていたのを聞いて引用したのですが、彼もまたその番組がら引用したのですね。)

 本当に色々話し合ったのですが、短い時間では市民教育をどうするのかという結論が出なかったので、とりあえず市民の日常生活とより結び付いた市民教育や、質やレベルを下げずに、面白くて分かりやすい市民教育の構築が必要だとまとめました。この経験を活かして、次回からセッションの段階から意識を変えて、より良いプレゼンが出来ればと思いました。笑いの面でも納得がいかなかったので磨いていきたいと思います。

 自治の学校に関してはまた報告します。

自治の学校の最初に戻る

2009/10/14のBlog
[ 16:13 ] [ 活動 ]
9月30日にシチズンシップ共育企画主催のファシリテーション講座に行ってきました。

 この講座では「ファシリテーターを解体する」と題して、2009年にシチズンシップ共育企画が行った基礎、中級、上級のファシリテーション研修の総括と反省点を話し合いました。

 私はその研修には参加しなかったのですが、今後ファシリテーションは教育や政策提言等幅広い分野活かせるかと思い、この講座に参加しました。

 ファシリテーションについて自分なりの説明を行うと、これを行うのがファシリテーターで、このファシリテーターがワークショップ等で双方向の学びを演出する。つまり講演会の様に講師が一方的に情報を与えるのではなく、参加者も積極的に意見を述べそれを皆でまとめることをサポートすることがファシリテーションの特徴といえ、ファシリテーターとしては皆が自由にそして積極的に意見が言えるような雰囲気づくりをすることと、それと同時になるべく全ての人が均等に発言できるように時間配分をして、まわしていくことが大切になってきます。
 ちなみにスペイン語で「ファシル」(fácil)という単語があり、簡単な、とかやさしいという意味がありますので、個人的にはファシリテーションも複雑で難しい問題をわかりやすく簡潔にしていく、というイメージがあります。

この技術はこれからの中学、高校等の教育現場でも取り入れられると予想され、実際主催者側もその年代が対象の講師等が多く来るかと予想していたのですが、当日は大学の講師等が多く来たそうで、驚かれたそうです。
この三回の研修の反省点としては、詰め込みすぎ、講習の後のふりかえりが丁寧でなかった、ふりかえりの中で客観的な情報提供が少なく主観的な意見が多かった等があげられました。

 これからの教育においては、青少年のみならず、大人も自分の頭で考え表現する能力の育成が重要となり、また市民全体でより自立的で自律的な社会を築いていくためにもそのことが鍵になります。相互的な教育の必要性は今後ますます増えていくでしょう。
2009/10/10のBlog
光陰矢の如しのごとく、忙しくて更新ができない間に、10月になりました。9月の活動の報告をいたします。遅筆をお許しください。

 9月29日にボランティアとして市民事務局川西主催の市民力アップ交流会のサポーター、そして参加者としてワークショップに加わりました。

 合計20人の方が集まり、それぞれ団体の説明や日頃の活動の様子等を話し合い、意見交換や交流を行いました。

 今回は主に地域に密着して活動されている団体も方が多く来られて、身近にある問題を解決したり、地域の伝統や文化を守り発展させたり、大学生のボランティア活動を推進させる等、幅広い活動をされていました。

 皆さんとてもたくましく現実に対処され、夢や志をもって活動し、さらに日々を楽しむ事を大切にされているように見え感服しました。
同時に多くの団体が資金不足、人不足に悩んでいるという問題が浮き彫りになりました。
 少しでもこの問題を改善するための方法の一つは、より多くの団体が連帯しあい相互補完しあうことです。一つの団体や個人では出来ないことでも、まとまると出来る事もありますし、特に情報の交換、共有が大事で、日頃から連絡を取り合いより多くの情報を得られるようになれば、どの団体にとっても活動の機会や幅が増え、成長につながるでしょう。

これからもネットワーク作りのための活動を積極的にサポートし、さらに自ら立案、企画し、多くの人と共に活動を行っていきたいと思います。
2009/09/22のBlog
代表者の思い

 私は家の事情で海外に約九年滞在した経験があり、アルゼンチンの大学で心理学を学んでいました。海外で様々な体験をし、また日本の状況を見聞きするうちに、何か公のために働きたい、世界に名だたる伝統と歴史とすぐれた能力と倫理観を持つ日本が世界に存在感を示し、また世界の平和と新しい発展のために他の国の模範となり原動力となるために奔走できれば、との思いがつのり、それが今回のNPO活動を始めるきっかけとなりました。

NPO傾聴について

 このNPO傾聴の“傾聴”の文字には、普段聞いてもらえない、無視されるような声、普段あまり表には出さない思いなどを真摯に聴くという意味を込めています。
 
 このNPOはもともと川西在住のキャリアカウンセラーの方と日本の現状について話し合ううちに生まれてきた構想が基となり出来ました。
 
 個人的には教育は国の根幹であり、特にそこを意識して活動理念と事業の構想を作りましたが、様々な意見ややりたいことを持った人たちと共に活動していきながら、また団体としてはまだこれから作っていき発展させていく段階ですので、かなり自由にそして柔軟に後述の計画中の事業以外の事業も企画していきたいと思っています。
 
 興味をもたれた方はぜひお気軽に声をかけてくださればありがたいです。

活動の目的

おもに青少年を対象とし、一人一人の思いや意見を聴き、自己実現のためのサポートをする。自分の頭で考え、主体的に行動する人材を育て、社会参加、社会貢献の機会を提供する。

計画している事業とその意義

① 心理カウンセリングとキャリアカウンセリングを組み合わせた相談事業を行い、一人一人の思いや考えを傾聴し、自己実現のためのサポートをする。
 

 もしも個々人が自分の興味のあることややりたいことを活かして働くことができ、モチベーションも高く持って活動すれば社会は活性化すると考えます。自分の好きなこと、やる意義を感じていることをしているのですから、個人の幸福度も高まりより融和的、生産的な社会になるはずです。
 
 しかしただ単純に夢や目標を持てというだけでは問題は解決しません。個々人が人生の目的や志を持てない理由は教育システムや社会全体の認識、経済状況などが深く影響しているからです。
 
 私は今家庭教師を派遣する塾でチューターとして小、中学生や保護者と関わりながら、家庭教師の研修なども行っていますが、小、中学生だけではなく先生を希望される大学生の人たちも将来の目標やどう生きたいかがまだはっきりとは定まっていない場合が多いように感じられます。これは個人の問題というよりは環境や習慣の問題であり、現行の教育システムが大いに関係しているのではないかと思います。
 
 今の教育システムでは多くの場合偏差値によって子供の学校が決められます。個人の意思よりもまずは良い偏差値を取るということが第一の目標となり、これはゆとり教育や他の種類の教育を行ったとしても、ベースとしてそのシステムがある以上その傾向は変わることはありません。
 
 そして大多数がその中で競争しているのだから個人もそれに従わなければならないという“社会の常識”があるかの様な共通前提が生れ、それが陰に陽に個人に圧力をかけてくることになります。
 
 さらに志や目標を持つことの障壁としては経済状況があります。大きく分けると、まずは大きな目標に向かって教育を受けるための費用の問題とその後実際にその目標に沿った仕事で生活ができるか、の二つの問題があります。
 
 この教育と雇用、勤労の関係の問題は日本だけではなく外国でもあり、実際私が長く住んでいたスペインでも知人が大学の学科を選ぶ基準は、何がやりたいよりもまずどの学部が就職を得られやすいかであり、周りの他の友達も皆そういう基準で選んでいる、と言いました。日本にもこういう傾向があると思います。
 
 偏差値を基にした学歴が就職に影響を与える場合が大半であるならば、自分のやりたいことや志よりもそちらを先にクリアーしなければと思うのが合理的であるということになります。
 
 ただし経済の仕組みは変わりうるものです。例えば今は少子高齢化により福祉産業が盛んですが、これも人が余ってくれば仕事をすることは困難になるでしょうし、グローバル化が進み海外でつくられた安い商品の前では日本製の商品はなにか特別な付加価値をつけなければ売れなくなります。
 
 つまり個人もその場その場のシステムや社会状況に合わせた生き方よりも、むしろその時々のシステムや状況を冷静に見て、それを活かせるような能力が必要となります。さらにそういう個人が集まった国や社会は活性化し、世界をひっぱっていくでしょう。
 
 では既存のシステムやその変化に右往左往せず、自分で生活できるような個人に近づくにはどうすればいいのでしょうか。

 最初にまず自分の興味のあることややりがいのあることを考えて、それを検討、実行しながら自分の適性や好みを探っていくという方法がその一つです。これは日々の生活を送りながらできることですし、将来自分がやりたいことのために今の環境をどう利用し変えていくかを考えていくことになるので、大きな意味で社会のシステムと相反することにはなりません。逆に既存のシステムが多くの個人の幸せと相反する、又は時代に即していないという場合は、さらに踏み込んでそのシステムに疑問を呈することも必要になりますが、社会システムにどう向き合い対処していくかは事業計画③の方で述べたいと思います。
 
 この第一の事業の中ではただやりたいことをともに探していくのみではなくて、自分の頭で主体的にものを考え行動する能力を育むということも大切な目的の一つです。先ほど述べた経済状況の問題やその他の障害を乗り越えていくためにもこのことは大切で、今持っているリソースをいかに活かし、増やしていくのか、そしてときには初めに描いていた道のりとは違う方法で自己実現を図る決断をしなくてはいけない時もあるかもしれません。つまり経済的、能力的な理由などで“夢をあきらめる”判断をしなければならない可能性もあるわけですが、それは他人に言われてそうするのではなく、自分の意思によってすることが望ましい。そしてまたしたたかに方法を変えて、現実と向き合いながら一歩一歩最終的に自分の目標に近づけるようになればよいのだと思います。たとえ一時的に失敗したとしても一生懸命何かに打ち込んだということはその人の血となり肉となり、その積み重ねが本当の力になるのだと思います。

 次に、個々人の中だけではなく、そういう苦しみや楽しみを共感しあい、励ましあって助け合うような「場」が必要ではないか、との思いから次のような事業計画が生まれました。

② 他の個人、団体等と協力しあい、フリースペースやWeb等を使い、相互扶助と自己研鑽の精神を持った新しいコミュニティー、そして受容的で創造的な居場所を構築していく。

 この事業は、先ほど述べたような自分の目標が決まっていてそれに向かって日々奮闘している人もいれば、まだ何がしたいのかわからない人、とにかく誰かと接触したいという人等、幅広い人を対象に想定しています。

 つまりさまざまな個性や経歴を持った人々がそれぞれの目的そのときの状態に合わして活用できるような“場”を作りだせればと思っています。例えば同じ人でも本当に苦しくてどこにも行けないと感じている時には、誰からも自分の存在を否定されず受容される「居場所」、とにかく誰かと接したくて仲間を作りたいときには、楽しみを共感できる「交流の場」、自分の意見や芸術作品等を発表したいときには「表現の場」、自分の目標のために情報を得たいときには「情報提供の場」、等々、様々な人が様々な用途で利用できるような場を作っていきたいと思います。

 さらに他の団体や個人とも連帯し、普段は別々のコミュニティーや集団であってもつながりを持ち影響しあうインタラクティブな“場”の集合体の創造を目指していきます。

 何のためにそういうコミュ二ティーを作る必要があるのか。

 連帯することでより世の中に対し効果的に働きかけられる可能性が増えるからです。それにより実際に個人が自分たちの住む社会をより良くしくために影響を与えられるという自覚が出てくれば、一人一人が自分たちの行動と社会の関係を深く考え、より自律的な市民社会になります。少し話を大きくしますと、さらにそれが発展すれば日本発の新しい市民社会のモデルができ、世界に対して範を示し、経済的な意味だけでなく真の意味の先進国、国際社会のリーダーとして世界の発展に寄与することが出来るならばこれほどの痛快事はありません。

 さて先述しました社会システムやその問題に対する姿勢としては、やはり個々人が議論を尽くし、積極的にメッセージを発して世の反応を見るということが大切になってくるかと思います。NPO傾聴の第三の事業計画はその趣旨に沿って作りました。

③ 若者を中心に主に気軽に参加できる討論会、座談会を行い、その結果を政策提言等の形で世の中に提示し、公のために声をあげアクションを起こす意識を高め、さらに実際に世の中に影響を与える機会を作る。

 これらの事業のほかにも、新たにメンバーになられる方の意見を積極的に取り入れて、ともに活動をしていきたいと思っています。

メンバーやサポーターを募集していますが、ただ話をしてみたい人も大歓迎です。教育問題、NPO、社会起業に興味がある人、何かしたいけどまだはっきりしたい人、将来どうすればいいかわからない人等、どなたでも大歓迎ですので、興味をもたれた方はお気軽にご連絡下さい。

またほかの団体や企業、公共団体とも連帯し、意見を交換して、よりよい社会を作るために活動を行っていきたいと考えていますので、団体や企業の方も先述の事業の構想に興味をもたれた方はご連絡ください。

 連絡先: npokeichou01@yahoo.co.jp
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